川本皓嗣・編『対訳 フロスト詩集(アメリカ詩人選(4))』読了。
本作『対訳 フロスト詩集』は、2018年(平成30年)8月に岩波文庫から刊行された精選作品集である。
自然を通して人生を詠む
ロバート・B・パーカー『ゴッドウルフの行方』で、主人公(私立探偵スペンサー)は、ロバート・フロストの詩を思い浮かべている。
チャールズゲイトの出口でストロゥから下りると、立体交差でコモンウェルス街の上を通りながら、アーチの下のシダレヤナギを見下ろした──今は葉のないほっそりした枝に雪が凍りつき、冬の重みで深ぶかと頭を垂れている。フロストの詩があるが、あれはカンバだった、と考えているうちに立体交差のランプを下りて駐車する場所を捜した。(ロバート・B・パーカー「ゴッドウルフの行方」菊池光)
マサチューセッツ州ボストンの住民であるスペンサーは、「ニューイングランドの吟遊詩人」と呼ばれるロバート・フロストの作品を愛読していたに違いない。
1963年(昭和38年)に88歳で亡くなったロバート・フロストは、生前11冊の詩集を発表している。
①少年の心(1913)
②ボストンの北(1914)
③山間の土地(1916)
④ニュー・ハンプシャー(1923)
⑤西に流れる川(1928)
⑥遥かなる山並み(1936)
⑦証の木(1942)
⑧理性の仮面(1945)
⑨しもつけの木(1947)
⑩慈悲の仮面(1947)
⑪開拓地にて(1962)
本作『対訳 フロスト詩集』は、フロストの全詩集の中から代表作を精選収録した、いわゆる「ベスト・アルバム」である。
まず、代表作として挙げたいのが「選ばなかった道」(③『山間の土地』所収)だ。
いつの日か、今からずっとずっと先になってから、
私はため息をつきながら、この話をすることだろう。
森の中で道が二手に分かれていて、私は──
私は人通りが少ない方の道を選んだ、そして、
それがあとあと大きな違いを生んだのだと。
(ロバート・フロスト「選ばなかった道」川本皓嗣・訳)
フロストは、大自然を題材とする作品を多数発表したことで知られている。
しかし、彼が詠っているのは、自然そのものだけではない。
自然のなかで生きる生身の人々こそが、彼の詩のテーマだった。
ロバート・フロストはときに、アメリカ北東部ニュー・イングランドの古風で素朴な農民詩人・自然詩人と呼ばれることがある。これは大きな誤解のもとだ。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』はじめに)
自然を通して人生を詠むことが、フロストという詩人だったかもしれない。
彼の詩はたいていニュー・イングランドの田舎の風景や農作業の一こまを出発点とするが、それが単なる自然の描写や賛美に終始することはまずない。彼の関心はつねに人間の心そのもの──自然を相手にする場合でも、自然のなかで人間が何を感じ、何を考えるかという点にある。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』はじめに)
「選ばなかった道」で、フロストは人生を「森の中の道」に喩えながら、歩まなかった方の道に思いを馳せている(つまり「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」だ)。
詩の中の主人公(私)が、作者自身(フロスト)ではなく、イギリスの詩人(エドワード・トマス)であることは、駒村利夫『ロバート・フロストの牧歌』(1984)でも紹介されている。
さらに本詩の「私」が親友エドワード・トマスであることも明かしている。フランス戦線のトマスに何の注釈も付けずに本詩が送られたとき、当のトマスは恥ずかしそうに、フロストではなく自分の肖像画であると認め、からかわないように、と叫んだという。(駒村利夫「ロバート・フロストの牧歌」)
この短くて簡潔な詩は、解釈の難しい作品としても知られており、フロスト自身「気をつけてくださいよ。この詩はずるい詩なんです。とてもずるいんです」と述べたという(「ロバート・フロストの牧歌」)。
「雪の夜、森のそばに足を止めて」(④『ニュー・ハンプシャー』所収)もまた、フロストの代表作として広く知られている作品だ。
森はまことに美しく、暗く深い。
だがわたしにはまだ、果たすべき約束があり、
眠る前に、何マイルもの道のりがある。
眠る前に、何マイルもの道のりがある。
(ロバート・フロスト「雪の夜、森のそばに足を止めて」川本皓嗣・訳)
フロストの詩には、古臭くて硬質な日本語の方が似合うかもしれない。
森は美しく、暗く、そして深い。
だが私には果たさねばならぬ約束がある、
