生活体験

ハルク・ホーガン『わが人生の転落』80年代のアメリカン・ドリームという偶像

ハルク・ホーガン『わが人生の転落』80年代のアメリカン・ドリームという偶像

ハルク・ホーガンの訃報が伝えられた。

ハルク・ホーガンさん(米プロレスラー)AP通信によると、24日、米南部フロリダ州で死去。71歳。自宅で心臓発作を起こし、搬送先の病院で死亡が確認された。1953年南部ジョージア州生まれ。80年代から花形選手として活躍し、日本では故アントニオ猪木さんの好敵手として熱戦を繰り広げた。世界最大のプロレス団体WWEで何度も王座を獲得、05年にWWE殿堂入りを果たした。昨年の大統領選で共和党候補のトランプ氏を支援し、7月の党大会で演説した。映画やテレビ番組にも多く出演していた。(「北海道新聞」2025/07/25)

80年代にプロレスファンだった人たちは、当時の熱狂を覚えているはずだ。

なにしろ、ハルク・ホーガンは、80年代を代表するプロレス的アイコンだったのだから。

ハルク・ホーガンという新しいヒーロー像

ハルク・ホーガンが日本のマット界に初めて登場したのは、1980年(昭和55年)5月の「第3回MSGシリーズ」である。

WWFと提携していた新日本プロレスが、日本における主戦場となった。

WWFの新たなヒーロー候補だった頃については、自伝『わが人生の転落』(2010)に詳しい。

「800ドルが小銭程度だと思えるほどのギャラを保証しよう。WWFに来てくれたら、君をニューヨークでスターにしてみせる」(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

メンフィスのCWAでくすぶっていたホーガンは、ニューヨークのマクマホン・シニアから勧誘を受けて、1979年(昭和54年)12月、MSGのマットに上がった。

「ハルク・ホーガン」のリングネームは、アイルランド系レスラーを欲しがっていたマクマホン・シニアが命名したものだ。

ホーガンと聞いて、アイルランド系の姓だとわかる人が実際にいるかどうか知らない。ともかく、シニアは本名のテリーも消して、「ハルク・ホーガン」と名づけてくれたが、響きがよかったので、そのまま使うことにした。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

WWFがホーガンを求めた理由のひとつは、アンドレ・ザ・ジャイアントと互角に戦うことのできる選手が必要だったからだ。

超規格外レスラー(アンドレ・ザ・ジャイアント)と超人(ハルク・ホーガン)との抗争は、マクマホン・シニアの目論見どおり人気を集めた。

ただし、当時のヒーローは、あくまでもアンドレ・ザ・ジャイアントで、ホーガンは、アンドレにひねり潰されるヒール役にすぎない。

MSGの人気選手となったホーガンは、すぐに新日本プロレスへ派遣された。

1980年から、俺はシニアの要請で新日本プロレスにレギュラー参戦するようになった。いま振り返ると、日本では信じられないような経験をさせてもらった。日本のファンが、信じられないほどリスペクトしてくれたからだ。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

もっとも、新日本マットで、ハルク・ホーガンと互角に渡り合うことのできる選手は、ほとんどいなかったと言っていい。

当時、『週刊プロレス』のプレゼント企画でもらった一枚の写真がある。

藤波辰巳がハルク・ホーガンにコブラツイストを仕掛けている写真だが、これは、自分で希望してチョイスしたものだ。

『週プロ』に掲載された中から好きな写真をプリントして送ってもらえるというのが、その企画だった。

アントニオ猪木よりも藤波辰巳を応援していた自分は、迷わずに藤波辰巳の写真を選んだ。

もちろん、ホーガンとの一騎打ちは、どう考えても藤波には不利な試合だった。

なにしろ、スーパーヘビー級のハルク・ホーガンと、ジュニアヘビー出身の藤波辰巳とでは、あまりにも体格が違いすぎる。

卓越した技術力を持つアントニオ猪木だけが、日本で唯一、ホーガンのライバルと呼べる存在だったかもしれない。

同じころ、ハルク・ホーガンは、映画『ロッキー3』(1982)にも出演している。

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シルベスター・スタローン直接のオファーを受けたのだ。

WWFのボス、マクマホン・シニアは難色を示した。

「君はあくまでもレスラーで、俳優ではない。どうしても、『ロッキーⅢ』の撮影に合流するなら、クビを覚悟せねばならない。WWFでは二度と働けなくなるぞ」(略)「わかったよ、シニア。じゃあ、解雇してくれ」(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

