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島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』80年代初頭を生きる大学生の青春左翼物語

島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』あらすじと感想と考察

島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』読了。

本作『優しいサヨクのための嬉遊曲』は、1983年(昭和58年)8月に福武書店から刊行された作品集である。

この年、著者は22歳だった。

島田雅彦最初の作品集で、収録作品及び初出は、次のとおり。

「優しいサヨクのための嬉遊曲」
1983年(昭和58年)6月『海燕』
1983年上半期(第89回)芥川賞候補作
※受賞作なし

「カプセルの中の桃太郎」
1983年(昭和58年)8月『海燕』

70年代までの革命家から80年代以降の変化屋へ

本書に収録されている「優しいサヨクのための嬉遊曲」「カプセルの中の桃太郎」は、いずれも、左翼運動を通して、80年代初頭を生きる大学生の姿を描いた青春物語である。

70年代の学生とは異なる、新たな青年像が、そこにはある。

「ふふふ、考えても駄目よ。考えるっていうのは悩むことなのよ。悩んだり、苦しんだりしたくなかったら考えない方がいいんですって」(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

例えば、デビュー作「優しいサヨクのための嬉遊曲」で描かれているのは、考えることをやめた若者たちの姿だ。

新興住宅地のベッド村で暮らす大学生(千鳥姫彦)は、バージニヤ(逢瀬みどり)に恋をして、左翼運動を捨てる。

いや、主人公が参加していたものは、そもそも左翼運動ですらなかった。

「僕は変化屋です。変わるヘンカの」「ヘンカヤ?」「あのう、革命家のせこいやつだね。革命家と違うのは、家庭的なこと。わかる?」(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

1970年代までの「革命家」から1980年代以降の「変化屋」へ。

「といっても共産党とも新左翼とも関係ないんだ。……僕は六〇年代に生まれて、八〇年代に大学生になったわけだから、出遅れた左翼学生とでもいうか、そんなケチな野郎だよ」(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

社会運動には関心がある(ポーランド自由化運動)。

といって、左翼活動のために、生活のすべてを犠牲にするだけの覚悟もない。

「社会主義と資本主義を画然と分かつことはできない」「サークルには規則も強制もない。僕たちはゆるい結びつきでもいいんだ」という外池の言葉に、主人公は惹かれていく。

ベッド村のマンションから稼ぎ人たちが、仕事に出かけるように通いでサヨク運動ができると千鳥は思った。危険はないと。趣味のサヨク運動はベッド村の千鳥にぴったりだった。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

主人公が選んだのは、「ゆるい結びつき」の「サヨク運動」だった。

主人公は、趣味のサヨク運動とバージニヤとの恋とを結びつけて考える。

家庭的なサヨク活動は聖母みどりを略奪することを社会変革とみなした」のだ。

主人公のサヨク運動と恋愛が中心となって物語は進むが、バージニヤとの恋愛を重視する主人公は、サークルを辞めて、恋人が所属するオーケストラへ入団する。

ホルンはやがてバージニヤの体になるだろう。彼女が体を許す日までホルンのマウスピースでディープキスの練習をし、キイで乳房を揉む練習、朝顔で膣を刺激する練習をしていればよいと思っていた。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

社会運動よりも恋愛に価値観を見いだす主人公の姿は(それも公然と)、80年代を生きる新しい世代の象徴である。

そして、彼の恋愛を温かく見守るサークルメンバーたちも、また、80年代の若者たちだった。

「まっ、放っとけや、優しく見守ってやろうぜ、ふられたら、俺たちがあいつの身柄を引きとってさ、面倒見てやろうぜ。雑用でもやらしてさ。恋狂いに何の罪もねえさ。しかしさ、俺たちは優しいねえ。涙が出るほど優しいじゃねえか」(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

作品タイトル「優しいサヨク」の意味は、ここにある。

80年代の若者たちは「ゆるやかな連帯」を選択したのだ。

サークル活動の中心は、今や「社会主義道化団」の三人となりつつあった。

道化団のオフィスにもなっている石切の下宿、通称<石切場>の壁にはトロツキーの写真が貼ってある。山羊を彷彿させる白いひげを生やした贖罪の山羊は道化団のアイドルである(道化団の星トロツキー万歳)。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

彼らは、サークルの活動資金を確保するため、男性相手に体を売り始める。

無理はズボンを脱ぐことによって、サヨク市民運動の旗手になろうとしていた。洗礼を受けて、献身的な活動者になった。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

このホストクラブも社会主義道化団が乗取ったな」と言って、肩を組む若者たち。

新しいサヨク運動に身を投じた若者の姿が、ここにある。

作品タイトルの「嬉遊曲」は、サヨク活動家からオーケストラ員へと転身した主人公が奏でるメロディである。

嬉遊曲第十七番はこの上なく明るい。少ししんみりしてもそれは女の嘘泣きのようなものだ。悲しみも不安もあってはならない。たとえあっても踊っていれば忘れてしまう。千鳥は第六楽章のロンドのように生きようと決めた。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

