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【書評】フリースタイル「49冊のアンアン」編集者が振り返る伝説の雑誌

『アンアン』が好きすぎる!

『アンアン』の歴史を知りたい!

『アンアン』の思い出に浸りたい!

そんな方には、椎根和さん『49冊のアンアン』がおすすめ。

出典:Unsplash出典:Unsplash

Contents

『49冊のアンアン』とは?

本作『49冊のアンアン』は、『アンアン』創刊号から49号までを克明に振り返った、『アンアン』の歴史書です。

なぜ、49号までかというと、神様のようなアートディレクター<堀内誠一>が『アンアン』で仕事をしたのは、第49号までだったから。

初期『アンアン』の誌面作りは、AD堀内誠一の力によるところが大きかったんですね。

『アンアン』の歴史を振り返るのは、当時編集部内で一緒に仕事をしていた椎根和さん。

つまり、本作『49冊のアンアン』は、当時の編集部員が、堀内誠一というADに焦点をあてて、初期『アンアン』の歴史を振り返ろうという雑誌なのです。

出版社はフリースタイル。

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『アンアン』とは?

創刊当時の『アンアン』のコンセプトは、日本最初のヴィジュアル・ファッション・マガジン

写真中心の欧米風ファッション誌として、『アンアン』は日本で初めての雑誌だったんですね。

この構想は、アメリカのファッション誌『セブンティーン』編集部を訪問したときに生まれたそうです。

ちなみに、発案者は、平凡出版(現在のマガジンハウス)副社長・清水達夫さんでした。

堀内誠一とは?

ところで、「スーパーADの堀内誠一って誰?」と思った方も、きっといますよね。

堀内誠一さんは、若干14歳で新宿伊勢丹百貨店宣伝部に入社して、伊勢丹PR誌『伊勢丹ブーケ』の製作などに携わったアートディレクターです。

『アンアン』の誌面構成は、堀内誠一さんによってディレクションされていて、当時の若い世代に「ヴィジュアル・ショック」という新しい快感をもたらしたと言われています。

『アンアン』創刊当時、堀内さんは<アド・センター>常務として活躍中で、『週刊平凡』の「ウィークリー・ファッション」の仕事も請け負っていました。

ちなみに、『アンアン』のタイトル・ロゴは、堀内さんデザインによるもの。

というか、『ポパイ』も『ブルータス』も『オリーブ』も、みんな堀内さんがデザインしたタイトル・ロゴだったそうです!

椎根和とは?

さて、今回、創刊当時の『アンアン』を振り返っているのは、『平凡パンチ』から『アンアン』編集部へと異動してきた編集者の椎根和さんです。

椎根さんは、その後、『日刊ゲンダイ』創刊編集長、『ポパイ』チーフディレクター、『オリーブ』創刊編集長、『週刊平凡』編集長、『Hanako』創刊編集長などを歴任する、敏腕編集者!

これまでも『popeye物語』や『銀座Hanako物語』など、マガジンハウスの歴史書みたいな著作を発表していて、本作『49冊のアンアン』も、マガジンハウスの輝かしい歴史を振り返る「マガジンハウス史」の一冊となっています。

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自分のようなマガジンハウス好きには、実に嬉しいプレゼント。

しかも、この本の内容が、さすがに濃い!

