時間の地層の中から名著を発掘する「地層の読書コラム」。
今回は、代表作『「いき」の構造』で知られる哲学者・九鬼周造の随筆集『九鬼周造随筆集』(岩波文庫)を紹介します。
人間の深淵に挑むような、大人の随筆集です。
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基本情報(書誌情報)
| 項目 | 内容等 |
| 書名 | 九鬼周造随筆集 |
| 著者 | 九鬼周造 |
| 編者 | 菅野昭正 |
| 出版社 | 岩波文庫 |
| 出版年 | 1991/09/17 |
| 価格 | 460円(税込)※初版のものです |
| ページ数 | 202ページ |
| その他 | 訳者・菅野昭正による解説を収録 |
「文人哲学者」の随筆
九鬼周造は、代表作『「いき」の構造』(1930)で知られる大正~昭和初期の哲学者である。
一方で、九鬼周造は随筆を綴り、短歌を読む、文学者でもあった。
解説の菅野昭正は、だから九鬼のことを「文人哲学者」と呼んでいる。
実際に、九鬼の随筆を読んでみると「文人哲学者」という言葉の意味が分かるかもしれない。
九鬼の随筆は、どこまでも情緒的であり、文学的だから。
例えば、パリ滞在時の記憶を綴った「藍碧の岸の思い出」で、九鬼は、懐かしいコート・ダジュール(藍碧の岸)を感傷的に思い出している。
これが本当の私なのか。それとも藍碧の岸の冬の日を浴びながらコーヒーの匂いを嗅いだり、酒場の灯影に丁子を嚙みながらコアントロウを味わったりしていた私が本当の私なのか。(九鬼周造「藍碧の岸の思い出」)
京都帝国大学の教壇に立って白墨の粉を吸ったり、教授会の末席に連なったりしている、現在の自分への疑問が、そこにはあった。
いかにも哲学者らしくもあり、まるで文学者のようでもある。
現代の文学好きだったら、村上春樹の小説を思い出すかもしれない。
林芙美子と泣いた、京都の夜
文学者との交流ということでは、「小唄のレコード」に林芙美子が登場している。
北京の帰りに京都へ寄った際、林芙美子は成瀬無極(京都帝国大学のドイツ文学者)と一緒に九鬼の自宅を訪れた。
そのとき、九鬼は小唄のレコードをかけて、三人で聴いたという。
「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」といった。(九鬼周造「小唄のレコード」)
九鬼の言葉を聴いた成瀬無極が「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」と詰るように言ったとき、三人の眼から涙がにじみでた。
「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」という無極の言葉に、三人の気持ちは表されていたらしい。
林さんは黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。(九鬼周造「小唄のレコード」)
小唄のレコードを聴くと「ただ情感の世界にだけ住みたいという気持ちになる」と、九鬼は綴っている。
京都大学の哲学者がつぶやく、いかにも人間くさい言葉は、現代を生きる我々の心をも揺り動かすものだった。
九鬼周造の九鬼村訪問記
九鬼周造は「九鬼」という自分の苗字に、強い関心を持っていた。
「自分の苗字」という作品では、三重県尾鷲市九鬼町まで訪ねている。
紀州の北牟婁郡に九鬼という漁村がある。(略)九鬼村の附近には八鬼山だの三鬼崎だの鬼ケ城だのと鬼だらけだ。(九鬼周造「自分の苗字」)
外国の人たちは(特にキリスト教徒は)「九つの鬼」という九鬼の名前を恐れたらしい。
九鬼による「九鬼村」訪問記は、爽やかな旅行記ともなっていて楽しい。
その上、「鬼」という言葉が持つ地名の意味も深く考察されていて、民俗学が好きな人が読んでも楽しいに違いない。
私の家では、節分の豆まきには「福は内、鬼は内」というのが昔からの習慣になっている。(略)平賀源内は福内鬼外と称したが、そういう行き方は私には生まれつき禁じられている。(九鬼周造「自分の苗字」)
紀州で「鬼」は海賊を意味する言葉でもあったらしく、海賊の歴史が、あるいは地名の由来とも関係があったとも考えられる。
「ああ、己の胸には二つの霊が住んでいる」というファウストの嘆きが私にはいつになっても消えないのだ。(略)私にとって私の名は前史であり、神話であり、運命であるのだろう。(九鬼周造「自分の苗字」)
「鬼」を背負って生き続けた男。
それが九鬼周造という哲学者だったのかもしれない。
まとめ│哲学と文学が融合する世界で
九鬼周造の随筆を一言にまとめると、それは哲学と文学が融合する世界である。
「自分とは何か?」という命題を、九鬼周造は随筆という表現ツールにおいても追究することができた。
だからこそ、彼は「自分である程度まで満足のできるような随筆を書くことはなかなか容易ではない」(書斎漫筆)と言っているのだ。
哲学者である九鬼周造にとっては、随筆でも、小説でも、それは既に哲学だった。
私の書くところは私の身振ではない。私である。私の本質である。(モンテーニュ)
モンテーニュの言葉を引用して、九鬼は随筆に対する自分の考えを表明した。
本作『九鬼周造随筆集』の真髄が、その言葉に込められていたのではないだろうか。
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