レイモンド・チャンドラーの『湖中の女』は、私立探偵フィリップ・マーロウが活躍する人妻捜索ミステリーである。

この記事では、本作『湖中の女』の作品概要やあらすじの紹介のほか、「湖中の女」というタイトルの持つ象徴性について、独自の視点から考察していきたい。

作品概要│戦争中の私立探偵

① 3種類の日本語訳

レイモンド・チャンドラー『湖中の女』は、世界大戦中の1943年(昭和18年)に発表された作品である。

原題は「The Lady In The Lake」。

日本では、これまでに3つの翻訳が出ている。

①田中小実昌『湖中の女』(1959)ハヤカワ・ポケット・ミステリ503
②清水俊二『湖中の女』(1986)ハヤカワ・ミステリ文庫
③村上春樹『水底の女』(2017)早川書房

日本では、マーロウ・シリーズを多く訳した清水俊二・訳『湖中の女』が定番だったが、近年は村上春樹・訳『水底の女』と選択できるようになった。

田中小実昌・訳は、古本屋で探すと、古いハヤカワ・ポケット・ミステリを、さほど高価ではない金額で手に入れることができる。

② 二つの短編小説から生まれた『湖中の女』

レイモンド・チャンドラーは、過去の短編小説を土台として、新しい長編小説を生み出すことが得意な作家だった。

本作『湖中の女』も、二つの短編小説を土台として生まれた長編小説だった。

元になった短篇は『ベイ・シティ・ブルース』(1938)と『湖中の女』(1939)である。

最初に書き始められたとき、新しい長編の仮タイトルは『法律は金で買うところにある』だった。

その後、この長編小説は『ブルネットの店の女』『金魚』『金のアンクレット』『暗い水に深く』などの仮題を経由して、1943年(昭和18年)11月、『湖中の女』として出版された。

このあたりの事情については、フランク・マクシェイン『レイモンド・チャンドラーの生涯』(早川書房)に詳しい。

③ 戦争中のフィリップ・マーロウ

本作『湖中の女』は、過去の長編小説『大いなる眠り』『さらば愛しき女よ』『高い窓』よりも、良い売れ行きを示した。

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チャンドラーの作家としての地位は、この作品によって確立されたという。

ただし、作品としての評価は、名作『さらば愛しき女よ』を超えるものとはならなかった。

作中に戦争の影響をうかがわせる描写があることは、『湖中の女』のひとつの特徴となっている。

不安定な世界大戦の時代に生きた人々が、この物語の登場人物である。

④ 1947年の映画化──「マーロウの目」で撮られた実験作

本作『湖中の女』は、1947年(昭和22年)、ロバート・モンゴメリー監督・主演により映画化されている。

主観ショット(POV)技法により「マーロウの目線」によって撮影されたこの作品では、鏡に映る場面以外に主人公のマーロウはほぼ映っていない。

ロバート・モンゴメリイが、マーロウに扮して、自分で監督もやり、一人称映画という妙なものを拵えた。これはいっこうに、おもしろくなかった。(「映画とチャンドラー」/ハヤカワ・ポケット・ミステリ『湖中の女』より)

主人公がほとんど登場しない映画版『湖中の女』は、確かに実験作だった。

脚本に携わった原作者レイモンド・チャンドラーさえも、この作品を酷評したくらいだが、映画としては高い評価を得て、莫大な利潤を上げることに成功している。

あらすじ(ネタバレ)│失踪した人妻の行方

① 消えた二人の人妻

依頼人デレイス・キングズリーは、高級化粧品会社「ギラレーン商会」の社長だった。

デレイスの妻クリスタルは、一か月前に自宅を出たきり、行方不明となっていた。

マーロウは、クリスタルの愛人クリス・レイバリーと面会し、彼女が滞在したと思われるリトル・フォーン湖の別荘へ向かう。

別荘の管理人ビル・チェスは、クリスタルとの情事が発覚したことで、妻ミュリエルが行方不明になっていることを告白する。

そのとき、二人が発見したのは、湖中に沈んだ女性の遺体(湖中の女)だった。

遺体は、行方不明になっているミュリエルだと判断され、代理シェリフのジム・パットンによって、ビルは妻殺しの容疑をかけられてしまう。

② 殺された女たち

新聞記者バーディ・ケッペルの取材を受けたマーロウは、ロサンゼルスの警官デソトを名乗る男が、ミルドレッド・ハビランドなる女性を探していたことを知らされる。

ミルドレッドは、いかにもミュリエルによく似た女性だった。

マーロウは、ビル・チェスの別荘で「アルからミルドレッドへ」と刻まれたアンクレットを発見したあと、クリスタルを探すためにサンバーナディノへ向かう。

サンバーナディノのホテルで、レイバリーが女性と一緒にいたことを突きとめたマーロウは、再びレイバリーの自宅を訪れるが、既に彼は殺されていた。

ベッドには、デレイスの美人秘書アドリエンヌ・フロムセットのものらしきハンカチが残されていた。

ミス・フロムセットを問い詰めたところ、レイバリーの向かいに住んでいる医師アルバート・アルモアの妻フローレンス・アルモアが、一年半前に不審死していた事実が発覚する。

