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シューベルト『冬の旅』失恋男子が歌うセンチメンタル・ジャーニー聴き比べ

シューベルト『冬の旅』失恋男子が歌うセンチメンタル・ジャーニー

シューベルト『冬の旅』なら、ディースカウとムーアのコンビが定番。

特に、1962年(昭和37年)に録音されたものがいい。

古いSPレコードなら、野村あらえびすも絶賛したヒュッシュがおすすめ。

失恋ソングで構成されたコンセプト・アルバム

村上春樹の長篇小説『国境の南、太陽の西』(1992)に、シューベルトの「冬の旅」が出てくる。

僕はBMWのハンドルを握ってシューベルトの『冬の旅』を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだった。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。(村上春樹「国境の南、太陽の西」)

この小説には、たくさんのクラシック音楽が登場するが、BGMとして最も効果的に機能している曲のひとつが『冬の旅』だった。

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僕は今でも、『国境の南、太陽の西』というと、シューベルトの『冬の旅』を思い出す(小説の内容そのものよりも)。

庄野潤三の「卵」という短篇小説にも、『冬の旅』が出てくる(講談社文芸文庫『絵合せ』所収)。

小学5年生の次男(良二)が、和風月名を思い出そうとしている場面だ。

中学3年生となっている長男(明夫)に「物覚えが悪いなあ」と毒づかれながら、良二は、『冬の旅』の歌詞を考える。

「えーと、あれは」といってから、良二は「冬の旅」の中の「おやすみ」という歌をまず思い出してみる。姉の和子がうたっていたので、聞き覚えで、最初の方だけ知っている。(庄野潤三「卵」)

シューベルトの連作歌曲集『冬の旅』の最初の曲が「おやすみ」だった。

しかし、「冬の旅」の中でどうしてさつきの花が出て来るのだろう。最初に和子が高校の時の音楽の教科書をみながら、こたつでうたっているのを聞いた時、彼は、「あれ、どうしてかな」と思った。(庄野潤三「卵」)

長女(和子)の高校生時代というと、1963年(昭和38年)から1966年(昭和40年)まで。

当時は、高校の音楽の教科書に「おやすみ」の日本語版が掲載されていたのだろうか。

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庄野潤三の小説では、童謡や唱歌といった音楽が、印象的に引用されている場合が多い(童話や児童文学の引用も)。

『冬の旅』は、シューベルトの死の前年となる1827年に書かれた。

前作『水車小屋の娘』と同じくヴィルヘルム・ミュラーの詩に曲を付けた、24曲の作品で構成された連作歌曲集である。

ここには「水車屋」の ”物語” も、牧歌的な背景もない。灰色の冬の野が私たちの視界をとざし、その中でただひとりの ”私” の独白が、どこまでも続いてゆく。「冬の旅」の最大の特徴は、この均質な情感の異様な持続である。(西野茂雄「冬の旅」)

『冬の旅』の主人公は、愛する女性に失恋して放浪の旅へと出発する、一人の青年である(愛する女性は結婚してしまうのだ)。

お前の夢をかき乱さないように
お前のいこいを邪魔しないように
私の足音などを聞かれないように
私はこっそりとドアを閉ざす

通りすがりに、私はお前の家の戸口に
「おやすみ」と記しつけよう
私がお前のことを心に抱いていたことを
いつの日かお前がそれと知るように

(シューベルト「おやすみ」)

若者の傷心と真冬の情景がぴったりとマッチしている。

冒頭の曲として「おやすみ」は有名だが、5曲目「菩提樹」も、単独で紹介されることが多い。

つめたい風が真向から
私の顔に吹きつけ
頭から帽子が吹きとんだが
私はふり向こうともしなかった

いま 私はあの場所から
ずいぶん遠ざかっているのだが
それでも私は絶え間なく聞くのだ
「あそこに安らいがある」とささやく声を

(シューベルト「菩提樹」)

悲壮感では6曲目「あふれる涙」がすごい。

雪よ お前は私の願いを知っていよう
とけて流れて 一体どこへ行くのだ?
私の涙に従って行くなら
まもなく小川に行きつくだろう

小川とともに町のなかを流れて
にぎやかな通りを出入りするときに
私の涙が熱くたぎるのを感じたなら
そこに私の恋人の家があるのだ

(シューベルト「菩提樹」)

ドイツの詩人(ヴィルヘルム・ミュラー)が『冬の旅』を書いたのは、1824年のこと。

詩集を読んだシューベルトが感激して、作曲に取り組んだということらしいが、ミュラーは、3年後の1827年に33歳で亡くなっている。

シューベルトも、1828年に31歳で他界しているから、二人は、ほぼ同世代だったと言っていい。

いずれにしても、二人との早逝である。

最後(24曲目)の「辻音楽師」も有名。

村はずれに あそこのところに
ライエルをかなでるひとがいる
凍えた指で一生懸命
ライエルをまわしている

ふしぎな老人よ
私はお前についてゆくことにしようか?
私の歌に お前のライエルのしらべを
あわせてくれるだろうか?