悲しみも不安もあってはならない──。

モーツァルトの嬉遊曲は、新しい時代を生きる若者たちに捧げられたテーマ・ソングではなかっただろうか。

サヨク運動のために体を売る社会主義道化団も、オーケストラで恋愛を楽しむ主人公たちも、「悲しみも不安もあってはならない」時代を生きていた。

みどりとの恋愛も赤い市民運動も終りのないダンスだ。(島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊曲」)

「考えても駄目よ。考えるっていうのは悩むことなのよ。悩んだり、苦しんだりしたくなかったら考えない方がいいんですって」というバージニヤの言葉は、「千鳥だけでなく全人類を救済しうる言葉」である。

考えることをやめて、悲しみも不安もないモーツァルトの嬉遊曲を奏でる世代が、ここに誕生したのかもしれない。

ペニスを象徴として反体制運動を語ることができる時代

併録「カプセルの中の桃太郎」は、デビュー2作目となる短篇小説で、反抗期のなかった大学生が、強い自分に憧れて苦悩する青春物語である。

クルシマは十二歳の時から、原始彫刻の逞しく、美しい性器に憧れを抱いていた。重く、黒光りのする、堅い、天を挑発的に睨む、ゲバ帽のような性器は全能の神に強力なコネを持っているかの如く、不敵な笑いをささえていた。(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

黒くて堅い男性器は、主人公(クルシマ)が憧れる「強い自分自身」の象徴だ(クルシマという名前は「浦島太郎」のパロディだろう)。

主人公は、(メタファーとしての)立派な男性器を獲得するために、自分自身を変えなければならない。

クルシマの団地型ペニスは思索に適していた。自閉症的なまでの思索は、マンションの一室、彼の性器、マスターベイションをそれぞれ一点とする三角形に囲まれていた。(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

団地型ペニスを持つ主人公の恋人は、エロ本のアイドル(宵町しのぶ)である。

彼は、元ヤンキーのしのぶを自分だけの恋人として崇拝し、(マスターベーションによって)彼女との愛を深めた。

主人公の転身を促したのは、似た者同士のイノナカである(イノナカという名前は、「井の中の蛙」という言葉を連想させる)。

何処か間の悪い人間が持つ目つき、異常なほどありふれた顔、リズムに乗れない収まりの悪い動作、「あれ」とか「しまった」という言葉がよく似合う声、これら全ては二人の共有物だった。(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

少年時代、反抗期のなかった二人は、日の丸の「赤い丸」を切り抜き、穴の開いた白い布を頭から被る。

「これで俺たちも反抗する資格を得たわけだ。うん、反抗期が始まったのだ。もちろん、親や教師に反抗するんじゃあない。国家に反抗するんだ。鬼ヶ島の鬼どもをぶちとばしてやろうぜ」(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

「反体制桃太郎」が絶滅に瀕する中、「盗まれた反抗期を取り戻すため」、二人は国家への反抗を始めた。

つまり、この物語は、少年時代に反抗期のなかった二人が、大学生になって国家へ反抗する物語なのだ。

ひょっとしたらこれは俺の性器ではないかもしれない。一度去勢されたあと、人畜無害のマスターベイション用のペニスが移植されたのではないか。(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

なにしろ、男性器が主人公自身の象徴になっているから、ペニスに対する主人公のこだわりは強い(そして、そこに、この物語の面白さがある)。

男性器は、「男性自身」と呼ばれるくらいに象徴性の強い器官だが、ここまでストレートにメタファー化するという発想は、いかにも80年代という感じがするのではないだろうか(要は何でもありってこと)。

「暗い? いや、明るいとか暗いとか、そういう二元論はまったくくだらん。俺は嫌いだ。右か左か、正気か狂気か、エリートか落ちこぼれか、俺は二元論は断固拒否する」(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

おそらく、この作品も、新しい時代の新しい若者たちを描いたものだったのだろう。

右でも左でもない道を選ぶ、新しい青春像としての若者たち。

「政治運動めいたものは机の上でやってればいいじゃないか。体制に対して『イヤ』といえればいいと思うよ。家庭にいる小市民一人一人が『イヤ』っていえば体制はひっくり返るんだぜ。おまえは家庭に入って、革命を起こすべきだよ」(島田雅彦「カプセルの中の桃太郎」)

家庭から始まる革命思想は、デビュー作「優しいサヨクのための嬉遊曲」にも通じるものだ。

おまえペニスを鍛えなくちゃな」というイノナカの言葉は、もちろん、新しい世代へ送る激励のメッセージだっただろう(ひどいメタファーだとは思うけれど)。

大切なことは、ペニスを象徴として反体制運動を語ることができる時代がやってきたということではないだろうか。

70年代以前とは違う、新しい時代の左翼運動。

「優しいサヨクのための嬉遊曲」と「カプセルの中の桃太郎」とは、セットで楽しむことができる作品だが、バカバカしいという意味では「カプセルの中の桃太郎」の方が楽しかった。

書名:優しいサヨクのための嬉遊曲
著者:島田雅彦
発行:1985/11/15
出版社:福武文庫

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みつの沫
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。