村上春樹『街と、その不確かな壁』あらすじ・考察|幻の中編はなぜ失敗作なのか
村上春樹『街と、その不確かな壁』は、『文学界』1980年9月号に発表された中篇小説である。
単行本や全集にも収録されていないことから「幻の作品」として知られている。
この記事では、本作『街と、その不確かな壁』のあらすじを整理するとともに、この作品のテーマについて、詳細に考察していきたい。
※2023年に出版された長編『街とその不確かな壁』とは異なりますので、ご注意ください。
3行でわかる『街と、その不確かな壁』
発端(彼女の街の話)
十八歳の夏の夕暮れ、「僕」と一緒に川岸を歩いた彼女は、壁に囲まれた想像の街の中で死んだ。
展開(古い夢を読む)
「僕」は彼女と再会するために壁の中の街に入り、影と離れて、図書館で予言者としての仕事を始める。
結末(街からの脱出)
古い夢の言葉を聞いた「僕」は、彼女と別れることを決意し、影と一緒に不確かな街を抜け出して、元の世界へと戻っていく。
『街と、その不確かな壁』あらすじ(全28章)
本作『街と、その不確かな壁』は、28の章から構成されている。
<1>
「ことばは死ぬ」ものだということを、僕は考えている。
<2>
十八歳の夏の夕暮れ、一緒に川岸を歩きながら、君は「街」の話をしていた。「本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中」だと、君は言う。そして、君はその壁に囲まれた想像の街の中で死んだ。
<3>
秋の夕暮れ、僕は壁に沿って設けられた古い望楼に立ち、金色の毛に覆われた一角獣の群れを眺めている。
<4>
街に着いて三日目に、僕は図書館を訪れる。「予言者」として僕は、「君」と一緒に古い夢を読むのだ。
<5>
「もしこの世に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ」と、門番は言った。
<6>
壁は美しい。しかし、その美しさは、想像と現実の間で人がやっと捉え得る一点を、遥かに超えたものだった。
<7>
古い夢は、語ることに慣れていないようだった。僕は君を誘ってコーヒー・ハウスへ行き、美味いコーヒーを飲む。
<8>
君は、僕の住んでいた街のことを知りたがる。つい一週間前まで住んでいた街のことを、僕はうまく思い出せない。
<9>
あの街では、みんな影を引きずって歩いていた。街にやってきたとき、門番によって影は僕から引きはがされたのだ。「影ってのはつまりは弱くて暗い心なんだ」と、門番は言った。
<10>
君は、古い職工地区で、家族と一緒に暮らしていた。
<11>
退役軍人の住む官舎地区で、僕は老軍人たちと一緒に暮らしている。予言者である僕は、太陽の光に弱く、いつでも暗い部屋でとじこもって過ごした。「我々は時を失ったし、君たちは光を失う」と、年老いた大佐が言った。
<12>
秋の雨が降る日、僕は君の冷たい体を抱いて、唇にキスをした。
<13>
僕は街の地図を作り始めた。街に存在するすべてが、壁に捧げられていた。「お前の語っているのは、ただのことばだよ」と、壁は笑った。
<14>
高熱を出して寝込んだ僕を、隣室の老人が看護してくれた。老人は、戦地で見た若い女の亡霊の話を聞かせてくれる。美しい横顔の反対側にあったのは「完璧な無」だった。
<15>
一週間ぶりに訪れた図書館で、君を待ち続けながら、僕は孤独を感じている。川に沿って歩きながら、僕は君に「僕は君の影を愛していた」と告げた。
<16>
僕は暗い部屋のベッドの上で、君と交わった。「なぜ古い夢の語る世界は、みんな暗いんだろう」と、僕は君に訊ねている。
<17>
雪の中で、金色の獣たちが死んでいった。
<18>
死んだ獣は、門番によって焼かれて、高い煙を立ちのぼらせている。「あんたと俺がもう一度一緒になって、ここを抜け出すんだ」と、影が言った。
<19>
僕は君を誘って「たまり」を訪れる。巨大な「たまり」は、苦悶の呻きのような息づかいで、あたりを支配していた。
<20>
影が死にそうだという。
<21>
僕は君に古い夢の光を見せる。部屋中の数千の古い夢が、深い眠りから目覚めていたのだ。
<22>
