旅行体験

小樽市「小林多喜二文学碑」プロレタリア文学と小樽市民との狭間で揺れた文学碑建設運動

小樽市「小林多喜二文学碑」プロレタリア文学と小樽市民との狭間で揺れた文学碑建設運動

小樽市「小林多喜二文学碑」訪問。

「小林多喜二文学碑」は、1965年(昭和40年)10月9日、小林多喜二碑建設期成会によって建立された文学碑である。

住所は、小樽市富岡2丁目旭展望台。

募金活動に苦労した小林多喜二文学碑

旭展望台にある小林多喜二文学碑。旭展望台にある小林多喜二文学碑。

国道5号線から小樽商科大学へ向かう地獄坂を上り、樽商大の手前で右折。

急な山道を旭展望台と書かれた案内表示板に従って進むと、その突き当りに「小林多喜二文学碑」がある。

山の中にあるには、ちょっと不似合いなくらい立派な文学碑は、札幌西高校出身の彫刻家・本郷新によって制作された。

この文学碑は、小林多喜二を慕う仲間たちの熱意によって建てられたものだが、プロレタリア文学の象徴とも言うべき作家の記念碑ということもあって、募金活動は簡単には進まなかったらしい。

小樽商科大学の同窓会誌『緑丘』は、1965年(昭和40年)に「小林多喜二特集号」を刊行して、文学碑建設運動への協力を呼びかけている。

特に、巻頭では、小林多喜二とは小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)で同窓だった伊藤整が「小林多喜二碑についてお願い」という文章を寄せた。

私は、この記念碑に限っては何とかして実現にまで運んで頂きたいと、心から願っている。(略)片岡亮一氏は、旧小樽庁商系の人々に呼びかけて下さるそうである。安達市長はすでにこの碑のために、地獄坂の向って右側、旧市立高女裏の展望に大変よい土地を提供されるお話があり、その場所も見せて頂いた。港と市街を一望に見渡すことのできる結構なところである。(伊藤整「小林多喜二碑についてお願い」)

おそらくはイデオロギー的な問題、小林多喜二が左翼系の小説家であったことが、市民活動の障壁となったらしく、「多喜二を純粋に小説家として、また小樽出身の最も輝かしい文士として記念すべき時は来ている」「彼をもっと故郷が受け入れるようにしたい」と、伊藤整は力説している。

同じく「小林多喜二特集号」に、評論家の板垣直子が「小林多喜二の記念碑のたつことは結構ですが、それが政治運動の拠点にならぬことを祈ります」と寄せているように、小林多喜二の文学碑が、純粋な文学記念碑として以上の性格を有するものと考える一般市民は多かったのかもしれない。

村上春樹の小説で繰り返し描かれているとおり、1960年代後半といえば、激しい学生運動を象徴する時代だったからだ(そして、左翼界隈において、小林多喜二は英雄的な存在だった)。

文学碑建設の募金活動は、実際、共産党系の文脈においても、熱心に行われている。

募金のあつまり工合いはあまり順調ではなく、途中で投げだしたくなったこともあったが、しかしそのたびに私を支えてくれたのは、全国の働く仲間からの激励だった。とくに昨年の八月、江口渙氏が「アカハタ」の紙上に訴えをよせられ、募金をよびかけて下さったときには、すぐこれに答えて、金額こそわずかではあったが、沢山の働く仲間から手紙と募金がよせられた。(浜林正夫「小林多喜二碑の建設を終えて」1966年9月『民主主義』掲載)

除幕式の二か月前にも、精力的な募金活動を行っていたところに、文学碑建立の困難さが伝わってくるが、本郷新によって完成された小林多喜二文学碑は、1965年(昭和40年)10月9日、無事に除幕式を迎えた。

午前十一時、「同志はたおれぬ」のメロディーの流れる雨あがりの碑前には、佐藤藤吉夫妻、小林三吾、幸田つぎ、高木ゆきさんらの遺族をはじめ、蔵原惟人、伊藤整、大月源二、伊藤権之助ら多喜二とゆかりのふかい人たちや、地元の小樽市長、加茂商大学長ら発起人代表、共産党、社会党、労組の代表、市民約二百名が集まり、安達小樽市長のあいさつのあと、多喜二の姉佐藤ちまさんの孫、三つになる幸(みゆき)ちゃんの手で、碑面いっぱいにおおわれていた赤旗が引きおろされた。(浜林正夫「小林多喜二文学碑の除幕」1966年1月『民主主義』掲載)

多喜二の文学碑だから、政治的な色彩をまったくゼロにするということは、おそらく現実的ではないのだろうが、計画段階では「獄舎の鉄窓から首を覗かせている小林多喜二の姿を、巨大な彫像に仕立てる」などという噂もあったようで、保守系の人々の参加を困難にしていた(1965年『緑丘』参照)。

碑は、本郷新氏の設計製作によるもので、高さ四・五メートル、幅六メートル、いずれも灰色系で、紅、緑、灰などパステル調の四種の登別硬石を積み重ねて二枚の壁をきずき、全体の形は本を見開きにした格好である。(浜林正夫「小林多喜二文学碑の除幕」1966年1月『民主主義』掲載)

実際の文学碑は、文学者を象徴する本の形(見開き)をしていて、政治的イデオロギーは、極力排除されているが、向かって左側中央にある「北洋の労働者」の表情は、なかなか力強くて迫力がある。