(シューベルト「辻音楽師」)

本作『歌曲集』は、24曲の失恋ソングを収録した、コンセプト・アルバムである。

キャッチーなメロディを持った声楽曲なので、クラシック音楽として意識する必要もない。

ディースカウとムーアの『冬の旅』

シューベルト『冬の旅』を得意とする歌手に、フィッシャー=ディースカウがいる。

1925年(大正14年)、ドイツのツェーレンドルフに生まれたディースカウは、ベルリン音楽院で修学中、ドイツ国防軍に召集され、ロシア戦線に配置されるが、1945年(昭和20年)5月、ドイツ降伏の直前に、イタリア戦線でアメリカ軍の捕虜となり、1947年(昭和22年)6月まで捕虜生活を送った。

彼の歌曲に対する愛情はオペラと並行して深まり、シューベルトの600にわたる歌曲をしらみつぶしに研究するとともに、ベートーヴェンの歌曲集「はるかなる愛人に」と多くの歌曲やブラームスの数々の歌曲、そしてヴォルフの「イタリア歌曲集」を好んでこの時期にプログラムに選んだが、特にシューベルトの「影法師」に於けるモノローグは、聴く者の心を強くとらえる名唱として高く評価された。(福原信夫「フィッシャー=ディースカウをめぐって」)

戦後、リート歌手として活躍したディースカウは、特にシューベルトを得意とし、代表作『冬の旅』は、生涯で7回もスタジオ録音したという。

特に、ジェラルド・ムーア(ピアノ)とは相性が良く、1955年(昭和30年)、1962年(昭和37年)、1971年(昭和46年)という3つの録音が残されていて、『冬の旅』のスタンダードと言えば、ディースカウとムーアの組み合わせで推薦されることが多い。

いずれも名盤だが、個人的には、ディースカウが37歳の年に、ベルリンで録音された1962年(昭和37年)盤を聴くことが多い。

2002年(平成14年)2月2日(土)に、母方の祖母が亡くなった夜も、僕は、ディースカウとムーアの『冬の旅』を聴いていた。

深夜の手稲渓仁会病院で祖母は息を引き取ったが、あの夜の寒さは、いかにも『冬の旅』にぴったりの寒さだったように記憶している。

同じ年の秋、豊平神社の青空骨董市で、僕は『冬の旅』のSPレコードを買った。

ゲルハルト・ヒュッシュ(バリトン)とマンフレート・グルリット(ピアノ)が、1933年(昭和8年)に録音したレコードで、昭和レトロな食器を専門に扱う店だったから、古いレコードの値段は高くなかった(「好きな値段でいいよ」と言ってくれた、このお店も既にない)。

だから、その年の冬を僕は、ヒュッシュの古い『冬の旅』を聴いて過ごすことになった。

ヒュッシュの『冬の旅』は、野村あらえびす『名曲決定盤』でも高く評価されている。

『冬の旅(Die Winterreise)』二十四曲の歌が、いかに優れた珠玉篇であったか、ここに説くまでもなかろう。『冬の旅』の演奏は、ゲルハルト、ヒュッシュの滋味と老巧が圧倒的で、ドゥハンは到底及ばないが、その一つ一つにはなかなかに良いものがある。第一番目の「お休み」は、冒頭の歌で高潮した感情はないが、平明なうちになんとなく身に沁みる淋しさのある歌だ。ドゥハンはヒュッシュのような深い悲しみの含蓄がない。ゲルハルトのように、身につまされる物悲しさがない。この歌はなんとなく暗示的で、一脈の冷気と、物さびた味が要求されるが、ヒュッシュの出来は抜群だ。(野村あらえびす「名曲決定盤」)

古いレコードを聴くとき、野村あらえびすの解説は参考になる。

ヒュッシュほど、リードの解釈に聡明な人はなかったと思う。その表現は内輪で謹直であるが、思想的な裏付けはこの上もなく深奥でしっかりしている。ヒュッシュの『冬の旅』の全曲を聴いて、私はいつでも胸を締め付けられるような、湧き上る悲しみを感ずるのは、ヒュッシュの表現の底に隠された、思想的な深みの関係ではあるまいかと思っている。従来『冬の旅』を歌ったレコードはたくさんあり、その全部はヒュッシュより遙かに劇的に表現をしているが、悲哀に対する探究において、ヒュッシュの深さに対したものは一人もない。(野村あらえびす「名曲決定盤」)

ほぼ「絶賛」と言っていい。

最初の「お休み」は心の底から淋しさの滲み出す曲だ。このやるせなさと淋しさを、言葉の一つ一つに、極めて自然に持たせて歌える人は、恐らくヒュッシュのほかにはあるまい。ヒュッシュのレコードが現われる前、私はゲルハルトのこの曲の驚くべき技巧に傾倒したが、ヒュッシュと比べて聴くに及んで、ゲルハルトは、その老いを、劇的な空疎な表現によってカムフラージュしていることを、まざまざ覚らせられてしまった。ヒュッシュのこの歌に示した端正な表現と、その端正さの底に潜む情緒は実に無類の境地に達したものである。(野村あらえびす「名曲決定盤」)

蓄音機から流れる『冬の旅』を聴きながら、僕は、あらえびすの書いた『名曲決定盤』を読んだ(あの頃は、まだ部屋に電蓄を置いていたのだ)。

これほど好きな『冬の旅』だけれど、『冬の旅』は、やはり、真冬に聴きたい音楽である。

12月から2月にかけてが、僕にとっての『冬の旅』のシーズンだ。

そのピークに、ちょうど祖母の命日があると言っていい。

スーパーの総菜コーナーには、節分用の恵方巻が山積みになっていた、仮通夜の夜。

恵方巻を食べると、僕は今でも祖母のお葬式を思い出すし、祖母の死を考えると、必ずと言っていいくらいに、シューベルトの『冬の旅』を思い出す。

ディースカウとムーアが1962年(昭和37年)に録音した、あの『冬の旅』を。

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kels
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。