古い夢に導かれるように、僕は歩き続けている。僕は君を見失っていた。見覚えのある様々なガラクタが、道のわきには転がっていた。
<23>
「どんな夢だって、結局は暗い夢だ」と、僕は言う。「僕は僕の夢を、それがどんなに暗いものであっても、あそこに置き去りにして生きるわけにはいかないんだ」そして、僕は影と一緒に街を出ることを決意する。
<24>
死にかけた影を背負って、僕は走った。
<25>
「この街は完全じゃない」と、影は言った。
<26>
壁の幻影が現れて、僕たちの行く手を妨害する。「この街で本当に生きているのは、獣と川だけだ」と、影が言った。
<27>
「ことばは裏切る。でも結局のところ、それが僕自身なんだ」と言ったとき、壁は消えた。僕と影は「たまり」の中へと飛びこみ、次の瞬間、僕は意識を失っていた。
<最後に>
僕は生き残り、こうして文章を書き続けている。しかし、僕は何ひとつ悔やみはしない。君が僕を忘れないように、僕は君を忘れはしないからだ。いつまでも。
【考察】『街と、その不確かな壁』が伝えていること
本作『街と、その不確かな壁』は、「ことば」についての物語である。
「ことば」に裏切られてきた「僕」は、「ことば」のない世界を訪ねる。
そこには死んだ「君」がいて、予言者として「僕」は古い夢を読み始める。
図書館にある古い夢は、きっと、彼自身の古い「ことば」だったのだろう。
古い夢が語る「ことば」を聴いた「僕」は、その街で生き続けていくことはできないことを知る。
どれだけ「ことば」に裏切られても、「僕」は「ことば」を棄てることができなかったからだ。
「僕」は、「影」を取り戻すようにして、「ことば」を取り戻す。
「影ってのはつまりは弱くて暗い心なんだ」と、門番が言った。
「いろんな蠅がその弱くて暗い心に群がるんだ。憎しみ、悩み、弱さ、虚栄心、自己憐憫、怒り……」「哀しみ」と僕はつけ加えた。(村上春樹『街と、その不確かな壁』)
しかし、彼は、自分の中の「弱さ(影)」を愛していた。
なぜなら、「弱さ」の裏側には「強さ」があり、「ことば」の持つ裏切りの裏側には、「ことば」の持つ希望があることを、彼は信じていたからだ。
過ぎ去った夢はあまりにも美しいが、それは、あくまでも過ぎ去った夢である。
年老いた軍人と一緒に昔の思い出を語るには、きっと彼は若すぎたのだ。
街に留まるか、「たまり」に飛びこむかという二者択一の中で、彼は「たまり」に飛びこむことを選んだ。
どんなに辛くても「ことば」を紡ぎ続けていく道を、彼は選んでいたのだ。
【解説】封印された失敗作『街と、その不確かな壁』
本作『街と、その不確かな壁』は、「ことば=物語」が持つ可能性を伝える作品として読むことができる。
それは、専業作家として生きるかどうかという、小説家の選択だったのではないだろうか。
1980年9月、この作品を発表したとき、村上春樹はまだ、ジャズ喫茶『ピーター・キャット』の経営者でもあった。
「ことば」のない街から脱出する物語は、しかし、失敗に終わった。
『村上春樹全作品1979-1989』第4巻『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』付属の『自作を語る』で、村上春樹は次のように振り返っている。
僕はこの『街と、その不確かな壁』という小説を『1973年のピンボール』のあとで書いたのだが、このテーマでものを書くのはやはりまだ時期尚早だった。それだけのものを書く能力がまだ僕には備わっていなかったのだ。(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』自作を語る)
一度発表された小説は、しかし「失敗作」として封印される。
以後、この作品は、単行本はもちろん、全集にさえ収録されることはなかった。
その代わり、1981年、村上春樹は店を人に譲り、専業作家として生きていくことを決意する。
その結果、生まれた作品が、1982年発表の『羊をめぐる冒険』だった。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ」と語る鼠の言葉は、弱い心としての「影」を棄てきれなかった『街と、その不確かな壁』の主人公の言葉でもあったかもしれない。