マクマホン・シニアとの電話翌日、ホーガンは『ロッキー3』の撮影現場へと向かった。

フリー選手となったホーガンは、いよいよ新日本プロレスを主戦場としていく。

俺は1980年5月から新日本プロレスに参戦した。基本的に、自分を必要としている場所なら、どこにでも向かうと決めていた。(略)新日本のリングに上がったのも、アメリカのプロモーター以上に、アントニオ猪木が俺を呼びたがっていたからだ。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

1982年(昭和57年)5月に『ロッキー3』が公開されると、ホーガン人気は、ますます強固なものとなった。

サバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」を入場テーマに、AWAマットにも参加した。

「ハルク・ホーガン」という新しいヒーロー像が完成したのだ。

俺は、どの会場でもメインイベントを務めた。ハルク・ホーガンがブレイクしたのはまぎれもない事実で、業界の関係者全員に知れ渡っていた。文字どおり、新しい世界が開けた気分だった。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

盛りあがるAWAがニューヨークへ侵攻しようとしていた、そのとき、ホーガンは、ビンス・マクマホンから突然の連絡を受ける。

「やあ、父が君をクビにしたのは知っている」そう最初に切り出して、ビンスは話を続けた。「父はじきに隠居して、私が後を引き継ぐことになる。君がAWAで大ブレイクしたのは、ずっとチェックしていた。我々は君を迎え入れ、WWFヘビー級王者に据えたいんだ」(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

東海岸のWWFは、ハルク・ホーガンを中心に、全世界での展開を構想していた。

それは、息子(ビンス・マクマホン)による(父)シニア・マクマホンへのクーデターだったかもしれない。

その少し前に、アイアン・シークがボブからWWFヘビー級王者を奪った。1983年12月26日のことだ。本来このアングルは、年明けの1月23日のMSGの大会で、ボブが王者に返り咲くためのもので、発案者はシニアだった。ところが、ビンスは父親の裏をかいて、俺を新王者に担ぎ出そうと考えていた。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

当時、ハルク・ホーガンは、本国アメリカで「無冠の帝王」だった。

AWAの人気選手も、バーン・ガニアの考えではヘビー級王者になることができなかったからだ。

1983年(昭和58年)6月、新日本プロレスの第1回IWGP決勝リーグ戦でアントニオ猪木を倒し(猪木が失神)、初代IWGP王者となったのが、ホーガン唯一のベルトだった。

ホーガンのWWFヘビー級挑戦にシニアは最後まで反対したが、ビンスが自分のアイデアを押し切った(この父子の争いもおもしろい)。

1984年(昭和59年)1月23日、WWFヘビー級王者(アイアン・シーク)に挑戦したのは、ボブ・バックランドではなく、ハルク・ホーガンだった。

「ホーガンに裏切られた」との私怨を持つバーン・ガニアは、アイアン・シークに大金を積み、リング上でホーガンに制裁を加えるよう依頼していたという。

こうして1984年1月23日、俺はMSGのリング上で、ハルク・ホーガンらしさを存分に発揮し、得意のレッグ・ドロップでアイアン・シークから王座を奪取。観衆を熱狂の渦に叩き込んだのだった。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

WWFヘビー級王者(ハルク・ホーガン)が誕生した瞬間だった。

80年代を代表するアイコン

ハルク・ホーガン『わが人生の転落』よりハルク・ホーガン『わが人生の転落』より

ハルク・ホーガンは、80年代を代表するアイコンである。

ビンス・マクマホンの構想は、ホーガンを単なるプロレスラー以上のものへと進化させた。

俺とビンスは音楽業界とのコラボレーションにも乗り出しており、(レッスルマニアの)第1回大会の約1か月前には、袖なしのタキシードを着た俺が、歌手のシンディ・ローパーの私設ボディーガードとして第27回グラミー賞に登場した。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

