読書体験

【深読み考察】村上春樹「TVピープルの逆襲」高度情報社会の中で普通の日常を守ることの難しさ

村上春樹「TVピープルの逆襲」高度情報社会の中で普通の日常を守ることの難しさ

村上春樹「TVピープル」読了。

本作「TVピープル」は、1990年(平成2年)1月に文藝春秋から刊行された作品集『TVピープル』に収録された短篇小説である。

初出は1989年(平成元年)6月『PAR AVION』(終刊号)で、初出時の原題は「TVピープルの逆襲」)。

この年、著者は40歳だった。

村上春樹現象からの復活

「TVピープルの逆襲」が発表されたとき、作者の村上春樹は、なかなか大変な状況にあった。

1987年(昭和62)9月に講談社から刊行された『ノルウェイの森』が爆発的な大ヒットを記録し、世の中に「村上春樹現象」なるものが起こっていたのだ。

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1988年(昭和63年)4月、『ダンス・ダンス・ダンス』の刊行準備のために一時帰国した村上春樹は、あまりの環境変化に困惑したという。

日本に戻ると、『ノルウェイの森』は大ベストセラーになっていた。ずっと外国にいてよく事情がわからなかったせいもあるのだけれど、久し振りに日本に戻って自分が有名人になっていることを知って、僕はなんだか愕然としてしまった。(村上春樹「遠い太鼓」)

紀行集『遠い太鼓』には、『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』前後の頃のことが、詳しく綴られている。

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1988年(昭和63年)10月に講談社から刊行された『ダンス・ダンス・ダンス』もベストセラーとなり、バブル時代を生きる人々に「村上春樹」は文化的なマスターピースとなった。

すごく不思議なのだけれど、小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも、『ノルウェイの森』を百何十万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。(村上春樹「遠い太鼓」)

「結局のところ僕はそういう立場に立つことに向いていなかったのだろう。そういう性格でもないし、おそらくそういう器でもなかったのだろう」とまで追いつめられて、ベストセラー作家は執筆から遠ざかっていく。

その時期、僕は混乱し、苛立ち、女房は体を壊していた。文章を書こうという気持ちがまるで湧いてこなかった。たとえどのような種類の文章でもだ。(村上春樹「遠い太鼓」)

翻訳の仕事を治癒行為にしながら、徐々に体調を整えて、やがて、小説家(村上春樹)は復活する(ティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』を翻訳していた)。

その最初の作品が、本作「TVピープルの逆襲(初出時の原題)」だった。

短編『TVピープル』を書こうと思い立ったのは、TVのMTVをぼんやり見ているときだった。ルー・リードの『オリジナル・ラップ』という歌のビデオ・クリップが流れていた。(村上春樹『村上春樹全作品1990-2000(1)短編集』解題)

ルー・リードの「The Original Wrapper」は、1986年(昭和61年)発売のシングル曲で、アルバム『Mistrial』にも収録されているメッセージ・ソングだ。

ミュージック・ビデオは、ストリートにいる人々が、謎の3人組によって次々と、突然「箱」の中に閉じ込められてしまう映像で構成されている。

路上のベッドに横たわる夫婦の姿は、彼らの日常が公衆にさらされる危険性を示唆している(プライバシーの危機)。

箱に入れて連れ去られる人々は、あるいは、我々という人間存在の頼りなさを象徴したものかもしれない(それが現代社会だ)。

いずれにせよ、僕はソファに座って一人でぼんやりとそのビデオ・クリップを見ていたのだけれど、そのうちにとつぜん短編小説が書きたくなってきた。まるで頭の中で何かのスイッチが入ったみたいに、僕は立ち上がって机にむかった。そしてワードプロセッサーのキーをぱたぱたと叩き、ほとんど自動的にこの話を書いた。(略)それが文字通り僕の「復帰」の瞬間だった。(村上春樹『村上春樹全作品1990-2000(1)短編集』解題)

『ノルウェイの森』から始まった「村上春樹現象」による混乱からの再生という物語が、ここにはある(まるで村上春樹の小説みたいに)。

「TVピープル」を読むとき、僕は、どうしても、この再生物語のイメージから逃れることができない。

この小説は、「TVピープル」によって社会から分断された男の「孤独」を描いた物語だからだ。

TVピープルとは何か?

