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井上靖「晩夏」夏の終わりの海浜と不器用な少年たちの初恋

井上靖「晩夏」あらすじと感想と考察

井上靖「晩夏」読了。

本作「晩夏」は、1952年(昭和27年)9月『別冊小説新潮』に発表された短篇小説である。

この年、著者は45歳だった。

作品集としては、1952年(昭和27年)10月に小説朝日社から刊行された『黄色い鞄』に収録されている。

遠い故郷と、遠い少年時代に対する郷愁

この作品のテーマは「郷愁」である。

遠い故郷に対する郷愁と、遠い少年時代に対する郷愁。

その二つの郷愁が、夏の終わりの海辺に投影されている。

ポイントはふたつ。

ひとつは、言うまでもなく、繊細な夏の終わりの描写だろう。

私は八月の終りから九月の初めへかけての、夏の終りの極く短い何日かが好きである。殊にその期間の海浜が好きである。(井上靖「晩夏」)

主人公(著者だろう)は、毎年、八月の下旬になってから、海へ出かけることにしている。

大方の避暑客も引き上げて、日一日と寂れていく海浜を歩くのが好きだったのだ(泳ぐのは嫌いだった)。

脱衣場の小屋掛けの葦簀(よしず)も半ば剥がれ、その周囲にちらばっている紙屑が目立って来るのもこの頃だ。水泳着の数もめっきり減って、今までどこにいたか解らなかった土地の子供の真黒い裸体がそこここに目立って来る。(井上靖「晩夏」)

少年時代、主人公も、やはり浜辺の子どもだった。

半島にある漁村の夏は、都会からやって来た避暑客によって占領されていた。

夏の終わりとともに、故郷の海浜は、自分たちの元へと戻ってくるのだ。

実際この期間は部落の大人たちにも、子供たちにも、土地の人間としての一種異様な感慨が湧き起って来る時期である。やっとのことで、自分たちが自分たちのものを取り戻そうとしているといった気持である。部落の家々も、道路も、郵便局も、海岸も、船も、漸く自分たちの手に戻って来ようとしているという感慨である。(井上靖「晩夏」)

それは、決して華やかな浜辺ではなかった。

今まさに夏が終わろうとしている季節の海浜は、都会の人間が知っている海浜とは、また別の顔を持っていたのだろう。

大方の避暑客が引き上げて行った後に残っているのは、いやにひっそりとした歩き方で朝夕の海岸を散歩する老人か、弱々しい女か、とにかく、余り夏の間活躍しなかった連中で、どことなく敗残者の面影をその顔つきか姿態に持っている。(井上靖「晩夏」)

物語は、夏と秋という二つの季節に挟まれた、そんな短い期間を舞台としている。

それは、主人公が、11歳か12歳くらいのときだった。

その夏、部落で一番大きい旅館の離れ全部を借りている、東京の一家があった。

病身の一人娘の療養のため、彼らは一家をあげて避暑に来ていたのだ。

病身の少女(砧きぬ子)に主人公が恋をしたのは、夏も終わりになってからの季節である。

少年の私が砧きぬ子という自分より二つ三つ年長らしいその少女に、異様な執着と思慕の情を燃やしたのは、もう数える程しか避暑客が村に居なくなった八月の終りだった。(井上靖「晩夏」)

砧きぬ子は、過ぎ去ろうとしている夏の象徴だった。

海浜が寂びれ、私たちが自分の海浜を取り戻した時、私は初めて、その少女を一人の美しい少女として見出したのであった。私ばかりではなかった。村の子供たち全部が、私と同じようであった。(井上靖「晩夏」)

少年の恋は、ひと夏の恋ではない。

夏の終わりに生まれた恋だったというところに、この物語の主題がある。

もっとも、幼い少年の恋は不器用で、そして哀れなものだった。

この物語の、もうひとつのポイントは、少年たちの不器用な恋である。

彼らは、少女との関わりをほとんど持たなかったから、その思い出も断片的で、ささやかなものだった。

主人公の記憶に残っている少女は、四つのエピソードで綴られている。

彼女が海浜へ姿を現わすと、私たちは、不思議な力に作用されてうわあっと言って囃し立てた。三、四人の時は黙っていたが、十人以上になるといつもいっせいに囃し立てた。七つ八つの一年坊主までが、上級生に倣って、喚声を上げた。(井上靖「晩夏」)

