読書体験

『週刊プロレス』2.3札幌で長州力戦をぶち壊された藤波辰巳の青春タイトルマッチ

『週刊プロレス』2.3札幌で長州力戦をぶち壊された藤波辰巳の青春タイトルマッチ

中島公園にあった「中島スポーツセンター」は、かつて、プロレスの聖地として知られていた。

とりわけ、有名な試合は、1984年(昭和59年)2月3日の「長州力VS藤波辰巳」戦。

試合開始前に乱入したテロリスト藤原喜明が長州力を襲撃、注目のタイトルマッチをぶち壊したのだ。

札幌は東京のかませ犬じゃない

雪の降る札幌の夜を歩いていると、ふと、あのときのことを思い出すことがある。

1984年(昭和59年)2月3日の夜。

中島スポーツセンターでは、「長州力VS藤波辰巳」のWWFインターナショナル・ヘビー級選手権が行われていた。

いや、正確に言うと、行われるはずだった、のだ。

顔面血だらけで何かを訴えかける長州力顔面血だらけで何かを訴えかける長州力

入場時に藤原喜明の襲撃を受けた長州力は、顔中血まみれの状態でリングに上がった。

怒り狂う「挑戦者」藤波は、マット上で暴れまくるが、既に長州は試合をできるような状態ではない。

両軍の選手が入り乱れて、ついに試合は「ノーコンテスト(試合不成立)」の判断が下されてしまった。

正規軍にとっても、藤原のテロ行為は素直に歓迎できるものではない。なにしろタイトルマッチで試合をやらなかった罪は大きい。正統な手段で長州を倒したのであればいいが、あれでは正規軍の看板がなく。札幌のファンはいい迷惑である。すべての試合が終わったあと「金返せコール!」が起き、リングを取り囲んで不穏な空気さえ流れた。(『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29)

「札幌のファンはいい迷惑である」と、『週刊プロレス』は報じた。

まったく、そのとおりだと思う。

この日のメイン・イベントは「アントニオ猪木&前田日明VSハルク・ホーガン&アイアン・マイク・シャープ」だったけれど、ほとんどの観客は、長州VS藤波のタイトルマッチを観に来ていたはずだ(猪木・前田とホーガン・シャープの試合なんて全然覚えてないぞ)。

なにしろ、新日本プロレスのブームを支えた名勝負数え歌「藤波VS長州」が最高潮に盛り上がっている時代だった。

「ノーコンテスト(試合不成立)」と言って、簡単に済ませられる問題ではない。

タイトルマッチをぶち壊した藤原喜明は、リング上で土下座して観衆に謝罪するくらいすべきだったのだ。

タイトルマッチをぶち壊したテロリスト藤原喜明タイトルマッチをぶち壊したテロリスト藤原喜明

ところが、試合をぶち壊した藤原喜明は謝罪するどころか、なぜか「テロリスト藤原」という新しいヒーローとして生まれ変わり、メインイベントにまで登場する人気選手となる。

テロリスト藤原というスターを生み出すため、札幌のタイトルマッチにおける長州襲撃は必要な歴史だったのだ。

藤原は ”影” の男である。仲間のレスラーからは ”変人” といわれ、ひどいのになると「あいつは気違いだ」といいきるレスラーさえいる。(『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29)

「影の男」が「陽の当たる場所」へ現れる舞台として、札幌は捨て駒にされたのだろう。

次のステージへステップ・アップするための踏み台のように。

プロレスの中心は、しょせん東京である。

そんなことは分かっていながら、「札幌は東京のかませ犬じゃない」と何度も思った。

どうして、試合をぶち壊した藤原喜明が懲戒処分さえ受けることなく、テロリストという名のヒーローになるのか、意味が分からなかった。

藤波VS長州の「青春タイトルマッチ」

捨て駒にされたのは、チャンピオン藤波辰巳も同じだ。

「俺の気持ちが、お前たちにわかってたまるか。俺はこんな会社、明日にでもやめたい。試合などしたくない。猪木さんにいっとけ。俺は絶対にあやまらないからな!」(『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29)

雪の降る中、裸のままで会場を後にする藤波辰巳の写真は、少年ファンの心に大きな感動さえ与えた。

雪降る中、泣きながら会場を去る藤波辰巳雪降る中、泣きながら会場を去る藤波辰巳

藤原喜明の長州襲撃は、チャンピオン藤波を悲劇のヒーローにしたのかもしれない。

藤波は前の日の深夜「勝っても負けてもいい。俺は明日で長州との試合は最後にしたい」と語っていた。この言葉は胸を打った。長州と試合をしたとき、思う存分、思いきりできるという代償のかわりに、何かが藤波の心の中で傷ついていくようだ。(『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29)

この年、藤波は31歳。

長州力との「青春タイトルマッチ」も、そろそろ卒業する時期に差し掛かっていたのだ。

王者、藤波辰巳が雪の降る街へと消えたとき、雪はさらにしんしんと降り続いた。真っ白い透明な世界に、純な男、藤波の悲しみだけがあとに残った。(『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29)

当時の『週プロ』は、ずいぶん、抒情派浪漫主義の記事を提供していたらしい(「プロレスは本当に心の通じあう人間同士は、試合をしてはならないのだ」)。

一方で、総裁アントニオ猪木は「長州と藤波の不祥事に怒った猪木は試合後取材拒否をし、雪の中を裸で去っていった」と、小さく紹介されている。

新日本プロレスの定宿「札幌パークホテル」は、スポーツセンターと同じ中島公園の中にあるから、あるいは、歩いてホテルまで帰ったのかもしれない。

それにしても、試合をぶち壊した藤原を呼び出して、リング上でヤキを入れるくらいはやってほしかった。

『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29『週刊プロレス』1984年2月21日号、NO.29

ブロディのボイコットで実現しなかった1986年(昭和61年)11月24日、幻の「前田日明VSブルーザー・ブロディ」のことも、札幌のプロレスファンは忘れていない。

思えば、札幌は、新日本プロレスに、何度も何度も裏切られてきたのだ。

それでも、会場へ行けなければ気が済まないというのも、やはり、札幌のプロレスファンだった。

期待と可能性を秘めたプロレス団体。

それが、新日本プロレスであり、アントニオ猪木だったと、僕たちは信じているから。

あれから41年。

札幌ファンの聖地「中島スポーツセンター」も今はないけれど(2000年に閉鎖)、雪の夜の札幌は、僕たちに何かを思い出させる。

試合をぶち壊された裸のチャンプが泣きながら飛び出していった、あの夜のように。

ABOUT ME
kels
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。