映画『ブルーに生まれついて』鑑賞。
本作『ブルーに生まれついて』は、2015年(平成27年)に公開された伝記映画である。
原題は「Born to Be Blue」。
監督はロバート・バドロー、主演はイーサン・ホークだった。
伝記映画ではなくファンタジー映画?
映画『ブルーに生まれついて』は、公式パンフレットの内容が充実している。
なにしろ、村上春樹のエッセイが収録されていた(書下ろしではなく『ポートレイト・イン・ジャズ』からの引用だが)。
チェット・ベイカーの音楽には、紛れもない青春の匂いがする。ジャズ・シーンに名を残したミュージシャンは数多いけれど、「青春」というものの息吹をこれほどまで鮮やかに感じさせる人が、ほかにいるだろうか?(村上春樹「チェット・ベイカー」)
村上春樹ファンとしては、このエッセイだけで「チェット・ベイカーの人生」を十分に味わうことができる。
ベイカーはジェームズ・ディーンに似ている。顔だちも似ているが、その存在のカリスマ性や破滅性もよく似ていた。(略)しかしディーンとは違って、ベイカーはその時代を生きのびた。ひどい言い方かもしれないが、それがチェット・ベイカーの悲劇でもあった。(村上春樹「チェット・ベイカー」)
1950年代の一瞬の輝きの中で「伝説のジャズ・ミュージシャン」となったチェット・ベイカーは、1960年代から1980年代まで続く残りの人生(の多く)を、麻薬と刑務所の中で過ごした。
チェット・ベイカーは「美しい伝説」にはなれなかった男だ。
本作『ブルーに生まれついて』は、チェット・ベイカーの転落人生を(あくまで、その一部を、そして、極めて美しく脚色して)描いている。
八月九日の火曜日には、『ニューヨーク・タイムズ』に短いベイカーの記事が掲載された。(略)その見出しは次のようなものだった。「ジャズ・トランぺッター、ウエスト・コーストで暴漢に襲われる」(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
映画では、1966年(昭和41年)、チェット・ベイカーが暴漢に襲われて大怪我をしてから復帰するまでの経過が、ストーリーの中心となっている。
男たちは彼が「血まみれ」になるまで、何度も何度も股間を蹴り上げた。彼の上唇は裂け、前歯が折れた。また、耳も強打された。発見されたとき、ベイカーは自らの吐瀉物にまみれて倒れていたと伝えられている。(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
もとより、この映画は「伝記映画」と言いながら、リアルな伝記にはなり得ていない。
公式パンフレットに掲載された菊地成孔の映画評がいい。
本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」と言える。(略)「何もここまで」というほど、本作はベイカーの人生を美化し、無毒化する。(菊地成孔「誰も彼の『実像』を冷静に描くことはできない(余りにも美しく、余りにもグロテスクで)」)
ほとんどの登場人物が実在の人物だが、恋人役(ジェーン)は、映画オリジナルの虚構である。
なにしろ、1966年(昭和41年)当時、チェットには妻(キャロル)と二人の子どもがいて、7月には三人目となる女の子(メリッサ)も生まれていた。
五人に膨れあがった家族を養うため、ベイカーはやむなく生活保護を申請した。(略)収入を補いたくて、二日間ほど、レドンド・ビーチ郊外のガソリン・スタンドで働いたこともあった。(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
再起をかけて必死に練習するジャズ・ミュージシャンからプロポーズを受ける恋人(ジェーン)は、完全なる「幻の妖精」である。
「読み終わるころには鬱病が発症する」とまで言われた、チェット・ベイカーの伝記『終わりなき闇』(2006)と読み比べてみると、映画の中の彼が、いかに美化されているかを理解することができる。
もっとも、根本的な部分から再構成しなければならないほど、彼の人生が「暗闇」ばかりだったことは確かだ。
チェット・ベイカー役を演じたイーサン・ホークは、インタビューの中で次のように語っている。