▶村上春樹『羊をめぐる冒険』あらすじ・解説・詳細な考察を読む
『羊をめぐる冒険』で手ごたえを感じた村上春樹は、失敗作『街と、その不確かな壁』を下敷きにした長編小説に取り組む。
1985年発表の書き下ろし長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、『街と、その不確かな壁』を遥かにしのぐ重厚な構成の作品として、高い評価を得た(谷崎潤一郎賞受賞)。
▶村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』あらすじ・解説・詳細な考察を読む
しかし、それでも『街と、その不確かな壁』のモチーフにこだわり続けた村上春樹は、、70代になって改めてこの作品を復活させた。
2023年発表の『街とその不確かな壁』である(「街と、」の句読点がない)。
▶村上春樹『街とその不確かな壁』あらすじ・解説・詳細な考察を読む
思えば、村上春樹の40年間は「不確かな壁」との戦いだったのかもしれない。
それは、いつか裏切られるかもしれない「ことば」との戦いでもあった。
なぜ『街と、その不確かな壁』は失敗作なのか
本作『街と、その不確かな壁』は、壮大な構想に作品が追いついていないことが、失敗の原因だと思われる。
特に、古い夢のことばを聴いたことで「僕」が再生する場面は、この小説のクライマックスでありながら、明らかに描き切れていない。
ディテールの描写と観念的な文章がアンバランスな印象を与えることも、小説として失敗作だと判断される理由のひとつだろう。
もっとも、「1980年代の村上春樹」の愛読者である僕にとって、この小説は、かけがえのない大切な作品でもある。
どんな作家にも若書きの習作はあるし、その瞬間にしか書けなかったものが、『街と、その不確かな壁』にはあると信じているからだ。
晩年に発表された『街とその不確かな壁』の完成度は確かに素晴らしいけれど、『街と、その不確かな壁』のような瑞々しさは、そこにはない。
結局のところ、小説というのは、何かを犠牲にすることによって、新しい何かを獲得していくものなのかもしれない。
『街と、その不確かな壁』はどこで読める?全文を読む3つの方法
本作『街と、その不確かな壁』は、封印された失敗作である。
①初出の『文学界』1980年9月号で読む
活字になったのは、初出の『文学界』1980年9月号、ただ一度きりなので、この作品を読むためには、この雑誌を読む以外に方法はない。
村上春樹の「幻の作品」が掲載されていることで、本号の『文學界』は、古書市場でも極めて高い値段で取り引きされている。
②地元の図書館で読む
おすすめは、地元の図書館に所蔵されているものを閲覧すること。
村上春樹も「どうしても読みたいという読者は、図書館で『文学界』のバックナンバーをみつけて読んでいただきたい」と言っている(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』自作を語る)。
文芸誌として『文学界』はメジャーな存在なので、多くの公立図書館には所蔵されているのではないだろうか。
③国立国会図書館の複写サービスを利用する
地元の図書館にない場合は、国立国会図書館の複写サービスを利用することで、コピーを取り寄せることができる(有料)。
全部で40ページ以上あるので、自分でコピーを取る時間を節約したい人におすすめ。
国立国会図書館
https://www.ndl.go.jp/copy
まとめ│影を引きずりながら生きていく
本作『街と、その不確かな壁』は、影を引きずりながら生きていく人々の物語である。
それは、自分の弱さと向き合いながら生きていく、僕たちの物語でもある。
完全なものなど、どこにも存在しないのだとしたら、結局のところ、僕たちはこの「不確かな街」で生き続けていくしかないのだ。
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文学ブログ『時空標本』では、村上春樹の紹介に力を入れています。
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