読書体験

文庫化された『百年の孤独』が<つまらない>なんて嘘だ!こんなにすごい小説はない理由

文庫化された『百年の孤独』がなんて嘘だ!こんなにすごい小説はない理由

ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」読了。

本作「百年の孤独」は、1967年(昭和42年)に刊行された長篇小説である。

原題は「One Hundred Years of Solitude」。

この年、著者は39歳だった。

1982年(昭和57年)、ノーベル文学賞受賞。

興味深いエピソードが複雑に絡み合っている

ガルシア・マルケス『百年の孤独』は、100パーセント間違いなく素晴らしい小説だ。

アウレリャノ大佐の銃殺シーンあたりまで読み終えるころには、もう、そのように確信していた。

そして、最後の一文を読み終える瞬間まで、その確信が裏切られることはなかった。

『百年の孤独』は、これまでに読んだ小説の中で、ダントツですごい小説である(「つまらない」なんて絶対に嘘だ。ただし、個人的に好きかどうかは趣味の問題)。

この作品の凄さの基本は、精緻なディテールによって描かれた、夥しい数のエピソードにある。

例えば、アウレリャノ大佐が反乱を始める場面。

狂犬に噛まれたある女は、大尉に指揮された四人の兵隊によって無理やり家族のもとから引きずり出され、通りのど真ん中で銃でなぐり殺された。占領から二週間たったある日曜日、アウレリャノはヘリネルド・マルケスの家を訪れて、いつものようにのんびりした口調で、ブラックコーヒーを飲ませてくれ、と言った。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

この小さな事件をきっかけに、アウレリャノ大佐は32回もの反乱を起こしては敗北し、14回の暗殺と73回の伏兵攻撃、1回の銃殺刑の難から逃れることになるのだが、架空の町(マコンド)の100年の歴史は、アウレリャノ大佐の数奇な人生を中心として描かれていく(「自由党万歳! アウレリャノ・ブエンディア大佐万歳!」)。

マコンドに自動ピアノを持ちこんだイタリア人(ピエトロ・クレスピ)とアマランタ、レベーカの三角関係も凄い。

ある日の午後、アマランタが台所へ行って、燃えているかまどの火に片手を突っこみ、あまりの苦しさに、もはや苦痛どころか焼けただれた自分の肉の耐えがたい臭気しか感じなくなったときでさえ、ウルスラは哀れみの目で見ようとはしなかった。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

アマランタに失恋したピエトロ・クレスピが自殺したことで、アマランタは、片手に大きな火傷を追わせて、自らを罰し(生涯「黒い包帯」を手放すことがなかった)、失意と後悔のレベーカは家を出て、孤独で長い人生を送ることになる。

そもそも、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランの二人が、マコンドという新しい町を建設したのは、闘鶏のトラブルから、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが、ブルデンシオ・アギラルを殺したことが原因だった。

ある晩、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはその部屋で死人が傷口を洗っているのを見て、ついに我慢がしきれなくなって言った。「わかったよ、ブルデンシオ。おれたちはこの村を出ていく。できるだけ遠くへ行って二度と戻ってこないから、安心して消えておくれ」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

こうして誕生したのが、マコンドであり、アウレリャノは、マコンドで一番最初に生まれた子どもだった。

洪水のように溢れるエピソードには「その部屋で死人が傷口を洗っているのを見て」のように、非現実的な描写が、当たり前のように混在している(これを「マジック・リアリズム」という)。

ある日の午後、操縦係のジプシーとうれしそうに手を振る数人の村の子供たちを乗せて、空飛ぶ魔法の絨毯が工房の窓をかすめた。(略)「せいぜい楽しませておけ。わしらは、あんなみっともないベッドカバーよりもっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせるから」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

強力な伝染病である「不眠症」がまん延したとき、町は大混乱に陥る。

ホセ・アルカディオ・ブエンディアは町ぜんたいが疫病に侵されたことを知ると、各家庭の主人を呼びあつめて、不眠症について知っているだけのことを説明し、災厄が低地のほかの町にまで及ぶのを防ぐ処置をとることにした。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

現実的に、不眠症が伝染することはないが、物語の中で、不眠症のエピソードは、象徴的な意味を持って機能する。

それは、睡眠時間を削ってまで働くことに対するアイロニーであり、やがて、世の中をパニックに陥れるだろう、未知の感染症に対する警告だったかもしれない(たとえば、コロナの時代のような)。