「僕にとって『ブルーに生まれついて』は「チェットがどうだったか」ではなくて、「僕達がチェットをどうイメージしているか」なんだ。(略)だから「伝記映画」じゃなく、「歴史的フィクション」に分類されると思う」(イーサン・ホーク「ブルーに生まれついて」)
もっとも、イーサン・ホークの歌は、どう考えても致命的だった。
復活したチェット・ベイカーが、ディジー・ガレスピーも来場しているセッションで「マイ・ファニー・ヴァレンタイン(MY FUNNY VALENTINE)」を歌う。
あるいは、ニューヨークのライブハウス『バードランド』で、マイルス・デイヴィスを前に「アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォア(I’VE NEVER BEEN IN LOVE BEFORE)を歌う。
そこには、「中性的な」あのチェット・ベイカーの声はない。
実家で父親から「なぜ女のような声で歌うんだ?」と批判された、あの「女のような声」がない。
肝心要の「ベイカーの、両性具有的なヴォーカル」に関しては、キーがすべて完全5度低い。「オカマ」「天使の声」と、聴く者の常軌を逸しさせ続けたベイカーの有毒な歌声の再現、その失敗が、盲点のように全く見えないまま、本作は淡々と美しく完結する。(菊地成孔「誰も彼の『実像』を冷静に描くことはできない(余りにも美しく、余りにもグロテスクで)」)
チェットの人生がファンタジーなら、チェットの歌声さえも、『ブルーに生まれついて』の中ではファンタジーとして再現されている。
だけど、本当は、現実のチェット・ベイカーの歌声の方こそ、ずっとファンタジーだったのだ。
だからこそ、1950年代、チェット・ベイカーは、白人の女の子たちのアイドルとも言うべき伝説のジャズ・ミュージシャンと呼ばれた。
ファンタジー世界、それはそれで良しとして、だったら、なぜ父親に「なぜ女のような声で歌うんだ?」などと尋ねさせたりしたのだろう?(「女のような声」など、どこにも登場していないというのに)。
事実と虚構の狭間で、この映画は、まるで迷子になっているかのようだ。
チェット・ベイカーという人生の葛藤
チェット・ベイカーの人生を要約すると、セックス・ドラッグ・刑務所(の無限ループ)ということになる。
本作『ブルーに生まれついて』は、そんな彼の人生の一瞬を切り取り、美しく再構築して、我々の前に提供してくれた。
ロバート・バドロー監督も、この作品が「妄想」であることを認めている。
「これはチェット・ベイカーと彼の物語のいくつかのエピソードを拝借し、もともと自分が言いたかったことを加えた作品にしたんだ。(略)私には彼が人種の変革が行われているアメリカで、黒人のスターに認めてもらいたいと願う白人に思えたんだ」(ロバート・バドロー「ブルーに生まれついて」)
白人でありながら、黒人世界のカルチャーであるジャズに、チェット・ベイカーは恋をした。
彼は、ジャズを自分なりの解釈によって歌い、演奏する。
彼が求めていたのは、自分のジャズが黒人世界から受け入れられることだった。
黒人世界とは、つまり、マイルス・デイビスであり、ディジー・ガレスピーが活躍する世界のことだろう。
彼は、若い黒人女性(ジェーン)と結婚をしようと考える。
しかし、彼の音楽の周りに集まってくるのは、常に白人の女の子たちばかりだった。
そこにチェット・ベイカーの葛藤がある。
実際、1966年(昭和41年)に起きたチェット・ベイカー暴行事件の背後にも、黒人世界と白人世界との複雑な関係があったという指摘もある。
「五人の白人が乗っていた車に乗せてもらおうと必死だったんだが、男たちに外に押し出されてしまった。通りにはほかにも大勢の人たちがいたのに、誰も助けてくれようとはしなかった」(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
チェット・ベイカーを襲撃する黒人グループと、助けてくれなかった白人グループという構図が、そこにはある。
実は、すべては一本の糸でつながっていた。ベイカーは「黒人たち」に襲われ、「白人たち」に助けを求めて拒絶された。この一軒は、成人してからの彼がつねに感じていた、人種差別を象徴するエピソードとなった。(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
