読書体験

安西水丸「普通の人」人間の闇を曝け出した現代の鳥獣戯画は笑いたいのに笑えない

安西水丸「普通の人」人間の闇を曝け出した現代の鳥獣戯画は笑いたいのに笑えない

安西水丸「完全版 普通の人」読了。

本作『完全版 普通の人』は、2021年(令和3年)8月にクレヴィスから刊行されたコミックスである。

最初の『普通の人』(1982)が刊行されたとき、作者は40歳だった(2014年に71歳で病死)。

収録作品は、次のとおり。

・プロローグにかえて
・普通の人(1982)
・平成版 普通の人(1993)
・最初の普通の人
・インタビュー 安西水丸 漫画を描くのが遊びだった
・『普通の人』を褒める 村上春樹
・あとがき

自分の恥部を曝け出す鏡のような作品

本作『普通の人』は、フツーの人々を描いた漫画作品である。

この本は、いわゆる普通の人を描いたものですが、あくまでフィクションであり、登場人物、団体等に特定のモデルはありません。(安西水丸「プロローグにかえて」)

普通の人とは何か?

普通の人とは、誰でもない誰かのことである。

誰でもない誰かとは、つまり、我々を含む、すべての人々のことを意味するのだろう。

そのことに思い至ってから僕は、『普通の人』を読んでも笑うことができなくなった。

もちろん、本作『普通の人』はギャグ漫画である。

戯画化された普通の人々の悲しい生活が、笑いを誘うように構成されている。

これは、鳥獣戯画の世界である。

しかし、鳥獣戯画の世界は悲しい。

なぜか?

それは、自分自身の姿を映す鏡のような世界だからだ。

トルストイの代表作『アンナ・カレーニナ』で、ある外国の皇太子を接待したヴロンスキー(ヒロインの不倫相手)が、その皇太子の無礼な振舞の中に自分自身の姿を見たような気がして愕然とする場面がある。

しかしこの客がとりわけヴロンスキーにとってつらい相手であった一番の原因は、彼が否応なく相手のうちに自分自身の姿を見てしまうからであった。しかもその鏡の中に彼が見たものは、彼の自尊心に媚びるような姿ではなかったのである。(レフ・トルストイ「アンナ・カレーニナ」望月哲男・訳)

例えば、『普通の人』に出てくる中年の男たちは、やたらと女性のボディラインに視線を泳がせる。

部下社員の丸いヒップや、美人秘書の豊満なバストに注がれる視線は、中年男の悲哀を象徴しているが、こうした登場人物は、もしかすると自分自身かもしれない(電車の中で「おっ、いい女」と、隣の美女に目を奪われるサラリーマンの姿も)。

なにしろ、男は、妻が緊急入院した病院で働いている看護婦の巨乳にさえ、極めて自然と、視線を泳がせてしまうのだ(悲しすぎる)。

先刻まで漫画を読んで笑っていた自分が主人公かもしれないと考えたとき、僕は背筋が寒くなるような気がした。

不平不満の塊のような中年サラリーマン(神野さん)のヤバい言動は、果たして特殊なものだっただろうか(「ちっ、車もってると思いくさって」「倉町の奴、部長になりやがって」)。

他人の家庭の幸せを羨み、他人の出世を妬む神野さんの滑稽な生き様は、すべてのサラリーマンの姿を象徴化したものだ。

家庭内で「この家を建てたのは誰だ!」「誰のために働いてるか、ワカルか!」と叫ぶ父親や、新聞に投書された短歌を読んで「朝日歌壇も落ちたもんじゃ」と嘆く経営者、満足な仕事もできないのに、宴会のときだけ主役となるサラリーマン、職場の評判を過度に気にして「女子社員、わしのこと、ナニか言っとらんか?」と部下に囁く管理職員。

それは、すべて戯画化された普通の人々であり、漫画を読んで笑う我々自身の姿である。

そこでは、日常凝視することのできない「恥ずかしい自分」が浮き彫りにされている。

我々はこの本を読んで笑う。しかしその笑いの中には自分の姿を後ろから見ているような(それぞれのタイトルに主人公の後ろ姿が描かれているところに注目していただきたい)冷たい恐怖が含まれているはずだし、また含まれていなくてはならないはずだと思う。(村上春樹「『普通の人』を褒める」)

正直に言って、こういう漫画は読んでいて辛い。

笑いたいのに笑えない。

そこに、本作『普通の人』の本質がある。

この漫画は、自分の恥部を曝け出す、鏡のような作品だったのだ。

人間の闇を笑いに置き換える

自分の恥部は、同時に、他者の暗部でもある。

夫に「ドンクのパン、買ってある?」と訊かれて、「最近あそこもダサイのよ」とイキって答える若妻。

酔った勢いで見知らぬ男性とセックスをした翌朝、「わたしって、だめな女」「でも泣いてばかりいられないわ。ユーミン聴こうかしら」とつぶやくオフィスレディ(村上春樹は、この女性がお好みらしい)。

「わたしってOLむかないなあ」「わたしってホステスむいてないのかな」と、自分探しに悩む若い女性。

いずれも恥ずかしい彼女たちは、女性の暗部を象徴して漫画の中に登場している。

登場人物自身が、恥ずかしい暗部そのものなのだ。

安西水丸は、本来は他人に見せるべきではない暗部を、あえて客観視して曝け出すことで、人間の本質(闇)を笑いに置き換えようとした。

あえて言うならば、朝目覚めたばかりの人々は、虫になりかけてなりきれなかったカフカの『変身』の主人公なのである。そのようにして彼らは虫ならざるものとして、一人の「普通の」人間として、自らに与えられた役割をまた一日、再生産的になぞりつづけなくてはならない。それが我々の役割なのだ。(村上春樹「『普通の人』を褒める」)

『変身』の主人公(虫になった)が、人間の弱さを象徴した存在だったとしたら、『普通の人』に登場する普通の人々は、人間の暗部を象徴した存在である。

本作『普通の人』は、人間批判の漫画であり、ひいては、現代社会批判の漫画でもあったのだ。

そして、その人間批判の中には、人間に対する愛情が含まれていることに注意しなければならない。

誰しも人には見せられない暗部を持っているからこそ、人間は愛しい存在である。

その人間肯定の姿勢は、闇を露出した戯画によって表現された。

つくづく『普通の人』は、深い作品だと思う。

おそらく、僕は、この後『普通の人』を読んでも、二度と笑うことができないだろう。

そこには、見たくはない自分自身の姿があるからだ(認めたくはないけれど)。

メンタルの強い人は、この漫画を「しくじり先生」のように活用して、自分磨きに励んだらいいかもしれない。

いや、普通の人なら耐えられないかな。

なお、『BRUTUS』の「村上春樹の私的読書案内(51 BOOK GUIDE)」でも、本作『普通の人』は紹介されている。

この『普通の人』は畏友・安西水丸が残した不朽の名作だ。何度読み返しても面白い。(略)僕の「熱い」解説がついているので、それをなにかの参考にしてもらえればと思う。しかし、この本、当時はあまり評価されていなかったみたいだ。とんでもなく面白いと思うんだけど…。(村上春樹「村上春樹の私的読書案内(51 BOOK GUIDE)」)

「何度読み返しても面白い」とあるから、村上春樹はメンタルの強い人なのだろう。

作家という職業は、そもそも、自分のエゴを曝け出すのが仕事みたいなものだから、当たり前と言えば当たり前か。

書名:完全版 普通の人
著者:安西水丸
発行:2021/08/30
出版社:クレヴィス

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。