小川洋子『完璧な病室』読了。
本作『完璧な病室』は、1989年(平成元年)9月に福武書店から刊行された作品集である。
この年、著者は27歳だった。
収録作品及び初出は、次のとおり。
「完璧な病室」
・1989年(平成元年)3月『海燕』
・1989年(平成元年)上半期(第101回)芥川賞候補
(受賞作なし、他の候補に鷺沢萠「帰れぬ人々」があった)
「揚羽蝶が壊れる時」
・1988年(昭和63年)11月『海燕』
・1988年(昭和63年)、第七回海燕新人文学賞受賞
(前年に、吉本ばなな「キッチン」が受賞している)
正常と異常との境界線を打ち砕く
小川洋子の作品を読むと、恐ろしいなと思う。
ストーリーが恐怖チックなわけでもなく、表現がおどろおどろしいわけでもない。
研ぎ澄まされた文章の中にある冷たさが、自分には怖いのだ。
それは、繊細な観察眼で現実を直視する、女性特有の恐ろしさかもしれない。
現実を冷静に直視するあまり、小川文学では、現実が現実でないような逆転現象を見せる。
現実の社会とか家庭とかの場で正常とか異常とか、正しいとか正しくないとか思われている価値基準を全く覆すような、新しい「現実」を小説の中でつくりたい──。(1990年5月『文学界』所収「至福の空間」を求めて(新芥川賞作家 特別インタビュー)。
つまり、この恐怖感は、今、自分が生きている世界を否定されてしまうかのような、逆転への恐怖感である。
例えば、デビュー作「揚羽蝶が壊れる時」は、妊娠した主人公の心理を、老人ホームに入所したばかりの祖母と、ノンシャランな男性詩人との二人との関係から、緻密に描きだした物語である。
未婚の妊娠も、老人性痴呆症も、老人ホームへの入所も、モラトリアムな若者たちの生活も、そのひとつひとつは決して珍しい事象とは言えない。
それらは、現代社会のありふれた日常とさえ言っていいが、物語の中で、主人公(奈々子)の生活は、次々に現実性を失っていく。
「彼女の異常さを認めるのは怖い事だわ。自分の正常さが揺らぐんだもの」(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
祖母(さえ)の手によって育てられた主人公は、祖母を否定することによって、自分自身が否定されるかのような違和感を覚える。
丸まった背中がわたしを拒否する。さえはいつでもわたしの中に、わたしの母親を見ていたから。彼女を憎んでいたから。母親は、父さんの脳に腫瘍ができた時、父さん以外の人の子を身籠っていたから。(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
主人公にとって、妊娠は、決して祝福に満ちたライフ・イベントではない。
かつて、不倫の子を産んだ母親の姿が、祖母との記憶を通して再生されるからだ。
妊娠の兆候は、常に暗い音調を伴って描かれていく。
ずっと曲線のままでいたい。輪郭だけの自分になりたい。自分の内部を残らず放棄してしまいたい。(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
主人公の不安を一層増幅するのは、モラトリアムな詩人(ミコト)である。
主人公にとって、神秘的な存在であった祖母を老人ホーム「新天地」へと送りこんだのは、恋人のミコトだった。
村上春樹の作品で、女性が巫女的な役割を果たしているように、本作「揚羽蝶が壊れる時」では、男性のミコトが、超常的な存在として機能している。
「彼女とわたしたちと、どっちが本当の現実なの?」他人の舌はいつでもバターのようにしなやかだ。「それは誰にも決められない」(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
ミコトは、祖母を「新天地」へ送りこむと同時に、主人公の体に新しい命を宿した。
まるで、日本神話に登場するような「ミコト」という現代性を失った名前の男が、主人公の現実感を奪っていく。
「前に彼女がコスモスを山程引き抜いてきて部屋中にばらまいた時、奈々子は彼女の異常さを認めるのが怖くて、狂ってるのは自分の方かもしれないと思ってしまったんだろ? 正常と異常、真実と幻想の境界線なんて、こんなふうにあやふやで、誰にも決定できないものなんじゃないかなあ」(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
「正常と異常、真実と幻想の境界線なんて、こんなふうにあやふやで、誰にも決定できないものなんじゃないかなあ」というミコトの言葉は、この物語の主調となるものだ。
というか、現実と幻想、正常と異常との「あやふやな境界線」こそ、小川文学に通底する大きなテーマだったかもしれない(「どっちの”僕”を信じようと、僕の自由なんだ」)。
そして、この「あやふやな境界線」の提示こそ、小川文学が持つ恐怖感の、最大の要因なのだ。
そろいのスカートの襞と薄い鞄と革靴が、ゆっくりと人波に飲まれてゆく。笑われているのはわたしなのだ。(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
「あやふやな境界線」は、ミコトの新しい作品の中で「揚羽蝶」として可視化される。
細く長い髪の毛を持った若い女が振り向いている。わたしよりずっと大きな目と鼻と唇を持った女。掌には揚羽蝶。羽を左右対称にいっぱい広げている。──誰? ──わからない。(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
羽を左右対称に広げる揚羽蝶は、現実と幻想、正常と異常の二極関係を象徴するものだろう。
主人公は、デパートのおもちゃ売り場で、揚羽蝶の標本を買い求め、自分の手で打ち砕く。
