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昭和レトロなスピッツ人形は、宇山あゆみ的な昭和メルヘンの匂いがする。

昭和レトロなスピッツ人形は、宇山あゆみ的な昭和メルヘンの匂いがする。

今回の青春ベストバイは、昭和レトロなスピッツ人形です。

昭和30年代、飼い犬として全国でブームとなったスピッツ。

犬のマスコットにも、昭和の匂いってあるんですね。

祖父の飼っていたスピッツ

隣町で暮らしている祖父母の家では、庭先にスピッツを飼っていた。

名前はポッピ。

もとは白くて美しい犬だったらしいが、僕の記憶の中のポッピは、なぜか、いつも薄汚れている。

炭鉱町の山の中で飼われていたせいかもしれない。

父の車が到着するとき、ポッピは必ず大きな声で吠えた。

ポッピが吠えなくなったときは、残された寿命が、もうわずかしかなかったという。

吠えることをやめたとき、ポッピは生きることそのものをやめてしまったのだろうか。

夕食に鶏の脚(母は「レッグ」と呼んだ)が出たとき、僕らは残った骨を持って、祖父母の家まで遊びに出かけた。

鶏の骨はポッピの大好物だと思っていたからだ。

普段は、残飯(基本的に白米に味噌汁をかけたもの)を与えられているポッピは、鶏の骨を見ると狂ったように吠え立てた。

鶏の骨が危険な食べものだということを知ったのは、大人になってからのことである。

僕らは、ポッピに骨を持っていくことまで考えて、母に鶏の脚をねだっていたような気がする。

その頃、大工だった祖父に教えられて、僕らは自家製の虫取り網を作った。

竹竿の先に輪の形にした針金をくくりつけて、その輪で蜘蛛の巣を絡め取ると、蜘蛛の巣の捕虫網ができあがる。

蜘蛛の巣の粘着力は強いから、トンボやチョウくらいは、十分に捕まえることができたのだ。

祖父母の家で退屈な時間を過ごしているとき、僕らは裏の畑まで出かけて、トンボやチョウをつかまえて遊んだ。

そうして捕まえた虫は、ポッピが食べる。

トンボでもチョウでも、ポッピは喜んで食べたから、スピッツというのは、かなり雑食の犬だったのだろう。

明治生まれで、釣り以外には何の関心も示さなかった祖父も、ポッピにだけは愛情を注いでいたらしい。

自分の造った犬小屋の中で死んでいるポッピの体を抱いて、祖父は最後に泣いた。

あのとき、ポッピの死骸を、祖父はどうしたのだったろうか。

今でも僕は、田舎の古い庭先でスピッツを見かけたとき、祖父の飼っていたポッピを思い出す。

あの頃のように、スピッツは、どこにでもいる犬ではなくなってしまったようだけれど。

スピッツブーム時代のスピッツ人形

ということで、今回の青春ベストバイは、昭和レトロなスピッツ人形である。

戦後から高度経済成長期にかけて、スピッツは日本中で爆発的にブームとなった飼い犬だという。

すぐに吠えるから、番犬としての役割が期待されたのだろう。

僕が古いモノを集め始めた頃(それは多分2000年代のことだ)、近所の昭和レトロな雑貨を扱う店で、昭和30年代から40年代に作られたスピッツの人形を、何度か発見したことがある。

値段も安くて(大抵は500円以内で買えた。写真のものには1,400円の値札が付いている)、見つけるたびに買っていたから、意外と入荷する商品だったのかもしれない。

自分の子どもの頃の記憶に直結するスピッツ人形が、僕は大好きだった。

スピッツ人形は犬単体のこともあれば、女の子の人形とセットになっていることもある。

あるいは、鏡をはめ込んだプラスチックケースの中に、お花と一緒に並んでいるものも珍しくなかった。

昭和中期の時代、こんな置物のひとつやふたつくらい、どこの家庭の戸棚の上にもあったのではないだろうか。

祖父母や両親が死んだとき、遺品と一緒に片付けられた雑貨は、こうして骨董屋の片隅に並ぶ(しかも、ほとんどタダみたいな値段を付けて)。

それを見つけた僕のような物好きが、まるで昭和の記憶を回収して歩くように、ガラクタを持って帰る。

2000年代には、宇山あゆみの影響を受けてか、そんなレトロ好きが日本中にいたらしい。

レトロブログを更新すると、毎回のようにコメントをしてくれる常連さんは、一人や二人ではなかった(そして、多くの場合、年配の方が多かったような気がする)。

あれから20年。

時の経つのは、本当に早いと思う。

少なくとも20年分だけ、昭和はまた遠くなってしまったのだから。

スピッツの人形は、この20年間、我が家のリビングルームのカップボードの中で、静かに時の流れを見つめ続けてきた。

そして、きっとこれからも。

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。