レメディオス(小町娘)が、空へ消えていくエピソードもいい(「天女の羽衣」や「竹取物語」を思わせる昇天説話)。

小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。(略)目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

民俗学的な観点からは、この『百年の孤独』という作品は、世界中に伝わる「伝説」という系統の中に位置付けて読むことができるかもしれない。

怒涛のエピソードは、一つ一つが興味深く、示唆に富んだものとなっているが、100年に及ぶマコンドの歴史の中で、多くのエピソードが繰り返し語られるというところにも注意したい。

つまり、個々のエピソードは、バラバラに配置されているのではなくて、歴史という長い時間軸の中でつながっているのだ。

象徴的なエピソードは「豚のしっぽ」にある。

ウルスラ・イグアランは、ホセ・アルカディオ・ブエンディアと結婚したとき、同族の間に生まれた子どもには「豚のしっぽ」がある、という伝説に怯えていた。

結局、この伝説は、100年後になって、アウレリャノとアマランタ・ウルスラが子どもを作ったときに現実となって現れる。

うつぶせにした時である。彼らは初めて、赤ん坊にはほかの人間にはないものがあることに気づいた。かがみ込んでよく調べると、何とそれは、豚のしっぽだった。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

それぞれに興味深い無数のエピソードが複雑に絡み合いながら、ひとつの長大な物語を構成しているところに、『百年の孤独』という物語の楽しさがある。

全体を把握するよりも、個々のエピソードを味わうというところから、『百年の孤独』の読書は始まるのではないだろうか。

失意ゆえの孤独を抱える人々に支持されてきた小説

『百年の孤独』の魅力は、凝縮された歴史物語というところにもある。

小さな村の建設に始まり、アウレリャノ大佐による反乱と内戦、バナナ会社の隆盛などによって語られるマコンドは、ラテン・アメリカという大陸の歴史を凝縮したものとして読むことができる。

それはごく些細なことまでふくめて、百年前にメルキアデスによって編まれた一族の歴史だった。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

『百年の孤独』は、謎のジプシー(メルキアデス)によって100年前に書かれた予言書だ(「百年たたないうちは、誰もその意味を知るわけにはいかんのだ」)。

そこに描かれるブエンディア一族の歴史は、ラテン・アメリカに生きる人々の歴史であり、架空の町(マコンド)は、ラテン・アメリカそのものの象徴でもあったのだろう。

「メルキアデスが人間のありきたりの時間のなかに事実を配列しないで、百年にわたる日々の出来事を圧縮し、すべて一瞬のうちに閉じこめた」とあるのは、そのまま、本作『百年の孤独』という小説の性格を意味している(時間軸が単調ではないところも楽しいのだが)。

もちろん、それは、ラテン・アメリカに限らず、反乱と内戦、革命と保守との戦いを繰り返してきた多くの国や地域の歴史と重なるものかもしれない。

この点、明治以降、大きな内戦のなかった日本には馴染みにくいが、『平家物語』などの古典を読む楽しさは、『百年の孤独』にも共通するものだ。

「ひとつ教えてくれ。何のためにきみは戦っているのかね?」「何のためってことはないだろう」とヘリネルド・マルケス大佐は答えた。「もちろん、偉大な自由党のためさ」「幸福だよ、きみは。それがわかっているんだから。今のぼくは、自尊心のために戦っている、としか言いようがないんだ」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

アウレリャノ大佐の祈りは、ホセ・アルカディオ・セグンドへと受け継がれる。

「三千人以上はいたぞ」ホセ・アルカディオ・セグンドは、これしか言わなかった。「絶対に間違いない。駅にいた連中はみんな殺られたんだ!」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

しかし、政権による市民大虐殺は巧妙に隠蔽され、マコンドの歴史に残ることはなかった。

「じゃ、神父さんも信じていないんだ!」「何をだね?」「アウレリャノ・ブエンディア大佐が三十二度も反乱を起こし、そのつど敗北を喫したことですよ」とアウレリャノは答えた。「軍隊が三千人の労務者を追いつめて、機関銃でなぎたおしたこと、それから、二百両編成の列車で死体を運び、海へ捨てたことですよ」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

