太宰治『人間失格』考察|「人間、失格」は、なぜ「救い」の言葉になったのか
太宰治『人間失格』は、生きづらさを抱えた男の物語である。
社会に順応することのできない彼は破滅へと向かい、やがて「人間、失格」を宣言する。
それは生きづらさを抱えて生きる人々の「救い」の物語でもあった。
それにしても、なぜ「人間」が「失格」であることに「救い」が生じるのだろうか?
この記事では、本作品のメインテーマである「人間が失格すること」の意味について、独自の視点から考察していきたい。
なお、本作『人間失格』の簡単なあらすじや登場人物、長く読み続けられている人気の秘密については、次の記事で詳しく解説しています。
▶ 太宰治『人間失格』ってぶっちゃけ何がすごいのか?あらすじと人気の秘密を解説
【考察1】主人公・葉蔵の生きづらさとは何か?
本作『人間失格』は、生きづらさを抱えながら生きる男の物語である。
主人公・葉蔵の生きづらさとは、どのようなものだったのだろうか?
恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。(太宰治「人間失格」)
葉蔵の生きづらさの根源は、人間を理解できないことにあった。
社会を生きる人々の快楽や苦悩を、彼は理解することができない。
それは、周囲が笑っているときに笑い、泣いているときに泣くという、「他者への共感」の圧倒的な欠如だった。
他者の心情に寄り添うことのできない彼は「道化」の立場を演じることで、人間社会に順応しているふりをする。
村上春樹の小説でいうと、それが「踊り続ける」ということだったかもしれない。
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってる意味はわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ」(村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」)
社会と自分自身との距離を、葉蔵は「道化」を演じることで埋めようとした。
もちろん「道化」を演じるだけでは、根本的な解決にはならない。
社会に対する葉蔵の不信は、ますます強くなっていくばかりだった。
そこに、葉蔵の生きづらさがある。
【考察2】「世間」とは何か?
社会に対する葉蔵の不信は、やがて自分自身への不信として発展していく。
葉蔵を散々苦しめてきた「世間」という言葉を使って、堀木は葉蔵を戒めた。
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」世間とは、いったい、何の事でしょう。(太宰治「人間失格」)
社会が「正しいもの」である以上、「正しくない」ものは自分自身ということになる。
彼の理解できないものこそが、つまり「世間」という人間社会であったというのに。
しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。(太宰治「人間失格」)
人々は、まるで自分たちが正義であるかのように「世間」という言葉を使って、葉蔵を責めた。
「世間」を理解することのできない葉蔵は、現代社会の「異端」である。
ある意味で、堀木とはいやらしい「世間」の象徴だった。
世間に追いこまれていくことで、葉蔵は自身の居場所を失い、「人間、失格」へと突き進んでいったのである。
【考察3】「人間失格」というタイトルの意味とは?
それでは「人間、失格」とは、どのような意味を持っているのだろうか?
葉蔵にとって「人間」とは、つまり「世間」のことである。
いやらしい「世間」に順応することができないことを、葉蔵は「人間、失格」という言葉で表現した。
人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。(太宰治「人間失格」)
「人間、失格」。
それは、葉蔵の存在を否定する言葉であると同時に、葉蔵を肯定する言葉ともなっている。
なぜなら、彼は最後までいやらしい世間という存在を受け容れようとはしなかったからだ。
たとえ「異端」であっても、自分らしく生きる。
それが、葉蔵という男の美学ではなかったか。
いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。(太宰治「人間失格」)
狂っているのは葉蔵ではなく「世間」である。
脳病院(精神病院)へ強制入院させられたことで、彼は自分という存在を明確に理解したのかもしれない。
いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、廃人という刻印を額に打たれる事でしょう。(太宰治「人間失格」)
「廃人」であることこそが、葉蔵の生存証明である。
なぜなら狂った世間の中で、これからも葉蔵は生き続けていかなければならないからだ。
本作『人間失格』は、決して絶望の物語ではなかった。
葉蔵は自分らしく「廃人」として生きていくことを高らかに宣言しているのである。
【考察4】『人間失格』は「救い」の物語なのか?
太宰治の『人間失格』は、発表以来70年以上の時を経て、常に新しい読者を獲得し続けてきた。
「人間」が「失格」する物語が、なぜこれほどまでに支持されているのだろうか?
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。(太宰治「人間失格」)
本作『人間失格』は、世間に抗い続けた男の物語である。
男は信用できない世間に迎合することなく「異端」として生き続けた。
つまり、これは「異端」肯定の物語なのだ。
「人間の集合体」である世間は、ある意味で「異端の集合体」とも言える。
なぜなら人は誰もが何かしら異端であり、異端であることに不安を抱きながら生きている存在だからだ。
異端でない人間など、世の中には存在しない。
ただ「異端」であることを恐れて、人はみな「世間」のふりをしているのである(あの堀木のように)。
太宰治が『人間失格』で描いたのは、「世間」というものの仮面の正体である。
世間が「異端の塊」であることを暴露しながら、太宰は葉蔵という主人公に「人間、失格」を宣言させた。
そこに、この物語の「救い」がある。
我々はみな「異端」として、この社会を生き続けている。
そう、大切なことは「人間、失格」と嘲笑われてでも、とにかく生き続けていくことなのだ。
まとめ│『人間失格』が与えてくれた勇気
『人間失格』を書き上げた直後、作者の太宰治は自殺してしまった。
「生きる希望」を描いた太宰が、なぜ死ななければならなかったのだろうか?
太宰治の後見人だった井伏鱒二は、最後まで太宰の自殺を信じなかったらしい。
その死場所を見ると、彼の下駄で土を深くえぐりとった跡が二条のこっていて、いよいよのとき彼が死ぬまいと抵抗したのを偲ぶことが出来た。(井伏鱒二「点滴」)
太宰は心中相手の女性・山崎富栄に首を絞められた上で、川の中まで引きずられていったのだろうか。
太宰治の言葉で言えば、山崎富栄も、やはり「世間」だった。
結局のところ、「世間」に抗い続けた作家は、「世間」に飲みこまれて死んでしまったのだ。
しかし、太宰治の遺した作品が消えることはなかった。
最後の長編となった『人間失格』は、今も(世界中の)人々に勇気を与え続けている。
狂っているのは「あなた」なのではない、狂っているのは「世間」の方なのだと。
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本作『人間失格』の簡単なあらすじや登場人物、長く読み続けられている人気の秘密については、次の記事で詳しく解説しています。
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