創刊号から第49号まで、『アンアン』の誌面を編集者目線で克明に振り返っています。

かなりマニアックだけど、当時を知っている人には懐かしいし、当時を知らない人には新しい──そんな内容になっているのではないでしょうか。

今回は、本書で明かされる『アンアン』の伝説をご紹介したいと思います。

出典:Unsplash出典:Unsplash

『アンアン』秘密の伝説

本作『49冊のアンアン』では、これまで、あまり知られていなかった『アンアン』の伝説が、随所に登場しています。

今回は、特に注目しておきたい『アンアン』の伝説について、本書を参考にご紹介しましょう。

もっと深く知りたい!と思った方は、ぜひ、本書を読んでみてくださいね。

『アンアン』誌名はパンダの名前から

「アンアン」という誌名は、モスクワ動物園のパンダ「アンアン」(牡)から名付けられました。

名付け親は、平凡出版の清水副社長。

当時、パンダは、中国以外では、ロンドン動物園の「チチ」と、モスクワ動物園の「アンアン」と、世界で二匹しかいなかったそうです。

ちなみに、カンカンとランランが日本へやって来るのは、1972年のことでした。

パンダのイラストは大橋歩

現在も『アンアン』のアイドルマークとなっているパンダのイラストは、大橋歩のデザインによるものです。

大橋さんは創刊号から連載エッセイ「あゆみのエッセイ」も担当していて、第一回目のテーマは「初夜」。

フリーセックス礼賛の風潮に対抗するように、大橋さんは「私は愛している人にしかSEXを感じない人間です」と綴っています。

『アンアン』は六本木の中古ビルから始まった

当時、平凡出版の本社は銀座にありましたが、『アンアン』編集部は、あえて六本木の中古ビルを買い取る形で設置されました。

新雑誌が芸能誌のようになることを不安視した堀内誠一の発案によるものだったそうです。

その頃の『週刊平凡』とか『月刊平凡』って、『明星』と並んで芸能誌の代名詞みたいな存在だったんですね。

編集部は、全員が壁を向いて仕事をするレイアウトだったとか。

『アンアン』創刊記念日は雛祭りの日

新雑誌『アンアン』創刊は、1970年(昭和45年)3月3日。

若い女性向けの隔週誌(月二回刊)ということで、雛祭りの日が創刊日になったそうです。

創刊号の表紙モデルはマリタ、写真撮影は立木義浩でした。

ちなみに、立木さんは、2023年まで写真甲子園の審査委員長を務めていた方です。

『アンアン』とフランス誌『エル』との提携

『アンアン』は、平凡出版とフランスのファッション雑誌『エル』との提携から始まりました。

初期『アンアン』は、『エル』の誌面を日本へ紹介するという役割も果たしていたんですね。

『アンアン』創刊号では、エル社社長をはじめ、フランスからのたくさんの祝福メッセージが誌面を飾りました。

『アンアン』と澁澤龍彦・三島由紀夫

『アンアン』では、創刊号(1970/3/20)から澁澤龍彦の翻訳作品が掲載されています。

創刊号掲載は、シャルル・ペロー原作の「赤頭巾ちゃん」。

堀内誠一とのネットワークが、ここでも生かされていたようです。

ちなみに、平凡出版と関係の深かった三島由紀夫もエッセイを寄せています。

新人デザイナー・三宅一生登場!

『アンアン』第2号(1970/4/5)では、デビューしたばかりの新人デザイナー・三宅一生が登場しています。

当時の三宅一生は31歳。

記事タイトル「紐育7番街のデザイナー」もカッコいいですね。

ちなみに、このとき、堀内誠一が用いた「issey」のロゴは、その後も「issey miyake」として使用されていくことになります。

パリの高田賢三が登場

同じく『アンアン』第2号(1970/4/5)の「ジャーナル」欄には、パリに仕事場を移した高田賢三が登場しています。

セーヌ右岸のギャルリ・ビビエンヌに「ジャングル・ジャップ」というショップをオープンするというニュース記事でした。

高田賢三は、その後も『アンアン』誌面で活躍していくことになります。

ルイ・ヴィトンのバッグを特集

『アンアン』第3号(1970/4/20)は、日本の女性誌として初めて、ルイ・ヴィトンを大々的に紹介します。

当時、ヴィトンの商品は、赤坂・東急ホテル二階のショップでしか売られていなかったんですね。

ルイ・ヴィトンが日本でも大人気となるのは、この後のことでした。

ファミリーヌード第1号は立木義浩一家だった

『アンアン』第3号(1970/4/20)に登場した「ファミリーヌード」。

第1号は、なんと、写真家・立木義浩さん一家でした。

当時の立木さんは32歳。

撮影は、徳島県の立木写真館でした(NHK朝ドラ『なっちゃんの写真館』のモデル)。

加藤和彦・ミカ夫婦のファミリーヌード

『アンアン』第5号(1970/5/20)では、加藤和彦とミカの夫婦が「ファミリーヌード」に登場。

ミカ(サディスティック・ミカ・バンド)のスタイルがすごくいいです。

日本の雑誌に「星占い」が登場

女性雑誌には必ず掲載されている「星占い」のコーナー。

あれ、日本では『アンアン』が最初だったんですね。

『アンアン』では、欧米のファッション誌を参考に、創刊号から「星占い」のコーナーを掲載していました。

占い師はエル・アストラダムス(摂田寛二)で、『アンアン』でも人気コーナーだったようです。

「ディスカバーJAPAN」にパクられる!?

