川端康成『伊豆の踊子』あらすじ・考察|なぜ美しい?「孤児根性」と踊子の意味
川端康成『伊豆の踊子』は、孤児根性を抱えた学生が、伊豆を一人旅する物語である。
主人公の「私」は、どのようにしてコンプレックスを克服したのだろうか。
この記事では、本作『伊豆の踊子』のあらすじを整理するとともに、主人公が自己を回復していく経過について、独自の視点から考察してみたい。
3行でわかる『伊豆の踊子』
旅立ち(孤独を抱えた「私」)
孤独な生い立ちから人とのつながりに屈託を抱えていた20歳の「私」は、伊豆へ一人旅に出る。天城峠で旅芸人の一行と出会い、なかでも若い踊子・薫に心を惹かれていく。
交流(旅芸人一座との旅)
「私」は薫たちと行動をともにし、湯ケ野などを経て下田へ向かう。無邪気で純粋な薫や一座の人々との交流を通して、「私」の心から次第に孤独や人間不信が薄れていく。
別れ(初恋と心の変化)
やがて旅の終わりが訪れ、「私」と薫は別れることになる。淡い恋心を抱えたままの別れは、「私」に涙をもたらし、孤独に閉ざされていた青年の心に忘れがたい一瞬を残す。
『伊豆の踊子』の簡単なあらすじ
20歳の旧制高校生である「私」は、孤独な生い立ちから生まれた自分の屈託を抱え、一人で伊豆を旅していた。
天城峠を越える途中、旅芸人の一行と出会った「私」は、その中にいた若い踊子・薫に心を惹かれる。やがて一座から親しく声をかけられたことをきっかけに、彼らと行動をともにし、湯ケ野を経て下田へ向かうことになる。
旅のあいだ、「私」は無邪気で純粋な薫や、温かく接してくれる一座の人々と交流する。身分や境遇の違いを越えた人間的なふれあいのなかで、これまで人との距離を感じていた「私」の心は、少しずつほぐされていく。
しかし、旅には終わりがある。「私」は一座と別れ、東京へ帰ることになる。薫との淡い恋心を胸に残したままの別れは、「私」に深い感動を与え、旅の終わりにひとすじの涙を流させる。
【考察】なぜ踊子の裸体に感動したのか?
本作『伊豆の踊子』は、一般に、踊子・薫の全裸を見たことで、主人公「私」の回復が図られる青春物語として読まれている。
主人公「私」は、なぜ14歳の少女の裸に感動したのだろうか?
①「旅芸人」という魔物
そもそも、本作『伊豆の踊子』は、ある意味において「魔界物語」的な構造を呈している。
なぜなら、主人公の学生は、「魔物」とも言うべき「異端の人々」との交流を通して、自らの回復を図っていくからだ。
主人公の学生が、旅芸人一座と会話を交わすことになった天城峠の茶屋には、中風で半身不随となり「水死人のように全身蒼ぶくれ」の爺さんがいた。
学生は強い不快感を覚えているが、この茶店こそが、伊豆・湯ヶ島という「魔界」への入り口になっていたのかもしれない。
「魔界」の主役は、学生が深く関わることになる旅芸人の一座だった。
茶店の婆さんが「あんな者。どこで泊るやらわかるものでございますか」と軽蔑を含んだ言葉を吐いたように、彼らはまったく「異端の民」だった。
下田の港に入るところにあった「物乞い旅芸人村に入るべからず」の立札も、彼らが異端者の集まりであることを、明確に示唆している。
つまり、この作品は、東京の超エリート学生が、伊豆の温泉地という「魔界」で、魔物とも言うべき「異端の人々」と交流することによって浄化されていく、という構図を持った物語なのである。
②「女性」という穢れた存在
さらに、「女の後は汚いだろうと思って」「女が箸を入れて汚いけれども」と、おふくろが何度も言っているように、当時の価値観において、女性は「不浄」の存在だった。
「旅芸人」という身分の低さと、汚れた存在である「女性」という性別こそが、「それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ」という学生の妄想を培っていたのだろう。
ところが、川向こうの共同湯で、薫の全裸を見たときに、学生は新しい自分を発見する。
14歳の少女の全裸は、まったく穢れのない純潔の象徴だったからだ。
卑しい身分の(学生も「彼等が旅芸人という種類の人間であること」と言っている)旅芸人との旅によって自分を取り戻した学生は、彼らと別れて東京へと戻っていく。
乳呑児を背負った銀山の婆さんは「最後の魔物」と言っていいが、浄化された学生がもはや動揺することはない。
天城峠の茶屋で「蒼ぶくれの爺さん」に動揺した彼は、旅芸人一座との交流によって、「銀山の婆さん」を快く引き受けるまでに回復していたのである。
【解説】『伊豆の踊子』は実話なのか?
①川端康成の「伊豆の旅」
岩波文庫版『伊豆の踊子・温泉宿』あとがきに「『伊豆の踊子』は私の作品としては珍しく、事実を追っている」とあるとおり、本作『伊豆の踊子』は、作者・川端康成の実体験に基づく創作(フィクション)である。
湯ヶ野へ行ってみると、私の泊った福田家は二十年前と同じだった。踊子が裸のまま道端まで飛び出してきた、川向うの村湯もそのままで、やはり戸がなく、路から湯槽が見えた。(川端康成「処女作を書いた頃」)
川端康成が伊豆の踊子たちと旅をしたのは、1918年(大正7年)11月のことで、このときの体験が1926年(大正15年)になって『文藝時代』に発表された。
時間を経た記憶は浄化されて美しい物語となったが、小説には書けなかったことも少なくなかったらしい。
『伊豆の踊子』はモデル小説だが、例えばあの踊子の兄と嫂とは、梅毒の大きい腫物を出して、床の中でも温泉の中でも痛がっていたのが、ほんとの姿だし、嫁の母の汚さと云ったらなかったが、モデルのそんな点を描くことは、どうしても私にはできない。(川端康成「私の七箇条」)
梅毒の印象は若者に強い印象を残しており、「『伊豆の踊子』の映画化に際し」の中でも、川端康成は「この腫物の幻は、踊子の目尻の紅に劣らぬ強さで、私を追っかけてくるのである」と回想している。
もっとも、旅芸人一座や、彼らの泊まる木賃宿などのリアルな描写がないことによって、魔界物語としての『伊豆の踊子』は、むしろ「穢れた物語」として成功していたのかもしれない。
いい齢をした大学生が、中学生の裸にときめいたなどという陳腐な筋書きだけでは、ここまで多くの読者を感動させる名作とはならなかっただろうから。
②スーパーエリートだった川端康成
ちなみに、当時の学制における「高等学校」は、「中学校」(現在の高校)卒業後に入学するもので、「高等学校」卒業後は「帝国大学」への進学が期待された。
主人公の「私」が在籍する「第一高等学校」は、現在の東京大学教養学部の前身となるものだから、まだ大学生そのものが少なかった時代にあって、彼は「超」がつくほどのスーパーエリートだったわけだ。
スーパーエリート・川端康成にとって、伊豆の旅は、「孤児根性」というコンプレックスを克服するための「自己回復」の旅だった。
異なる世界で生きる「異端の人々」との交流によって、彼は「新しい自分」を獲得することに成功したのである。
まとめ│伊豆の旅は「自分探しの旅」だった
本作『伊豆の踊子』は、コンプレックスを抱えた若者の「自分探しの旅」を描いた物語である。
スーパーエリートの主人公は、あえて「異界」に踏みこむことで、「孤児根性」という自らのコンプレックスを克服したのだ。
自己再生の物語として、現代の若者たちにもおすすめである。
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