読書体験

有島武郎「或る女」自己中なこじらせ女子の不倫と裏切りの転落人生

有島武郎「或る女」自己中なこじらせ女子の不倫と裏切りの転落人生

有島武郎「或る女」読了。

本作「或る女」は、1911年(明治44年)1月から1913年(大正2年)3月まで『白樺』に連載された「或る女のグリンプス」を基とする長編小説である。

連載開始の年、著者は33歳だった。

この後、有島武郎は、「或る女のグリンプス」を前編として、さらに後編部分を書き下ろし、「或る女」を完成させた。

単行本は、1919年(大正8年)に叢文閣から『有島武郎著作集』のうち二巻として前後編で刊行されている。

美しき狂女<葉子>の転落人生

早月葉子(さつき・ようこ)は、19歳のとき、年上の新聞記者<木部孤笻(きべ・こきょう)>と駆け落ち同然に結婚するものの、短期間で破局を迎える。

男遊びを繰り返して離婚した葉子は、やがて、木部の子ども<定子>を出産。

美しき狂女・葉子の転落人生の始まりである。

親族は定子をよそへ預けてしまって、アメリカ在住の実業家<木村>と結婚するよう、葉子を説得する。

二人の妹の生計を支えるため、葉子は木村との結婚を決意し、汽船<絵島丸(えのしままる)>でアメリカへ向かう。

しかし、船上で妻子ある事務長<倉地三吉>と激しい恋に落ちた葉子は、アメリカ大陸に上陸することなく、同じ船で倉地とともに帰国し、二人で新しい生活を始める。

本作「或る女」は、奔放な女性・葉子が、多くの男たちを魅了しながら、享楽の人生を送ろうとする、長編不倫物語である。

「間違っていた…こう世の中を歩いてくるんじゃなかった。然しそれは誰の罪だ。分らない。然し兎に角自分には後悔がある。出来るだけ、生きている中にそれを償っておかなければならない」(有島武郎「或る女」)

死期が近づいたとき、葉子は、自分の人生を反省して見せるが、実際、葉子の生き様は、絶望的なまでに自己中心的でえげつない。

容貌が美しく、内面が醜い女性の究極と思われるくらい、葉子は、多くの男たちを傷付けながら生きる。

登場する男たちが、また情けなくて、美しい葉子にいいように手玉に取られてばかりいるのも苛立たせる。

一言で言えば、ひどくフラストレーションの溜まる小説だった。

逆に考えると、それだけ物語の世界に引き込まれていたということになるが、読み終えた後の後味は良くない。

好き放題に生きた葉子が、病気で死んでしまうあたり(男たちの呪いとも意趣返しとも思えないことはないものの)あまりに救いがない。

もちろん、最後に葉子は、久しく疎遠だったキリスト教の伝道者<内田>に会いたいと望んでいるから、もしかすると、彼女の心は、死の間際になって改められたのかもしれない。

しかし、葉子の考えは、狂人同然に激しく揺り動くから、彼女が「内田に会いたい」と望んだからといって、それが物語の救いであると、単純に受け止めることはできないだろう。

「人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていてもびくともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ」(有島武郎「或る女」)

木村の親友<古藤>がいつか言った「人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ」は重要な伏線で、病身の葉子は人生の最後に「総勘定をしなければならない時」を迎える。

凄惨な葉子の最後は、ある意味で有島武郎らしい結末と言えるのかもしれない。

国木田独歩と佐々城信子の物語

本作「或る女」は、実在の事件を素材としたモデル小説である。

主人公の<早月葉子>は、作家<国木田独歩>の最初の妻だった<佐々城信子>で、クズ男として描かれる<木部孤笻>は、もちろん国木田独歩その人である。

葉子に騙されて金をむしり取られるアメリカ在住の実業家<木村>は、札幌農学校で有島武郎の親友だった<森広>で、<木村>の親友<古藤>は、つまり、作者<有島武郎>本人だった。

著者・有島武郎は、親友の森広に同情して、佐々城信子を貶めるような小説を書いたのだろうか。

「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。(略)ほんとうにあなたをお気の毒に思いました」(有島武郎「或る女」)

怒りではなく憐み。

おそらく、有島武郎は、本当に佐々城信子(作中の葉子)のことを「可哀想な女」だと思っていたのだろう。

もしかすると、本作「或る女」は、佐々城信子の裏切りを清算するために創られた物語だったのかもしれない。

左から森本厚吉、有島武郎、森廣。札幌農学校時代。左から森本厚吉、有島武郎、森廣。札幌農学校時代。

ダメな男ばかりが登場する「或る女」の中で、古藤だけはなぜか、葉子の誘惑にも引っかからないクールな青年として描かれている(著者本人だからか)。

そして、クールな古藤の視点は、著者・有島武郎の主張である。

「僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが過去世があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」(有島武郎「或る女」)

おそらく、この物語は、一つの懺悔なのだろう。

大きな罪を犯した女性・佐々城信子の分身としての懺悔。

だから、有島武郎は、作品の中の葉子を、永遠の死に葬ってしまったのだ。

ポイントは、立ち直るきっかけは何度もあった。ということである。

早月葉子は、立ち直ることができなかった。

しかし、この転落人生を、ただ無駄にしてはいけない、この転落人生から、人は何か「気づき」を得なければならない。

本作「或る女」は、そんなメッセージを発しているのではないだろうか。

書名:或る女
著者:有島武郎
発行:2013/8/25 改版
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。