そして眠る前に何マイルも行かねばならぬ、
そして眠る前に何マイルも行かねばならぬ。
(ロバート・フロスト「雪のたそがれに森のそばに立つ」川本皓嗣・訳)
この作品においても、暗く深くて、そして美しい「森」は、人生のメタファーである。
「だが私には果たさねばならぬ約束がある」に続いて「そして眠る前に何マイルも行かねばならぬ」と繰り返されるフレーズは、まさに、これからの人生を生きていこうと決意する者にふさわしい言葉だ。
フロストの詩でもとりわけ世に知られ、アメリカでは教科書や詞華集で「誰もが」知っている作品だろう。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』作品解説)
前向きでたくましいフレーズは、いかにも(開拓者たちの末裔としての)アメリカ人好みという感じがするが、この作品は、フロストの実体験から生まれたものらしい。
クリスマスが近づいたのにその準備もおぼつかない。思い余って、農場の産物を荷馬車に積んで遠い市に出かけたが、何も売れなかった。帰り道で今年は子供たちにプレゼントもしてやれないことに思い当たり、暗い森のそばで立ち止まって、大声で泣いた。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』作品解説)
しかし、大人はいつまでも泣いているわけにはいかない。
「私には果たさねばならぬ約束があり」「眠る前に何マイルも行かねばならない」からだ。
そこには「厳しい人生」を生きていかなくてはならない男の「悲壮な決意」がある。
フロストは奥深い森や山の中にただ一人で分け入って行くのが大好きで、そうしてほぼ毎日のように繰り返していた孤独な遠歩きが、彼の多くの詩のテーマないしきっかけとなっている。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』はじめに)
自然を通して人生を歌ったフロストのスタイルは、ある意味で「北海道の吟遊詩人」松山千春に似ているかもしれない。
なぜなら、松山千春もまた、北海道の自然を歌いながら人生を歌い続けていたからだ。
海の青さにとまどう様に
とびかう鳥の様に
はばたけ高く
はばたけ強く
小さなつばさひろげ
めぐるめぐる季節の中で
貴方は何を見つけるだろう
(松山千春「季節の中で」)
松山千春が歌った北海道もまた、開拓者たちが切り拓いた土地だった。
庶民の言葉で描かれた庶民の物語
ロバート・フロストの作品には、哲学的なフレーズが多い。
事実こそは、労働の知るいちばん甘い夢なのだ。
私の長い鎌は囁きながら、せっせと干草を作っていった。
(ロバート・フロスト「まぐさ刈り」川本皓嗣・訳)
夢のために働く労働者たちにとって、最も「甘い夢」は、彼らが働いているという、その事実である。
実際、フロストは農場で働く労働者だった。
労働の中から、多くの詩が生まれた。
「人々は一緒に働くのだ」、私は心底から彼に言った、
「一緒に働こうと、別々にだろうと」。
(ロバート・フロスト「一叢の花」川本皓嗣・訳)
彼の詩は、労働者の詩である。
なにしろりんご摘みの
やりすぎで、自分が望んだはずの
大豊作に、すっかりくたびれ果てたのだ。
私のこの眠りを乱すものがいったい何なのか、
分かりきっている──どんな眠りなのかは別として。
もしまだあたりにいたら、
ウッドチャックに聞けるのに──いま話しているように
私に来かかっているのは、彼の長い眠りに似たものか、
それともただの人間の眠りなのかを。
(ロバート・フロスト「りんご摘みのあとで」川本皓嗣・訳)
彼にとって、人生は、常に哲学だったかもしれない。
ある灰色の一日、凍った湿原に出かけたとき、
私は立ち止まってこうつぶやいた。「ここから引っ返そう。
いや、もっと先へ行って──様子を見よう」。
(ロバート・フロスト「薪の山」川本皓嗣・訳)
凍った湿原で彼が発見したものは、置き忘れられた「薪の山」だった。
大きな自然と小さな人間との関わりが、人知れず放置された「薪の山」に象徴されている。
「石垣直し」は、世の中に無数にあるだろう「垣根」について詠われた作品だ。
ふと彼が、闇のなかを歩んでいるように思われる。
それも、森や木陰のつくり出す闇ばかりではない。
彼は父親から教わった諺を疑おうともせず、
じっくりその意味を考えた満足感にひたりつつ、
もう一度繰り返す、「よき塀あってのよき隣人」と。
(ロバート・フロスト「石垣直し」川本皓嗣・訳)
そんな彼の詩から、アメリカ人は学び続けた。
人生とはどんなものなのかということを。
「うちというのは、こちらが帰りたいと言ったら、
