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永井龍男「青梅雨」生命力の裏側にある人生のはかなさ

永井龍男「青梅雨」あらすじと感想と考察

永井龍男「青梅雨」読了。

本作「青梅雨」は、1965年(昭和40年)9月『新潮』に発表された短編小説である。

この年、著者は61歳だった。

作品集では、1966年(昭和41年)に講談社から刊行された『青梅雨その他』に収録されている。

青梅雨とは梅雨を表わす俳句の季語である

「青梅雨(あおつゆ)」というのは、梅雨を表わす俳句の季語である。

ただ「梅雨」というよりも、雨に濡れる新緑の生命力が伝わってくる。

「青梅雨」は、青々とした新緑を濡らす雨のことなのだ。

ところが、永井龍男の短編小説「青梅雨」は、決して生命力に漲った物語というわけではない。

ある日の新聞に、年老いた四人一家が心中しているのが見つかった、という記事が出る。

この家の主人が事業に失敗し、多額の借金を抱えて、ひどい生活苦に陥っていたらしい。

物語は、この四人一家の最後の夜を描いたものだ。

一家心中する直前の様子を描いたものだから、当然、明るいはずもないが、不思議なことに悲壮な感じというのも、またない。

「そうそう、あれは麻生に住んでいるころだった」「若かったんだな、あたしも」「みんな、夢のようだとよく云うけれど、あたしぐらいにならないと、ほんとの夢の短さはわからないだろうよ」(永井龍男「青梅雨」)

この短篇小説の大きな特徴は、ストーリーが会話によって進行していくところにある。

著者は、久保田万太郎の戯曲を意識しながら、この作品を執筆したものらしい。

登場人物の台詞の中に、ハッとするような警句が埋め込まれている。

「永い永いような、三月か半年のような、まあそんなものなんだろう、人の一生というのは」などというのも、死を目前にして泰然と人生を振り返る男の無常感が現れている。

もっとも、この小説の本当の魅力は、作品全体に漂う静けさだ。

それは、俳句の世界で言う無常観のようなもので、人の一生のはかなさこそが、この小説のテーマと言っていいような気がする。

「おじいちゃん」息を詰めて、春枝が云った。「ちいおばあちゃんも、大きいおばあちゃんも……」「うん、どうした」「二人とも、けさから、死ぬなんてこと、一口も口に出さないんです、あたし、あたし、えらいと思って」それきりで、泣き声を抑えに抑え、卓に突き伏した。(永井龍男「青梅雨」)

人生の一瞬を切り取る短篇小説の魅力を、この作品は教えてくれる。

青々とした新緑を静かに濡らす雨は、人生のはかなさを象徴する雨だ

ところで、この作品の小説としての素晴らしさは、最後の最後で、検屍に立ち合った<梅本貞吉>の言葉が紹介されるところにある。

「(略)春枝という養女は、ここの小母が肺を患って、東京の病院へ入院した時の看護婦で、それが縁で養女にしたそうです。睡眠薬は春枝が集めたものでしょうが、ここの主人と肉体的な関係があったかどうか、その辺のことは私は知りません」と、語っている。(永井龍男「青梅雨」)

ここでいきなり主人と養女との肉体関係疑惑が呈されることによって、登場人物は生々しい人間としての生命力を与えられる。

この短篇小説は、新聞の神奈川版に載った小記事を素材にしているらしいが、おそらく、著者は、この新聞記事の中に、つい数日前まで生きていた人間のドラマを見つけたのではないだろうか。

ことに、老夫婦と一緒に51歳の養女が亡くなっていることが、小説家の創作意欲を刺激したのだろう。

かつて、激しい不倫行為に耽ったかもしれない男女の姿を思い浮かべるほどに、読者は、人の世のはかなさというものを感じる。

「青梅雨」というタイトルが生きてくるのは、ここだ。

青々とした新緑を静かに濡らす雨は、人生のはかなさを象徴する雨だったから。

作品名:青梅雨
著者:永井龍男
書名:永井龍男全集(第四巻)
発行:1981/7/20
出版社:講談社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。