写真の彼女が振り向く。髪の毛が揺れる。陣痛のような怒りがこみあげる。わたしは思いっきり掌を閉じた。揚羽蝶は一瞬のうちに粉々になった。弱々しい疼が残った。掌からこぼれた破片が、カレンダーの上にバラバラと降った。(小川洋子「揚羽蝶が壊れる時」)
最後の文章を読むとき、いつでも背筋がぞっと寒くなる。
小川洋子の恐ろしさは、揚羽蝶を握りつぶす主人公の目の中にも映っているからだ。
揚羽蝶の破片を受け止めたカレンダーは、主人公が、妊娠の日を数える「妊娠カレンダー」でもある。
粉々になった揚羽蝶の破片は、打ち砕かれた現実と幻想との境界線だ。
率直に言って、世の中は、そこまで二極化していなくてもいいのにと、自分は思う。
現実があって、幻想があって、現実みたいな幻想があって、幻想みたいな現実がある。
曖昧なグレーゾーンの中、我々は生きているのであって、だからこそ、こんな世の中を我々は生きていけるのだ。
女性らしい潔癖さが、この物語を支えていると言うべきか。
破綻した夫婦関係から逃避する女性の救済の物語
女性の潔癖性を最大限に発揮した作品が「完璧な病室」である。
弟はあの病室のあのベッドの上で、いつでも完璧に穏やかで、完璧に優しかった。弟の首筋は完璧に滑らかで、弟の吐く息は完璧に透明だった。(小川洋子「完璧な病室」)
神経症的なまでに繰り返される「完璧」という言葉は、またしても、自分を恐怖に陥れる。
なぜなら、我々の生活というのは、本来「完璧」なものではあり得ないからだ。
弟が生きる「完璧な病室」は、現実世界から隔離された「異界」を想像させる。
何日放っておいても、この病室は何も変わらないだろう。シーツもレンジもホーローも相変わらずつやつやしたままだろう。変性しないこと、退化しないこと、腐敗しないこと。そのことがわたしを安心させる。(小川洋子「完璧な病室」)
腐敗していたのは、主人公の夫婦生活だった。
弟を死へと導く病気が顕在化させたものは、既に破綻している主人公の夫婦生活だったのだ。
わたしが夫についての何かを考えるとすれば、それはいつも夫の不在についてだった。夫の不在と自分との関係について、夫の不在の意味について、夫の不在が終わる時について。わたしは夫の不在をあらゆる角度から分析した。それくらい徹底的に、夫は不在だった。(小川洋子「完璧な病室」)
昭和初期から平成末期にかけて、日本はバブル景気の時代で、世の中では「24時間働けますか?」という言葉が流行していた(1988年「リゲイン」)。
「亭主元気で留守がいい」というキャッチフレーズが流行語となったのも、バブル時代の1986年である(「タンスにゴン」)。
「夫の不在」は、バブル景気を根底から支える主婦層の共通テーマだったのだ。
既に1983年(昭和58年)、「樹下の家族」で第一回海燕新人文学賞を受賞したばかりの干刈あがたが、仕事人間である夫の不在をテーマとした名作短篇「プラネタリム」を、『海燕』に発表している。
男たちがビジネスへ没頭するほど、家庭の女たちの孤独が助長されるという構図が、1980年代までの文学にはあった。
本作「完璧な病室」もまた、異界たる病室を舞台に、現実社会を忌避する若妻が、男性医師との不倫へと逃避する過程を描いた物語だったのである。
死にゆく弟は、現実社会と異界とをつなぐ、神格化された存在としての役割を果たしている。
弟の膚の白さは、食べ物を戻せば戻すほど純粋になっていくような気がした。弟の身体から、だんだん匂いが消えていった。弟は、病室の清らかさの中にかっちりと組み込まれていった。(小川洋子「完璧な病室」)
「僕は、セックスだって知らないまま、死ぬんだ」と泣いた弟に、主人公は「セックスって、そんな特別扱いするべきものじゃないわ」と慰める(「生活の一部、繰り返しの一部よ」)。
しかし、そんな彼女が、破綻した夫婦生活から逃れた先は、やはり、男性医師との不倫セックスだった(「先生、わたしを、抱いてくれませんか」)。
彼は私にとって恋人でも夫でも幼なじみでもなく、抽象的な人間だ。二人の間には思い出も未来もなく、死に近づいた弟がいるだけなのだ。(小川洋子「完璧な病室」)
異界を司る弟は、混乱した夫婦生活を抱える姉と、自分の主治医たる若い男性医師とをつなぐ役割を果たした。
つまり、この作品は、弟の病室を舞台としつつ、疲弊した夫婦関係からの脱却を図る女性の姿を描いた、救済の物語だったのである。
「病室は、そんな生活の薄汚さを、完璧に掃き出した場所ですね。そこに弟と一緒にいると、自分が天使か妖精になったような気がします。弟を愛する気持ちだけ食べていれば、それだけで生きていけるような」(小川洋子「完璧な病室」)
大学の図書館で、弟のために借りた本は、ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』だった。
レイプされた姉に恋をする弟が語り手となる、この小説を、主人公は、どのような思いで、弟のもとへと届けたのだろうか(そう考えるのも恐ろしい)。
本書『完璧な病室』は、人間の恐ろしさを描いた作品集である。
それは「女性の恐ろしさ」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。
どんなホラー小説を読んだときよりも、自分は、小川洋子の小説を読んだときの方に、恐ろしさを感じてしまう。
自分が、今、生きている現実世界を否定されてしまうかのような不安は、村上春樹の小説にもあった。
しかし、村上春樹の小説は、不安をロマンティックに昇華して描いていたけれど、小川洋子の小説は、不安を不安のままに描き出している。
そこに、小川洋子の凄さがあり、恐ろしさがある。
一読して、ぐったりと疲れてしまう、そんな一冊だった。
書名:完璧な病室
著者:小川洋子
発行:1991/12/16
出版社:福武文庫