『ロッキー3』におけるシルベスター・スタローンとの共演、シンディ・ローパーのボディガードに扮したグラミー賞への登場、そして、マジソン・スクエア・ガーデンのスターたるWWFヘビー級王座の獲得。

80年代のハルク・ホーガンには、サクセス・ストーリーしかない。

事実、多くのファンは、スター街道をばく進するハルク・ホーガンにアメリカン・ドリームを見出していた。

つまり、ハルク・ホーガンは、アメリカン・ドリームやハリウッドというイメージを体現していたのだ。褐色の肌を持った闘神というアイデアは、太陽に照らされてきらめく海と金色の砂浜で、体を鍛えたたくましい男たちが集うベニス・ビーチから生まれた産物だ。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

「ハルク・ホーガン」は、極めて精巧に仕組まれた「ギミック」(設定)であり、「ストーリー」(物語)である。

多くのプロレスファンは、そこに夢を見たのだ。

プロレスが「インチキ」だとか「やらせ」だとかいう議論に意味はない。

なぜなら、プロレスは、人々に夢を与えるスポーツショーであり、人々は一夜のスポーツショーに酔いしれることを渇望していたのだから。

80年代のアイコンとなったハルク・ホーガンの生活は、多忙を極めていく。

アイアン・シークからWWF王座を奪取した試合では、膝を傷めた。

俺は、致命的なケガも経験した。ハルカマニア旋風が始まった晩──つまり、アイアン・シークからベルトを奪った1984年のWWFヘビー級タイトルマッチの時のことだった。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

重傷を負ったことが知られると、スター選手としての地位を剥奪されてしまう。

世の中が求めているのは「完璧なスター」だったから、ハルク・ホーガンにはケガをすることさえ許されなかった。

俺は週7日間メインイベントを張り続けた。代わりはだれもいなかったから、アイシングをするか、鎮痛剤の<モリトン>を飲むか、あるいは患部に抗炎症剤を貼るかして痛みを散らし、そのまま試合に出たのだ。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

潮目が変わったのは、1988年(昭和63年)のことだ。

ステロイドを取り巻く法律が変わったのは、1988年のことだ。薬物撲滅キャンペーンのためだったのか、それ以外の意図があったのかは定かではないが、アメリカの連邦政府はステロイドを厳しく規制する絶好の時期とみなしたわけだ。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

「ステロイド」は、ハルク・ホーガンという「完璧なヒーロー像」を保つために必要なアイテムだったかもしれない。

1991年(平成3年)の夏、ハルク・ホーガンは、コメディアン(アントニオ・ホール)が司会を務める人気テレビ番組に出演、ステロイド疑惑について語った。

アーセニオは、ステロイド使用歴を単刀直入に聞いてきたので、「いや、基本的には使っていない」と俺は釈明した。たしかに真実を語ったつもりだが、誠実な回答じゃなかった。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

苦しい釈明はさらなる疑惑を呼んだ。

ヒーローの座から降りることを、ホーガンは求められ始めていたのだ。

1991年(平成3年)11月、墓堀り人(ジ・アンダーテイカー)とのWWFヘビー級選手権。

超人ハルク・ホーガンが病院送りにされた。

アンダーテイカーは普段、ツームストーンを決める際には、相手の頭頂部をキャンバスから5センチほどの高さで寸止めしてくれる。まさに紙一重で脳天直撃を避けてくれるわけだが、この日の俺は暑さで汗だくになっていた。(ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー「わが人生の転落」森本恵介・訳)

時代は、既に80年代ではなかった。

80年代のアメリカン・ドリームを体現するアイコンとしてのハルク・ホーガンは、とっくに賞味期限を過ぎていたのだろう。

自伝『わが人生の転落』は、「80年代のヒーロー」を経験した者の失意と絶望を描いた、ひとつの物語である。

かつてのヒーローの栄光と挫折が、そこにはある。

あるいは、それは、創られた偶像にすぎなかったのかもしれない。

それでも、ハルク・ホーガンは、確かに我々のヒーローだった。

黄金の80年代は、ハルク・ホーガンとともにある。

今日までも、そして、明日からも。

書名:わが人生の転落
著者:ハルク・ホーガン&マーク・ダゴスティー
訳者:森本恵介
発行:2010/10/24
出版社:双葉社

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懐究堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。