不器用な少年たちは、浜辺を歩く少女を囃し立てることで、彼らなりの愛情表現を示そうとする。

おそらく、少女は、もう14歳か15歳くらいだったはずだから(まして女の子だから)、浜辺の少年たちのイタズラは、さぞ幼稚なものに思えたに違いない。

「姉ちゃんが睨んだ」彼は、私に報告する。「どんな顔して睨んだ」「怖い目をした」きぬ子が怖い顔をしたという報告は、私には何か知らぬが充分満足だった。あんな美しい顔がどんな怖い顔をしたろうと思い、私はうわっとありったけの声を張り上げて叫ぶと、そのまま波打際に突進し、波に体をぶっつけて、潮の中に頭を先にしてもぐって行く。(井上靖「晩夏」)

「私には何か知らぬが充分満足だった」とあるのは、美しいものを汚したいという、少年の日の葛藤だ。

性的な興奮を、主人公は海の中へとぶつけていく。

「あいつ、今日はやっつけられないで癪だな」私はそんな風に言った。他の四、五年生もみな、妙にぎらぎらした眼を彼女の方へ向け、「大人といっしょに来ていやがる! よおし、明日覚えてろ!」そんな事を言った。(井上靖「晩夏」)

少女に対する異様な執着心は、終わろうとしている夏への執着心でもあったのだろうか。

あるいは、それは、まだ見ぬ都会に対する憧れの執着心だったのかもしれない(東京から来た少女は都会の象徴でもあったから)。

ふたつめのエピソードは、少女の家へ、魚を届けたときの思い出である。

「何ていうお魚」彼女は言った。私は口がきけなかった。彼女は私より少し背が高かったが、近くでみると、いつも私が思っていたよりずっと子供っぽかった。(井上靖「晩夏」)

主人公には、魚の代金を受け取ることが「ひどく下賤な行為」のように思えた。

怒ったように「父ちゃんが上げておいでって──」と言い残して、砧家を去っていくのは、やはり、少年の潔癖さ故だったのだろう。

美しい少女を汚したいという気持ちと、病気の少女を守りたいという気持ち。

アンビバレンスな言動が、少年の恋を彩っている。

魚の代金の代わりと言って、砧家では「パインナップルの缶詰」を届けてよこした。

生れて初めて食べたパインナップルの「甘美な味」は、もちろん、少女に対する恋心を投影したものだっただろう(「その甘美な味はいつまでも口中に消えないで残った」)。

少年時代の美しい思い出

三つ目のエピソードとして、事件が起きる。

砧きぬ子と親しい大人の男性が登場したのだ。

「兄さん、抱いてよ」明らかに砧きぬ子の声であった。その声は磯臭い夜風といっしょに、妙になまめかしく私の耳に聞えた。「もう、およしなさいよ、莫迦ね」こんどは彼女の母の声だった。「いやよ、抱いてよ、もう一度だけ」(井上靖「晩夏」)

少女を抱き上げた(親戚の)大学生に、少年は激しい嫉妬の情を燃やす(「きぬ子をいじめる東京の奴がいる。いけない奴だ。やっつけよう」)。

遊び仲間の料理屋の輝夫に呼びかけて、主人公は、東京から来た大学生を奇襲する(「いけない奴が浜を歩いているので、これから行ってやっつけるんだ」)。

既に大学生は、憎い都会の象徴である(都会への憧れの象徴が「きぬ子」であったのに対して)。

十五、六人の少年たちは、波打際を散歩している大学生に向かって、一斉に小石を投げた。

突然の襲撃に驚いた大学生は、何か叫びながら地面に伏した。そしてやがて立ち上がったと思うと、こちらに向って駆け出して来た。ひどく勇敢だった。(井上靖「晩夏」)