③ 女を愛した男の末路

アルモア夫人の両親は「娘はアルモア医師によって殺害された」と考えていた。

ミルドレッド・ハビランドはアルモア医師のもとで働く看護婦で、アルモア医師とはまるで夫婦のような関係にあったという。

依頼人デレイスからの連絡を受けて、マーロウは行方不明の人妻クリスタルと面会するが、彼が殴られて気絶している間に、クリスタルは殺されていた。

マーロウは、ベイ・シティ警察の警部補デガーモに拉致されて、ビル・チェスのいるリトル・フォーン湖へと向かう。

ビル・チェスの妻ミュリエルは、ミルドレッド・ハビランドという名前の看護婦で、かつてデガーモ警部補が「アルからミルドレッドへ」のアンクレットを贈った相手だった。

湖中から発見された遺体が、実はクリスタルのもので、殺されたクリスタルこそミュリエル(ミルドレッド)だったことを見破ったマーロウは、一連の事件の主犯がミュリエル殺しであること、さらにはミュリエル殺しの犯人がデガーモ警部補であることを突き止める。

デガーモ警部補は代理シェリフのジム・パットンから逃れようとするが、街道を守る警備兵の制止を振り切って逃げようとしたため、谷底に落ちていった。

純粋であるが故に破滅していく男たち

レイモンド・チャンドラーは、女性を愛した男の悲劇を描く技術に長けた作家だった。

『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイも、『長いお別れ』のロジャー・ウェイドも、女性を愛したが故の悲劇の中に落ちこんでいった。

そして、本作『湖中の女』に登場する男たちもまた、愛する女性の中で沈んでいく。

化粧品会社社長のキングズリーは、クリスタルとの結婚生活に失敗した末に、妻を殺されてしまう。

プレイボーイのクリス・レイバリーは、美人秘書フロムセットやキングズリー夫人、アルモア医師の看護婦ミルドレッドと浮名を流した末に、浴室で射殺されてしまった。

主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは、ミス・フロムセットのように素敵なレディと出会いながら、結局、誰とも情事に至ることはない。

本作『湖中の女』は「男が幸せにならない物語」なのだ。

そして、本作の隠れた主人公であり悲劇の主役でもある、ベイ・シティ警察のデガーモ警部補こそ、最も不幸な男だった。

愛する女性ミルドレッドを守るために、彼はミルドレッドを殺し、最後には自分の命まで葬ってしまう。

純粋であるが故に破滅していく男たちを描いたとき、レイモンド・チャンドラーはやはり最高の作家だったのだ。

感傷的な私立探偵フィリップ・マーロウ

男たちの悲劇を支えているのは、チャンドラーの紡ぐ繊細な文章である。

チャンドラーの長編小説は、感傷的に過ぎるほど緻密なスケッチを積み重ねていく。

主人公フィリップ・マーロウの視点から一人称で描かれる「マーロウ・シリーズ」において、この緻密で感傷的なスケッチを描いているのは、つまりマーロウ自身である。

幾多の事件を通り過ぎてきたマーロウは、知りすぎるほどに人生を知り尽くしていたと言っていい。

女性を変する男たちが決して幸せにはなれないことも、男たちを弄ぶ女性の行く手に何が待ち受けているかということも、マーロウには分かっていた。

本作『湖中の女』で描かれているのは、そんな「ままならない人生」の難しさである。

一般にミステリー小説として「マーロウ・シリーズ」を読むと、失望させられる場合が多いと言われる。

なぜなら「マーロウ・シリーズ」は男たちの生き様を描いたハードボイルド小説であり、複雑なトリックや謎解きを尊ぶ推理小説ではなかったからだ。

『湖中の女』を読み終えたとき、男たちはきっと黙りこんでしまうことだろう。

悲劇の主人公デガーモは、もしかすると自分自身だったのかもしれないのだから。

まとめ|自分の中の湖に沈んでいるもの

本作『湖中の女』は、湖の底に沈められた女性の物語である。

行方不明の人妻クリスタルは、結局、湖の中から遺体となって見つかった。

だけど、本当に沈んでいたのは、クリスタルを殺した犯人ミュリエルの方だったのではないだろうか?

ミュリエルが沈んでいた湖は、かつて愛した男「デガーモ警部補」の中にあった。

「犯人はミュリエルは殺されなければならぬと考えた男が殺したんだ。あの女を愛して、あの女を憎んだ男が殺したんだ」(レイモンド・チャンドラー「湖中の女」清水俊二・訳)

男は自分の中の湖に大切な女性を沈めているものだ。

デガーモの中に沈んでいたのが、愛するミュリエルだけだったとしたなら、「湖中の女」はやはりミュリエルだったということになる。

湖の底に沈んだ女性と谷底へ落ちていった男──。

浮かび上がることのできないものが、僕たちの人生にはあるのかもしれない。

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