否応なく迎え入れてくれるはずの場所だよ」。
「私ならこうよ──
こちらが帰るのに何も資格を問われないところ」。
(ロバート・フロスト「雇われ農夫の詩」川本皓嗣・訳)
まるで物語を語るように、フロストは貧しい労働者の人生を一篇の詩として綴っている。
「雇われ農夫の詩」は、1915年(大正4年)の秋、実際に舞台でも上演された
「彼は何をやっても、そうひどく駄目というわけじゃない。
他の人とどこがどう違うのか自分でもわかっていないのよ」
(ロバート・フロスト「雇われ農夫の詩」川本皓嗣・訳)
彼の人生は、決して幸福なだけの人生ではなかった。
農夫時代には、幼い子どもを病気で亡くしたこともある。
「だめよあなたは。口の利き方も知らないんだから。
感情の一かけらでもあったら──自分の手で
あなたは掘ったのよ──よくもまあ──あの子の小さなお墓を」
(ロバート・フロスト「自宅埋葬」川本皓嗣・訳)
生きていくだけで精一杯だった夫婦の葛藤が、そこにはある。
「誰かに友達が死ぬまで一緒だと言っても、
どうせうんと手前までしか行けないのだから、
いっそはじめから行くなんて言わないほうがましよ。
そう、人は死の床についたが最後、
もう一人ぼっち、死ぬときはもっと一人ぼっちなの」
(ロバート・フロスト「自宅埋葬」川本皓嗣・訳)
葬られたものは、彼らの幼い子どもだったのか、あるいは、彼の妻だったのか。
「もう一人ぼっち、死ぬときはもっと一人ぼっちなの」という妻の言葉は、生きながらにして「家庭」という墓の中へ葬られていく彼女の叫びだったかもしれない。
生きることと真正面から向き合っているところに、フロストという詩人のスタイルがあった。
そして眠った。一度ストーブの中で、薪ががたんと
崩れて彼の眠りを乱し、彼は寝返りを打って
荒い呼吸(いき)をゆるめたが、それでも目は覚めなかった。
年老いた男──男が一人、家の、
農場の、田舎の世話なんかできっこない。できるとしても、
冬の夜々(よなよな)には、ただこんな風にしているだけのこと。
(ロバート・フロスト「老人の冬の夜」川本皓嗣・訳)
人生を直視するフロストの詩は、なぜか我々の心に安らぎを与える。
言葉の装飾で人生をごまかしたりするような詩を、彼は書かなかったからだ。
その一つは、フロストが誰にも読めそうなやさしい単語ばかりの詩、いわば基本1000語以内の初心者向けと見える詩を書いているからだ。そもそもかのT・S・エリオットらと並ぶ20世紀の現代詩人でありながら、「知的」で稀少な語をほとんど使わないとは、いったいどういうことか。(川本皓嗣『対訳 フロスト詩集』はじめに)
フロストの言葉は庶民の言葉であり、フロストの詩は庶民の詩である。
「トーフィル、あいつが見えないの。
でも、たしかにこの部屋にいるわ。骨よ」
「何の骨だ」「地下室の骨よ──墓から出てきた」
(ロバート・フロスト「コーアスの魔女」川本皓嗣・訳)
妻が他の男と浮気をするのも、激怒した夫が男を殺してしまうのも、やはり庶民の物語だった。
あれは父さんがあたしのために殺した男の骨だ。
あれは父さんがあたしに代えて殺した男の骨だ。
あたしにできたのは墓を掘る手伝いだけだった。
(ロバート・フロスト「コーアスの魔女」川本皓嗣・訳)
不倫した妻を殺す代わりに、夫は、妻の不倫相手を殺す。
殺された男の骨は、永遠に彼らを呪い続けていたのかもしれない。
どうやらあたりに広まっているらしい。
私が家に一人でいるという噂──
私がこの世に一人でいて、
神様以外に誰もいないという噂が。
(ロバート・フロスト「取り残されて」川本皓嗣・訳)
「神様以外に誰もいない」と思われるような孤独の瞬間は、誰の人生にもあったはずだ。
この深い喪失感に、人々は共感している。
たいして広くは見渡せない。
たいして深くも見通せない。
だが、そんなことにはお構いなく、
誰もが海を見つめている。
(ロバート・フロスト「広くもなければ深くもない」川本皓嗣・訳)
見渡すほどに「人生」は広くもなく、深くもない。
それでも、人々は「人生」について考えないわけにはいかない。
なぜなら、それこそがまさに「生きる」ということだったからだ。
ロバート・フロストの詩は物語である。
つつましい言葉の中から溢れる壮大な物語を、我々はどれだけ読みとることができるだろうか。
フロストの詩を読むたびに、我々はフロストに試されているような気がしてならない。
つまり、それこそが「フロストという詩人の作品を読む」ということなのだ。
書名:対訳 フロスト詩集(アメリカ詩人選(4))
著者:ロバート・フロスト
編者:川本皓嗣
発行:2018/08/17
出版社:岩波文庫