どんなにチェット・ベイカーの才能が優れていても、彼の愛するジャズ・ミュージックは、黒人世界のカルチャーだった。
1963年(昭和38年)のパリで、彼は怒りをぶちまけている。
「黒人がジャズを生み出したなんて、バカバカしい話だ」(略)「ニューオリンズでジャズの形が完成したころ、あそこの黒人みたいに音楽が演奏できて、同じように有名になったミュージシャンたちは、どこにでもいたんだ」(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
白人の女の子たちから騒がれるほどに(大半はヤク中の女たちだったが)、彼と黒人世界との距離は広がっていった。
そのデイビス自身が、ベイカーの演奏している晩に『ブルーノート』にやって来たことがあった。(略)デイビスはただひとこと、「きさま、むかつくぜ!」としか言わなかったという。(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
黒人女性との恋愛は(というか肉体関係は)、彼の音楽的葛藤の中から生まれたものだったかもしれない。
彼自身の回想によれば、相手の黒人ボーカリスト、ボビー・パーカーと初めて出会ったのは『ブルーノート』だったという。ビリー・ホリディ風のスタイルで歌っていた彼女は、しばしばここのステージに立っていた。(ジェイムズ・ギャビン「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」鈴木玲子・訳)
そして、そんなチェット・ベイカーの葛藤を浮き彫りにさせるためには、彼の人生そのものを(幾分と言うよりも大幅に)脚色する必要があった、ということなのだろう。
『ブルーに生まれついて』で監督ロバート・バドローがめざしたというのも人をめぐるそんな真実だ。事実を忠実になぞる伝記映画よりチェット・ベイカーという存在の真相をフィクションも呑み込みながら再生する映画。(川口敦子「破滅との添い寝 チェット・ベイカーを愛した女」)
誰もが、この映画が「伝記映画」ではないことを、必死にアピールしようとしているかのようだ。
バドローがたどり着いた結論は、しばしばベイカー自身すら否定していたような事実に引きずられるよりも、人物や時代の精神を忠実に再現することだった。(略)そこで発展していく物語は実際のできごとにインスパイアされているが、ベイカーの人生のターニングポイントにまつわる登場人物や事件はアドリブで生み出されている。(『ブルーに生まれついて』公式パンフレットより)
「人物や時代の精神を忠実に再現すること」というコンセプトによって、「史上最低のクズだった男」とまで語り継がれるチェット・ベイカーの人生が、美しく輝くことになった(ある一瞬の輝きかもしれないが)。
バドローは(略)デヴィッド・ブレイドとジャズのサウンドスケープについて話し合った。「これは単なる自伝ではなく、ジャズ・ミュージシャンの人生という観点から、より普遍的な物語を伝える作品だ」(『ブルーに生まれついて』公式パンフレットより)
本作『ブルーに生まれついて』は、我々に何を伝えてくれるのだろうか?
それは「生きることの難しさ」ということに尽きる。
特殊な才能を持ちながら、チェット・ベイカーは豊かな人生を築くことができなかった。
女と麻薬に振り回されながら、自分自身を消耗させていくだけの人生。
彼にとって人生とは、コンピューターが弾き出す計算のようには、単純なものではなかったのだ。
「だからこそ人生は楽しいんだよ」と、彼は言うだろうか?
しかし彼が「特別なもの」を維持できた期間は、決して長いものではなかった。輝きは夏の盛りの美しい夕暮れのように、いつしか闇に飲み込まれていった。(村上春樹「チェット・ベイカー」)
黒人世界と白人世界との境界線で生きた男は、光の世界から闇の世界へと堕ちていった。
暗黒の中で見せる光を、本作『ブルーに生まれついて』は必死に描こうとしている。
それが、つまり、チェット・ベイカーという人生だったから。
書名:終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて
著者:ジェイムズ・ギャビン
訳者:鈴木玲子
発行:2006/01/30
出版社:河出書房新社