TVピープルは、日常生活の中へ強制的に潜り込んでくる異質の存在だ。

そういうのは不自然だとあなたは言うかもしれない。部屋の中に見知らぬ人間が突然、それも三人も入ってきて、勝手にテレビを置いていくというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めているなんて、ちょっと変な話じゃないか、と。でも僕は何も言わなかった。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

この物語のポイントは、「部屋の中に見知らぬ人間が突然入ってきたというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めている」という、主人公の姿勢にある。

つまり、世の中には、突然入り込んできても、黙ってそれを眺めているしかできない、という類のものが「実際に」存在する、ということなのだ。

例えば、高度情報社会を生きる我々にとって、それは、意識するしないにかかわらず、否応なく飛び込んでくる「情報」かもしれない。

我々は「情報」を拒絶することはできない。

そのことでみんなは冗談を言う。僕がテレビもビデオも持っていなくて、エレベーターも使わないせいで、彼らは僕のことを変人だと思っているのだ。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

テレビやビデオを持っていないことも、エレベーターを使わないことも、高度情報社会では、何の意味も持たない。

なぜなら、高度情報社会では、情報こそが、我々の生きる環境を変えてしまうからだ。

情報を拒絶するということは、情報を認知するかどうかということではない。

情報が変えた新しい環境を受け入れることができるかどうかということなのだ。

TVピープルの持ち込んだ「テレビ」は、主人公の日常を変えてしまう。

彼が、そのことをはっきりと自覚するのは、妻が帰宅しなかったときだ。

「奥さんはもう帰ってこないよ」とTVピープルは同じ口調で言った。「何故?」と僕は訊いた。「何故って、もう駄目だからだよ」とTVピープルは言った。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

情報に翻弄されて生きる現代人の姿が、そこにはある。

たしかに、僕らはもうとりかえしのつかないほど駄目になってしまったのかもしれない。失われてしまっていたのかもしれない。そして僕だけがそれに気づかなかったのだ。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

その世界では、「情報」がどんなものであるかということに意味はない。

「飛行機じゃないとすると、これは何なんだい?」とTVピープルが僕に訊いた。僕にはわからなかった。だとするとこれはいったい何なんだろう?(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

テレビの映像に映っているものが、本当の飛行機なのかどうか、それは問題ではない。

大切なことは、テレビによって映し出された映像が、日常を(世の中を)変えてしまうというところにある(「不思議な話だけれど、TVピープルたちのそんな完璧と言ってもいい仕事ぶりをじっと見ているうちに、僕にもそれが少しずつ飛行機に見えてきた」)。

「テレビ」は、もちろん、マスメディアを象徴するものだろうし、「TVピープル」は、情報によって踊らされる大衆を投影した存在だ。

主人公は、徹底的に「情報」を拒絶して生きてきた。

全部妻の雑誌だった(僕は雑誌はほとんど読まない。本しか読まない。世の中の雑誌という雑誌が全部きれいに潰れてなくなってしまえばいいと思う)。『エル』とか『マリ・クレール』とか『家庭画報』とか、その手の雑誌だ。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

そんな主人公も、情報が生じさせる「環境変化」までは拒絶することはできない。

そこに現代人の悲劇がある。

注目したいのは、この主人公が「電機会社の広報宣伝部の仕事をしている」ということだ(「トースターやら洗濯機やら電子レンジやらの広告を作っている」)。

つまり、主人公も、また、情報によって、人々の日常生活に変化を起こす側の人間だった、ということである。

僕は、このパラドックスに「村上春樹現象に巻き込まれた村上春樹」をイメージすることができる。

なにしろ、「村上春樹現象」を作り上げたのは、何と言っても「村上春樹」自身に違いなかったからだ。

なぜ「TVピープルの逆襲」だったのか?