事件らしい事件のない物語の中で、ここはひとつのクライマックスとして描かれている。

みんなが逃げ惑う中で、主人公は、最後まで大学生と戦った(石は、ほとんど当たらなかったが)。

私は、戦い終った者の持つ感傷的な気持で、暗い海を眺めた。曇っているせいか、海には一点の漁火も見えず、船体の見えない漁村が、エンジンの音を海面の遠くに響かせていた。(井上靖「晩夏」)

少年の戦闘シーンは、戦争ごっこの思い出を綴った、佐藤春夫『わんぱく時代』にも通じる感傷を、読者に与える。

それは、大人になってからは持つことのできない、少年の日だけの感傷である。

大人として持つことができるのは、そんな少年の日に対する感傷だけだ。

最後まで一人で敢闘した主人公は、いったい何と戦っていたのだろうか。

おそらく、その理由を、主人公さえも理解していなかったに違いない。

少年は、自分自身と(自分の中の嫉妬心と)戦っていたのだから。

やがて、本当の意味でのクライマックスと言える、四つ目のエピソードが訪れる。

それから三日目に、この夏の最後に引き上げて行く避暑客として、砧一家はバスでこの村を離れた。丁度登校時の、二番バスだった。(井上靖「晩夏」)

「この夏の最後に引き上げて行く」砧一家は、その夏の象徴である。

彼らが去った瞬間に、夏が終わる。

私は突然、自分でも理解できぬ衝動を感じて、バスを追いかけて走り出した。私にまねて、子供たちはみんな走り出した。二十メートルほど駈けて停まったが、他の連中は停まらず、どこまでもバスと一緒に走って行った。(井上靖「晩夏」)

少年たちが追いかけているものは、美しい初恋であり、憧れの東京であり、最後の夏の名残りである。

一人ずつバスから落伍していく中で、料理屋の輝夫だけが、最後まで走り続けた。

彼はバスと一緒に村外れの小さいトンネルに入ったが、バスがそこから出た時は、輝夫の姿はなかった。彼はトンネルの中で落伍したものらしかった。(井上靖「晩夏」)

大人になった今、主人公が追いかけているものは、少年時代の美しい思い出である。

トンネルを抜けて走り去っていくバスは、少年の日の懐かしい記憶の象徴でもあったのだ。

この物語は、最後に素晴らしい文章を残して終わる。

その日は、完全に夏が終って、村へ秋がやって来た日であった。夏が完全に逃げ去ってしまう合図に、夕方から夜にかけてひどい雷雨が海浜一帯の村々を襲った。(井上靖「晩夏」)

極端な言い方をすれば、この物語のすべては、最後のパラグラフに集約されていると言っていい(たった二行だが)。

夕方から夜にかけて海浜一帯の村々を襲った「ひどい雷雨」は、新しい季節(秋)の象徴であり、同時にそれは、砧きぬ子を失った少年たちの慟哭でもある。

砧きぬ子は、憧れの都会でもあり、夏の名残りでもあった。

幼い少年たちは、都会への羨望と去りゆく夏への感傷を、美しい少女への初恋という形に昇華して、一家を乗せたバスを追い続けたのだ。

つまるところ、この作品のテーマは、やはり「晩夏」である。

新潮文庫の解説を書いた北杜夫は、「「晩夏」という題名がこれほどしっくりした小説を私は知らない」と言っている。

そして、主人公にとって夏の終わりの思い出は、やはり、懐かしき少年時代の象徴でもあった。

既に取り戻すことのできない「郷愁」への思いが、この物語では美しく描かれているのだ。

なお、「晩夏」の姉妹編とも言える短篇小説「少年」は、山村の夏を舞台とした物語である。

夏が終り、半月とか一カ月とか滞在した少年や少女たちが、村を離れ都会へ帰って行く日は、私たちにはやはり寂しかったようである。そうした日の感慨は、夏休みも終り、いよいよ秋がやって来るという寂しさと一緒になって、私たち山村の少年たちを、妙に孤独な感傷的な気持の中に落ちこませたものである。(井上靖「少年」)

併せて読むことで、「晩夏」という作品に対する理解も深まるのではないだろうか。

作品名:晩夏
著者:井上靖
書名:少年・あかね雲
発行:1978/10/27
出版社:新潮文庫

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みつの沫
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。