『アンアン』第9号(1970/7/20)では、「ユリとベロの京都」「ベロとサブの軽井沢」など旅行を特集。

ところが、この号の『アンアン』を電通がパクります。

その結果、誕生した企画が、国鉄(現在はJR)の「ディスカバーJAPAN」キャンペーンでした。

二本の美しい地方都市を、大きな帽子、トンボメガネ、ロングドレス姿で旅する女性たちは、後に「アンノン族」と呼ばれるようになります。

『アンアン』の影響って、本当に凄かったんですね。

ジョン・レノンと小野洋子のインタビュー

『アンアン』第22号(1971/02/05)には、ジョン・レノンと小野洋子の書面インタビューが掲載されています。

ジョンは「ヨーコの乳房と性器とこころが魅力的」、ヨーコは「(ライバルの草間彌生は)よくやってらっしゃる」とコメント。

ジョン自筆のサインには、漢字で「三角燈籠」と書かれていました(意味不明)。

加賀まりこのヌード写真

『アンアン』第31号(1971/06/20)では、加賀まりこのヌード写真が登場。

当時、一流の女流の私生活が撮影されることは、ほとんどなかったそうです。

写真は立木義浩で、このときの撮影は、後に『PRIVATE/私生活』という写真集になって、毎日新聞社から発売されました。

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ジェーン・バーキンの表紙モデル

『アンアン』第32号(1971/07/05)の表紙モデルは、ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブール。

ゲンズブールは、トレードマークだった無精髭がありませんが、バーキンはチャームポイントの太ももをたっぷりと見せてくれています。

撮影は立木義浩でした。

ギャルソンの川久保玲が登場!

『アンアン』第34号(1971/08/05)には、コムデギャルソンの川久保玲が登場。

コムデギャルソンの創設は1969年で、当時の川久保さんは、まだ無名のデザイナーだったようです。

ちなみに、当時の『アンアン』では、金子功(ピンクハウス)や松田光弘(ニコル)、菊地武夫(キクチタケオ)など、1980年代のDCブランドブームを牽引することになる若手デザイナーが活躍していました。

森山大道が『アンアン』に登場

何ともすごい組み合わせですが、『アンアン』第40号(1971/11/5)には、写真家・森山大道が登場しています。

森山さんとおしゃれファッション誌というミスマッチ感が半端ないですね。

モデルは横尾忠則で、アレ・ブレの写真が『アンアン』の誌面を飾りました。

堀内誠一の『アンアン』引退

『アンアン』第49号(1972/3/20)を最後に、堀内誠一が『アンアン』から手を引きます。

同じタイミングで、本書の著者である椎根和も平凡出版を退社。

金子功や立川ユリ、立木義浩などの名前も消えて、『アンアン』は芸能人が誌面を飾る芸能誌へと路線変更していきます。

椎根さんが復帰するのは、新雑誌『オリーブ』創刊のときでした(創刊編集長に就任)。

なお、創刊当時、フリーランスのライターだった淀川美代子さんは、1987年に『アンアン』編集長に就任後、1989年の「セックスで、きれいになる」特集で発行部数100万部突破を達成。

「ヴィジュアル・ファッション・マガジン」として始まった『アンアン』は「セックス路線」で栄光を手にしたのです。

これも、時代の流れというやつだったのでしょうか、、、

出典:Unsplash出典:Unsplash

まとめ

いかがでしたか?

自分は男性なので、女性誌『アンアン』を毎号読むということはなかったのですが、当時のファッション情報を得るために、あえて古い雑誌を買ってくることがあります。

雑誌は(特にファッション雑誌は)旬が大切なので、時代を映すタイムカプセルのような存在。

自分の知らない時代を、そっと覗き見る楽しさが、古い雑誌にはあるのだと思います。

そして、本書『49冊のアンアン』は、そんな時代のエッセンスを詰め込んだような、『アンアン』の歴史書です。

『アンアン』序章──。

『アンアン』の読者だけではなく、昭和ファッション史に興味のある多くの方に読んでもらいたい一冊です。

書名:49冊のアンアン
著者:椎根和
発行:2023/4/15
出版社:フリースタイル

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3代目アコード
バブル世代のビジネスマン。ヤンエグにはなれなかったけどね。