右側の壁には多喜二の肖像、「小林多喜二文学碑」の碑名、獄中から多喜二が友人にあてた手紙の一節をとった碑文が、いずれもブロンズに刻まれてとりつけられ、左側の壁には、高さ約六十センチの「北洋の労働者」のたくましい肖像がはめこまれ、その上段には北極星、北斗七星を形どった四角の穴があけられている。(浜林正夫「小林多喜二文学碑の除幕」1966年1月『民主主義』掲載)

当時の新聞記事には「小樽港を一望する」などの表現があるが、現在、小林多喜二文学碑の設置場所から、海を見ることはできない(鬱蒼と茂る樹木が視界を遮っている)。

日本海や小樽市街を見下ろしたい人は、旭展望台まで戻る必要があるだろう(文学碑の手前に駐車場がある)。

木山捷平も訪れた小林多喜二文学碑

本郷新の設計・制作による小林多喜二文学碑。本郷新の設計・制作による小林多喜二文学碑。

文学碑建設にあたって協力を呼びかけた伊藤整は、小樽高等商業学校で、小林多喜二の一学年下だった。

互いに文学を志しながら、特別な交際のなかったことは、自伝的長篇小説『若い詩人の肖像』に詳しい。

私は、(略)小林多喜二とは毎日逢っていたが交際がなかった。その雑誌は、真白い表紙に赤い大きな片仮名で「クラルテ」と横に書いてあり、大変新鮮な感じがした。その時、私は殆んど知らなかったが、小林多喜二はこの頃から社会主義的傾向を持つと同時に、志賀直哉に傾倒し、雑誌に載った自分の作品を志賀直哉に送って批評を受けていたのである。(伊藤整「若い詩人の肖像」)

上京後も、二人の特別な交友はなかったが、獄死した同窓生の記憶を、小樽出身者としての伊藤整は、ずっと気にしていたのかもしれない。

木山捷平が、小樽を訪れたのは、1966年(昭和41年)5月のことだ。

まず最近出来たばかりの、小林多喜二の文学碑の見学ということになった。この碑は伊藤整をふくむ小樽高商の卒業生が、思想のいかんをとわず協力して出来たものだという記事を新聞で読んだ時から、私は興味をおぼえていたのである。(木山捷平「銀鱗御殿の哀愁」)

文学碑では、小樽商高の生徒と一緒になった(女子四人、男子一人)。

「碑文は露伴のような色紙調ではなく、楷書の活字体なので私にもよくよめた」「碑の色と形が、山と海によく調和していた」と、木山捷平は綴っている(やはり、文学碑から海が見えたらしい)。

「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは 人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない」(木山捷平「銀鱗御殿の哀愁」)

碑文に刻まれた文章を全文引用するなど、木山捷平は、この文学碑が、かなりお気に入りだったらしい。

碑文の手紙は、1930年(昭和5年)11月11日付けで、村山籌子に宛てて書かれたものの一節で、このとき、多喜二は、日本共産党へ資金援助した件で、治安維持法違反として起訴され、東京豊多摩刑務所に収容されていた(翌年1月に保釈出獄)。

東京の秋は何処まで深くなるのですか。ぼくは二十四ヵ年北の国を離れたことがない。それで、この長い、何処までも続く、高く澄んだ東京の秋を、まるで分らない驚異をもって眺めている。(新日本出版社『小林多喜二全集(第七巻)』村山籌子宛て書簡)

村山籌子に宛てたいくつかの手紙では、郷里・小樽を偲ぶ文章も散見される。

獄中にあって、多喜二の思いは、遠い北の街へ向かっていたのだろうか。

小林多喜二とは、共産党活動でも同志だった佐多稲子は、終戦直後の1948年(昭和23年)、総選挙の応援のために小樽を訪れている。

このとき、彼女は、小林多喜二の母親(小林セキ)を訪ね、その体験を「雪の降る小樽」として発表した。

まもなく朝里の駅へ着いたとき、ここは駅の中まで電気が消えていて、駅員のいる室だけにローソクがついていた。もう時間も遅いことだし、駅に喰っついた四、五軒の商店のどこからも明りはさしていない。(佐多稲子「雪の降る小樽」)

「雪の降る小樽」は、共産党の組織を通じて北海道旅行にやってきた主人公(和子)が、「十数年前に警察の拷問で死んだ作家Kの母親」の家へ泊まりにいく物語である。

警察に殺されたKの遺体からシャツを脱がしたのが、Kの母親と和子だった(「K」は小林多喜二で、「和子」は、もちろん佐多稲子だろう)。

豆ランプの灯りで、もう火の落としてあったストーブに薪を燃やしながら挨拶をかわした。鼻の大きな幅高の顔を下からかしぎ上げるようにして話すその顔は、Kの他の兄妹を知っている和子にも一番Kに似ているようにおもわれた。(佐多稲子「雪の降る小樽」)

小林多喜二の作品でも同じことが言えるが、小樽の街には、やはり、雪がよく似合うらしい。

小樽を代表する冬のイベント「雪あかりの路」は、伊藤整の処女詩集『雪明りの路』(1926)に由来するものだ。

雪と寒さを我慢できれば、北海道の文学散歩には、絶対に真冬がおすすめだが、山中にある小林多喜二文学碑まで除雪が行き届いているかどうか。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。