ところで、「TVピープル」は、『PAR AVION』初出時の原題は「TVピープルの逆襲」だった。

1989年『PAR AVION』(終刊号)より1989年『PAR AVION』(終刊号)より

つまり、この物語の主人公は、本来「TVピープル」だった、ということだ。

主人公は、「情報」を拒絶して(あるいは「情報」によるコミュニケーションを拒絶して)生きてきた人間である(なにしろ、家にテレビがない)。

高度情報社会を舐めるなと、TVピープルは言いたかったのかもしれない(このあたりに『ダンス・ダンス・ダンス』の余韻を感じ取ることができる)。

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少なくとも、主人公は「妻が帰って来なかった」という事実に、TVピープルのメッセージを読みとっていたのだ。

この物語は、微妙な夫婦関係をモチーフとしているが、決して「夫 VS 妻」という構図を採っているわけではない。

構図は、あくまでも「主人公 VS TVピープル」であり、妻の喪失は、TVピープルによって引き起こされた環境変化の象徴として読むべきなのだ(言い過ぎか)。

もちろん僕らは完全な夫婦ではなかった。僕らは四年間のあいだに何度も口論した。僕らのあいだにはたしかにいくつかの問題はあった。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

言い換えると、本作「TVピープルの逆襲」は、情報によって引き起こされる環境変化を、微妙な夫婦関係をモチーフとして描いた物語として読むことができる。

TVピープルの逆襲を受けて、主人公は妻を失った(孤独になった)。

しかし、この作品は、そのような絶望だけを描いた物語だったのだろうか?

「もうすぐここに電話がかかってくるよ」とTVピープルは言った。それから計算するようにすこしだけ間をおいた。「あと五分くらいで」(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

この物語で、「電話」は重要なコミュニケーション・ツールとして機能している。

僕はよほど彼女の会社に電話をかけてみようかと思った。そしてなんでもいいからふたことみこと言葉を交わしてみたかった。僕は最初の三つの数字を回しまでした。でも思い直して途中でやめた。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

妻からかかってくる電話は、主人公に残された最後のチャンスなのだ。

ちょっと待ってくれ。僕は発言したい。僕は何か言わなくてはならない。僕には言うべきことがあるのだ。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

この物語の心臓部は、おそらく、この部分だ。

一方的に押し寄せるTVピープル(情報)に対して、今、主人公は、何かを言おうとしている。

それは「『TVピープルの逆襲』に対する逆襲」だ。

1989年『PAR AVION』(終刊号)より1989年『PAR AVION』(終刊号)より

おそらく、この物語の本当のタイトルは「『TVピープルの逆襲』に対する逆襲」である。

かつて、情報から逃げていた(避けていた)主人公の中に、情報と向き合う姿勢が生まれた。

氾濫する情報は、主人公の日常を非現実的なものへと変えてしまったかもしれない。

僕は自分の手のひらを眺めた。僕の手のひらはいつもに比べて少し縮んでいるように見えた。ほんの少しだけ。(村上春樹「TVピープルの逆襲」)

何が現実で、何が現実でないのか(「すごく変だ。おかしい。何かが間違っている」)。

境界線の曖昧な世界で、主人公は生きていかなくてはならない。

それが「TVピープル」の世界だからだ。

今や、主人公も、TVピープルを拒絶することはできない。

大切なことは、自分の日常を取り戻すことだ(つまり、妻を取り戻すこと)。

そのために、彼は「何か言わなくてはならない」

結局、高度情報社会の中で、自分の身を(日常を)守ろうとするのであれば、敵を黙殺するだけでは十分ではない、ということなのだろうか。

あるいは、この物語は、情報社会の中で普通に生きることの難しさを教えてくれているのかもしれない。

作品名:TVピープルの逆襲
著者:村上春樹
書名:par AVION
発行:1989/06/15
出版社:MAD出版

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kels
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。