中島敦『山月記』あらすじと考察|李徴はなぜ虎になってしまったのか
中島敦『山月記』とは?
中島敦の短篇小説『山月記』は、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のため、虎になってしまった詩人の物語です。虎は、自尊心の強い主人公の孤独を象徴する姿でした。他者を拒絶した人間が孤独に苦しむ様子が、虎となった主人公を通して描かれているのです。
中島敦の『山月記』は、孤独に苦しむ人間の姿を描いた短編小説である。
なぜ主人公は「虎」になってしまったのか?
この記事では、本作『山月記』のあらすじを整理するとともに、主人公が「虎」になった理由について考察していきたい。
3行でわかる『山月記』
発端(挫折と失踪)
詩人としての成功を夢見て役人を辞めた秀才・李徴は、生活苦と挫折から精神を病み、狂気に駆られて夜の山林へと姿を消す。
事件(虎との再会と告白)
数年後、出世した親友・袁傪の前に虎となって現れた李徴は、草むらの中から自らの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」ゆえに猛獣へ堕ちた経緯を語る。
結末(咆哮と永遠の訣別)
妻子への生活の援助と未完成の詩の伝録を頼み込んだ李徴は、朝霧の中で月に吠える虎の姿を一瞬だけ晒し、友と人間の世界に永遠の別れを告げる。
『山月記』簡単なあらすじ(要約)
唐の時代、若くして科挙に合格した秀才・李徴(りちょう)は、自負の強さから下級官吏の職を嫌い、詩人として名を成そうと故郷で詩作に没頭する。しかし文名は揚がらず、生活の困窮に耐えかねて再び屈辱的な地方官吏の職に就くが、かつての同僚たちがすでに高官へ出世している現実に耐えきれず発狂し、ある夜、闇の中へ駆け去って行方不明となった。
翌年、監察御史となった親友・袁傪(えんさん)が旅の途中で人食い虎に襲われかけるが、虎は袁傪の声を聞いて茂みへと身を潜める。草むらから聞こえてきたのは、まぎれもない李徴の声だった。李徴は、自らが理由も分からぬまま虎の身へと変じ、次第に人間としての心が消えかけている悲痛な現状を打ち明ける。
李徴は自らを振り返り、他者と切磋琢磨することを恐れた「臆病な自尊心」と、凡庸な俗物と見なされることを恐れた「尊大な羞恥心」という内なる獣を飼い馴らせなかったことが、虎へと変身した真の理由だと告白する。
親友に未完成の詩の記録と、残された妻子への援助を託した李徴は、二度と人前に出ないよう頼んで別れを告げる。袁傪一行が振り返ると、夜明け前の丘の上に現れた一頭の猛虎が、白く光を失った月に咆哮し、深い森の中へと消え去っていった。
【考察1】なぜ主人公は虎になったのか?
本作『山月記』は、一流の詩人をめざす男が、芸術の道に挫折して「虎」へと変身してしまった物語である。
①「怪物化した自尊心」の象徴
まだ人間だったときから、主人公の李徴は孤独を愛する人間だった。
その理由について、李徴は「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせい」だと語っている。
プライドの高い李徴は、誰かに負けることが嫌で、あえて他者との交流を避けたものと思われる。
孤独の道を突き進んだ結果が、つまり「虎」だった。
他者との競争を避けた李徴の自尊心(うぬぼれ)は、化物のように肥えていき、やがて「虎」へと変身する。
この意味で「虎」は、李徴の「怪物化した自尊心」の象徴として読むことができる。
②「孤独」の象徴
そもそも、李徴には、己惚れるほどの才能がなかった。
それは、かつての親友・袁傪が「このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」と感じているとおりである。
自己評価と他者評価との大きな差は、李徴の孤独をますます大きなものとした。
李徴の不幸は、周りの助言や指摘を素直に受け容れるだけの度量がなかった、ということだ。
どれだけ「虎」に欠点があったとしても、凶暴な「虎」に意見する獣はいない。
「孤独」故に「虎」となった李徴は、「虎」であるが故に、ますます「孤独」の道を極めなければならなかった。
【考察2】『山月記』の主題|伝えたかったこと
本作『山月記』は、芸術家をめざす男たちの「なれの果て」を描いた、絶望の物語である
詩人になり損ねた男は、発狂して虎となり、虎となった今も、詩人となる夢を見ている。
男にとって、詩人の夢は、どれだけ大きなものだったことか──。
人はみな、夢を見るものである。
そして、大抵の場合、多くの夢は挫折と絶望の中に沈んでいく。
挫折と絶望の中で、もしも、夢を断ち切れないことがあれば、その人は発狂して虎になってしまうかもしれない。
しかし、だからと言って、この物語は、夢を見ることの虚しさを説いているわけではない。
むしろ、この物語は「夢を見ることを恐れるな」と伝えているように、自分には思える。
本当に、その夢を実現させたいと思うのなら、「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧」も「刻苦を厭う怠惰」も全部捨て去って、泥まみれで夢に向かっていけと、この物語は訴えているのだ。
死んでも死にきれないほどの悔いを残すほど、悲しい人生はない。
大切なことは、ほんの僅かの才能であっても、それを必死で磨き続けることなのだ。
読めば読むほど、この物語は、ひたすらに前向きであり、芸術と心中しようという覚悟を決めた著者の悲壮な決意が伝わってくるような気がする。
そして、虎になった男のメッセージは、令和の時代の今も、脈々と生き続けているのだ。
【解説】虎になった李徴は中島敦だったのか?
芸術の道に突き当たって悩む李徴の姿は、しばしば、作者である中島敦自身の姿として解釈されることがある。
「自分には文学的才能があるのか」「自分の作品はどこまでの水準に達しているのか」といった疑念は、どのような作家の心にも巣くう不安だったのではないだろうか。
その意味で「虎になった李徴」の姿は、芸術の道を志す者たちに与えられた強い警鐘として読むことができる。
作者・中島敦が特別に自己顕示欲の強い人間だったわけではない。
中島敦は、自分の中にも存在するかもしれない「李徴的な自我」を、デフォルメして描くことで、芸術家を志す者たちに注意を促していたのだ。
それは「決して虎になってはいけない」という警告である。
なにより『山月記』は、「文学的才能を持つ人間であっても、その才能だけで第一流の文学者となることはできない」ことを示唆した物語である。
あるいは『山月記』は、作者自身を戒めるための作品だったかもしれない。
自分の内面に潜む「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」をあぶりだすことで、中島敦は作家としてさらなる高みをめざそうとしていたのだ。
まとめ│自意識との戦いの中で
本作『山月記』は、自意識と戦うことの難しさを描いた物語である。
自意識を持たない人間などいない。
人はいつでも自分の中の「虎」と戦いながら、等身大の自分を探し続けているのだ。
大切なことは、周りの意見に耳を傾けるということである。
なぜなら、他人の評価ほど客観的な評価はないはずだからだ。
孤独な「虎」は、もはや誰かの意見に耳を傾けることなどできなかった。
おそらく彼は「虎」になる前に、「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」をさらけだすべきだったのである。
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