アウレリャノ大佐の革命軍と、保守政権による三千人の大虐殺は、『百年の孤独』の中で主軸となるエピソードだが、もちろん、この作品は、革命と内戦の時代を描いただけの物語ではない。

むしろ、『百年の孤独』は、「○○について書かれた小説」と説明することが難しいくらい、複数のテーマが絡み合っている。

悲惨な戦争は、平和と反戦へのメッセージと読むことができる(「あんたを銃殺するのは、わたしじゃない、革命なんだ」)。

ピラル・テルネラのトランプ占いに象徴される予言は、宿命に支配された人生の虚しさを指摘したものかもしれない。

資本家の虚言に端を発する「4年11か月2日も降り続く雨(と、その後10年間続く干ばつ)」は、資本主義社会への警告であると同時に、大自然の中で生きる人間の非力さを表したものとしても読める。

フェルナンダの窮屈な生き方は、現代の宗教の在り方に対する無言の抗議だっただろうか。

一つのエピソードが、多くのメッセージを投げかけているから、この作品を、簡単に総括することはできないが、物語の根底にあるのが、作品タイトルともなっている「孤独」であることに間違いはない(アウレリャノ大佐は「自分をかこむ孤独の殻を破ろうとして」、自分自身と戦った)。

ブエンディア一族は、誰もが孤独の中で生きた(「ウルスラ系の迷い星のひとつとして宇宙を漂流していたのだ」)。

大家族で賑わっている時代も、熱いラブシーンの中にも、革命に命を燃やしているときも、彼らはつねに孤独の中で生きていたのだ。

「そら、駅にいた連中だよ。みんなで三千四百八名さ」ウルスラはこれを聞いて初めて、彼が自分よりはるかに暗く、曾祖父と同じように人を寄せつけぬ、孤独の闇の世界に生きていることを知った。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

孤独を支えているものは、歴史によって培われた数々の「失意」である(「栄光の孤独と失意の亡命」)。

そして、この「孤独」や「失意」と共鳴しているのが、繰り返される歴史への虚しさだろう。

そしてその隙間から、ウルスラが百年ほど前にメルキアデスの義歯のはいったコップで見た、小さな黄色い花が顔をのぞかせた。(ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」鼓直・訳)

「小さな黄色い花」は、繰り返される歴史を象徴するものだ(ホセ・アルカディオ・ブエンディアが死んだときも、「小さな黄色い花が雨のように空から降ってくるのが窓ごしに見えた」とある)。

ちなみに、『百年の孤独』では、「黄色」がテーマカラーとなっていて、「小さな黄色い花」のほか、アウレリャノ・トリステが持ち込んだ「黄色い汽車」や、マウリシオ・バビロニアの周囲を舞う「黄色い蛾」などが、印象的な効果をもたらしている(「ある晩、メメがまだ浴室にいるあいだに、たまたまフェルナンダがその寝室に入っていくと、息もできないほどの無数の蛾が舞っていた」)。

ウルスラは「アウレリャノのときと同じだよ」「堂々めぐりをしているようなもんだね」と、繰り返される歴史を宿命として受け容れてみせるが、ブエンディア一族を包む孤独の要因となっていたのは、どこへもたどり着くことができないという大きな失意だった。

こうした孤独や失意は、第二次世界大戦後のラテン・アメリカで生きる人々の大きな共感を呼び、やがては、ラテン・アメリカに留まることなく、世界中の人々の共感を得ることになる(新潮文庫の帯には「46言語・5000万部」とある)。

本作『百年の孤独』は、失意ゆえの孤独を抱える人々によって支持されてきた小説だ。

そして、彼らが有する失意の背景となっているのは、自分たちが生きる現代社会への失望と不信だった。

この小説が、多くの読者の共感を得るのは、今なお我々が、不安定な社会に生きているからであり、「自分が生きている現実社会を率直には受け入れることができない」という不安によるところが大きいのではないだろうか。

これだけ膨大なエピソードで構成された物語を、一読ですべて理解することは、誰にも不可能である。

むしろ、『百年の孤独』は、全容を理解するまで何十回でも楽しむことができる、深くて濃厚な物語なのだ。

「難しいかもしれない」なんていう不安は無視して、まずは読んでみることだろう。

新しい文学の世界が、そこに待っている。

書名:百年の孤独
著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス
訳者:鼓直
発行:2024/07/01
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。