永井龍男『秋・その他』読了。
永井龍男は、何ということもない日常生活の断片を、詩情豊かな短篇小説に仕立ててしまう。
本短編集に収録されている中では、まず「谷戸からの通信」が良かった。
谷戸というのは山に囲まれた谷に在する集落のことで、著者が暮らす鎌倉には、この谷戸が多い。
ある初秋に潰瘍を患った著者は、生まれて初めての入院生活を送ることになるのだが、「谷戸からの通信」では、この入院生活が、鎌倉の初秋風景と重ね合わせて、しみじみと美しく描かれている。
飾らない文体で、特別な事件が起きるわけでもないから、随筆なのか療養記なのか判然としないところが、この短篇小説の特徴だと思う。
入院先の病院で出会った人物が、物語の登場人物として個性的な役割を与えられているところは、いかにも創作小説である。
表題作の「秋」は、第二回川端康成文学賞を受賞した作品である。
ちなみに、川端康成文学賞は、優れた短篇小説に与えられる賞で、和田芳恵や古井由吉、三浦哲郎など、短篇小説の名手として知られる作家が、歴代受賞作品の中に名を残している。
永井龍男は、短篇小説の書き手であるということと、鎌倉在住の作家(鎌倉文士)であるということの二つの意味で、川端康成の良き後継者のひとりとなった。
受賞作「秋」は、「月見座頭」という狂言を下敷きにして、鎌倉の秋を描いた物語で、知己の瑞泉寺で月見酒を楽しむ場面で終わる。
鎌倉という街が持つ優雅な印象を、狂言と名月を素材に用いて粋に描いているので、読後は無性に鎌倉暮らしがしたくなって困った。
何気ない普通の暮らしのはずなのに、このような短篇小説の世界になると、人もうらやむような贅沢で粋な暮らしに変わってしまう。
通夜の晩に、誰も知らない客が食事をしていったという不思議なエピソードは、この小説に鎌倉の持つ神秘性を膨らませている。
短い小説の中で、素材を上手に組み合わせていて、優れた短篇小説とはこういうものかと理解させてくれるだろう。
もう一遍、「今年の灯」は、大晦日に東京都内へ出かけたときの話で、銀座で知人を訪ねた後、主人公は盆にも彼岸にも行けなかった墓参りをするために、愛宕山の寺へ向かう。
「何度かの土地改正で、寺も墓地も小さなものになってしまったが、東京生まれの人間は、まだこういうところに先祖代々の墓を持っている」とあるのを読むと、本当の江戸っ子というのは、東京のど真ん中に墓を持っていることかもしれないなどと思った。
いずれの短篇もしみじみとした味わいがあって、秋の陽射しの中で読むのにちょうど良いものである。
こういう小説は、時代とともに消えていくのではなしに、もっと読み継がれていってほしい。
西岸良平『鎌倉ものがたり』の世界
永井龍男の『秋・その他』を読んでいて思い出したのは、『鎌倉ものがたり』という西岸良平の漫画である。
『鎌倉物語』は、主人公のミステリー作家とその妻が、不可解な犯罪の謎解きをするというミステリー作品だが、鎌倉ならではの怪異が頻繁に起こるところも楽しい。
もちろん、漫画なので、現実的ではないストーリーも多いが、鎌倉らしい年中行事や、鎌倉に伝わる伝説などが素材として用いられているので、鎌倉らしさを味わうという意味では、非常に充実した作品である。
『秋・その他』は非現実的な作品ではないし、不可解な出来事が頻発するわけではないが、物語の根底には、何か不可解な出来事が起きても不思議ではないという、鎌倉の持つ神秘性が流れているような気がした。
書名:秋・その他
著者:永井龍男
発行:1980/9/17
出版社:講談社