毎年三月が近づくと、あの懐かしいピアノの旋律がどこからか聞こえてくる。
尾崎豊の代表曲『卒業』。
1985年にリリースされたこの楽曲は、当時の若者にとっては単なるヒット曲ではなく、管理社会に対する「宣戦布告」としてのテーマソングでもあった。
リリースから約40年。「管理される側」だった子どもたちも、今や「管理する側」の大人となり、若い世代との価値観の違いに戸惑っている。
本記事では、尾崎豊『卒業』の歌詞の意味を、現代社会(SNS・管理社会)の視点から再考察していく。
我々は果たして、本当に「あの支配」から卒業できたのだろうか。
1985年の原風景――なぜ窓ガラスは割られなければならなかったのか
尾崎豊は、校内暴力の時代に生まれた「十代の教祖」である。
校内暴力の時代と尾崎豊の登場
偏差値教育という名の序列化によって、受験戦争さえも秩序化された時代、中高生の閉塞感は、もはや行き場のないところまで達していた。学校を(つまりは教師を)「敵」とみなした彼らは、「教師VS生徒」という校内暴力の構図を作り上げていく。
昭和の学園ドラマ『三年B組金八先生』で、今や校内暴力時代の象徴ともなっている「腐ったミカンの方程式」が放送されたのは1980年。それから5年後の1985年に、尾崎豊は『卒業』を発表する。
若者たちの教祖・尾崎豊が言語化したものは、今にも窒息しそうな少年少女たちの「言葉にならない叫び」だった。
破壊された「窓ガラス」が意味するもの
『卒業』の中で、尾崎は校舎の「窓ガラス」を叩き続けている。
行儀よく真面目なんてクソくらえと思った
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
(尾崎豊「卒業」)
あの頃、尾崎は何にあれほど苛立ち、「窓ガラス」を壊して回ったのだろうか。大人になった今、あの頃の尾崎の(本当の)気持ちが、ようやく理解できるようになった気がする。
尾崎が壊して回ったのは、「自分」という名前の窓ガラスだったのだ。
行儀良く真面目に振る舞うことが嫌だったわけではない。「大人たち」という目に見えない敵に取り込まれて「自分」を見失っていくことを、我々は何よりも恐れていた。
尾崎豊は、自分の中の「窓ガラス」を破壊することによって、本当の「自分自身」を獲得しようとしていた。あの頃の我々にとって「窓ガラス」を破壊する行為は、自分自身の「虚像」を破壊する行為でもあったのだ。
「仕組まれた自由」の40年後
尾崎が「卒業」を歌ってから40年。時代は「支配」の形をも変えてしまった。
姿を変えた管理社会――「支配」の正体
あれから、長い時間を経て、学校を卒業した今、我々は本当に自由になったのだろうか?
尾崎豊は歌っている。
仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も終わる
この支配からの卒業 戦いからの卒業
(尾崎豊「卒業」)
「仕組まれた自由」とは、現在を生きる我々に与えられた自由だ。もちろん、大人になった今、「校則」も「体罰」も我々にはない。
しかし、なぜか、我々は「SNS」というアルゴリズムの中で、「いいね」の数を競い、「フォロワー数」を競いながら、あがき続けている。「管理教育」よりもずっと高度に洗練された「支配」によって、現代人の自由は「仕組まれている」のだ。
かつて、尾崎を苦しめた「校舎の窓ガラス」は、今や「スマートフォン」と名前を変えて、我々の自由を支配し続けている。
大人になった僕たちの現在
さらに、大きな問題は、かつて「支配される側」だった我々が、今や「支配する側」に立ってしまっている、という事実だ。
我々は「老害」と呼ばれながらも昔を懐かしみ、若者たちに「行儀良く真面目である」ことを要求する。「仕組まれた自由」を仕組んでいるのは、もしかすると、我々自身ではなかったか。
かつて、大人たちを追いつめた「卒業」は、今や我々自身を追いこんでいこうとしている。
尾崎豊が遺した「未完の宿題」――支配からの卒業を再定義する
それでは、尾崎豊が歌った「卒業」とは、いったい何を意味していたのだろうか?
僕が僕であり続けること
尾崎豊が歌った「卒業」は、単に学校を卒業することではない。
なぜなら、尾崎が歌っているのは「この支配からの卒業」だったからだ。
それは「管理教育」による支配でも、ましてや「教師」による支配でもなかった。
尾崎が歌っていたのは「自分自身の虚像」からの卒業である。
過度に甘やかされた時代の中で、ともすれば我々は「自分自身」を見失いがちだった。安直なレールに乗った生き方を「支配」という言葉に置き換えたとき、尾崎の苛立ちの意味が理解できるかもしれない。
これからは何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身卒業すれば
本当の自分にたどりつけるだろう
(尾崎豊「卒業」)
「僕が僕であり続ける」ために、尾崎はあがき続けた。
ピンボールのハイスコアを競い合い、大げさにしゃべり続け、夜の校舎で窓ガラスを壊してまわった。
「本当の自分」にたどりつくために、尾崎は叫び続けていたのだ。
終わりのない「卒業」
そして今、我々は尾崎の遺した宿題が「未完」だったことを知る。「卒業」に終わりはなく、「本当の自分自身」にたどりつくために、これからも我々は戦い続けていかなければならない。
SNS社会というクールな支配の中で。「働き方改革」という名のウェルビーイングな職場環境の中で。
壊しても壊しても永遠に終わらない「窓ガラス」が、我々にはあった。
尾崎はそのことを知る前に逝ってしまったのだ。重すぎる宿題だけをあとに遺して。
まとめ:2026年という「夜の校舎」の中で
尾崎豊『卒業』のイントロが聞こえる。
優しいメロディの中に、どこか苛立ちが感じられるようなピアノの旋律。
『卒業』という名の宿題を遺して、尾崎は「夜の校舎」の中へ消えてしまった。
そして、僕たちは、今も「夜の校舎」という名の人生をさまよい続けている。