井伏鱒二『貸間あり』読了。
本作『貸間あり』は、1948年(昭和23年)に鎌倉文庫から刊行された長篇小説である。
この年、著者は50歳だった。
初出は、1948年(昭和23年)1月29日~5月10日『週刊サンケイ』(計7回連載)。
1959年(昭和34年)、川島雄三監督により東宝において映画化された(出演はフランキー堺、淡島千景、桂小金治など)。
大衆文学の顔をした純文学
井伏鱒二は、大衆文学の顔をした純文学である。
庶民の目線に立った庶民の日常を素材としているから、難しいはずがない。
庶民に分かりやすい物語でもって、時にコメディタッチなエピソードも加えながら、世の中の本質を鋭く攻めてくるところに、井伏文学の凄さがある。
戦後間もない1948年(昭和23年)に発表された本作『貸間あり』も、大衆小説の顔をしていた(しかも、連載は『週刊サンケイ』だ)。
主人公は、美貌の女性復員者(津山ユミ子)である。
ユミ子は戦争中に傷病兵づきの看護婦志願をして出したが、マレー派遣を命じられて現地に着くと、報道班に勤務を命じられた。(略)つまり彼女は遅まきの復員者なのである。(井伏鱒二「貸間あり」)
その頃、日本では、外地から引揚げしてきた人たちによって、戦後の住宅難が極まっていた。
まして、東京は、連合軍の空襲を受けて焼け跡となっている。
ユミ子の自宅も、多分に漏れず空襲被害を受けていた。
自分のうちの焼跡だけはわかったが、立札も何もなくて母親の行方も弟の行方もどうしてもわからなかった。父親は、彼女のマレー在住のとき病死した。(井伏鱒二「貸間あり」)
天涯孤独の身の上となったユミ子は、住む場所を求めて、マレーで知り合った作家(宇山冬平)を訪ねる。
宇山冬平は、荻窪にある自分の仕事部屋をユミ子に提供してくれた。
大通りを荻窪の駅の方に行くと、右手にマーケットが並んでいる。その筋向うのポストの先に、トレイラア・バスの停留所がある。この停留所の先から左に折れ、映画館跡の前を通りすぎてかなりの距離を行くと、お宮か稲荷様かわからないが、祠のあるそこの森のはずれに門長屋のついた大きな構えの邸宅があった。(井伏鱒二「貸間あり」)
この門長屋こそ、住民から「アパート屋敷」と呼ばれている「荻窪の旧青柳邸」で、物語は、このアパート屋敷で暮らす人々の群像劇として展開していく。
ユミ子の観察によると、そのアパート屋敷というところは、ことによったら貧民窟の一部分のようなものかもしれないのであった。そこには、ならずもののような若い止宿人もいた。(井伏鱒二「貸間あり」)
本作『貸間あり』が描いているものは、敗戦後の日本を生きる庶民のリアルな生活である(なにしろ、住宅難も食糧難も、日本国民に共通の課題だった)。
ユミ子が恋をする相手は、宇山さんから最初に紹介された与田五郎だった。
後で、門長屋の部屋に帰ってから、宇山さんが「あの五郎さんという男は、もと文学青年だった」と云った。(井伏鱒二「貸間あり」)
ユミ子と五郎さんと宇山冬平の3人を中心に物語は進んでいくが、特別のドラマがあるわけではない。
様々な生活をしている多様な人々が、非日常的な日常を過ごしているだけで、物語は十分におもしろいからだ。
ペンキ屋のお婆さんは、玄関の六畳間に暮らしている。
この婆さんは玄関の出入り口の部屋に毎日すわっていて、出入りの人たちに終日観察の目を送っている。したがって玄関番の役目も果たすのである。(井伏鱒二「貸間あり」)
屋敷の玄関で人が暮らしているというところに、そもそも非日常感がある(そして、それが戦後の日常だった)。
洋さんは、五郎さんを助手にしながら、コンニャクやキャベツ巻きを作って、問屋へ卸している。
「コンニャクだよ、婆さん。乾燥コンニャクの粉だよ」と洋さんは気まずそうに答え、そうして五郎さんに云った。「ではともかく、二階のヤスヨさんにでも頼むかね?」(井伏鱒二「貸間あり」)
二階の島ヤスヨは、女の闇屋である。
行きどまりの部屋には「罹災者、島ヤスヨ」と書いて貼り出してあった。この部屋の主が、緋色の長襦袢で廊下を歩いていた闇屋の女である。(井伏鱒二「貸間あり」)
ヤスヨの部屋には、岩手県・山梨県・千葉県から、三人の男たちが品物を運んでくる。
この男の話では、その村には彼のような東京通いの便利屋が三人いる。そのうち二人まで、近所じゅうにその行為のほどが知れわたり、その両家とも嫁に行っていた娘が婚家から追い返されて来た。(井伏鱒二「貸間あり」)
階下の奥六畳間にも、もうひとり女闇屋が住んでいた(戸倉ウタ)。
冒頭、ユミ子が「そこには、ならずもののような若い止宿人もいた」と見たのは、ハラ作のことである。
西原作一は、通称「ハラ作」といわれている。与太者に応わしくジャンパーをきて、古代紫に近い色のマフラーなどしていたが、きちんと膝をそろえて坐っていた。(井伏鱒二「貸間あり」)
離れ書院の八畳間に住んでいる若い女性は、旦那を三人も持っていた(お千代さん)。
お千代さんは朝化粧でおめかしをしていた。たぶん朝帰りの旦那を荻窪の駅まで見送って行った帰りと思われた。(井伏鱒二「貸間あり」)
アパート屋敷の住民の食事は、オミノ婆さんが世話してくれている。
彼は昼飯と夕飯は、書院六畳のオミノ婆さんのところへ回数券で食べに行く。このアパート屋敷の独身者のうち、五人までが米穀通帳などオミノ婆さんにあずけて賄をしてもらっている。(井伏鱒二「貸間あり」)
乗車券や急行券が必要になったときは、母屋の階下十二畳にいる斎藤さんに頼むといい。
お千代は会場の支度に手をつける前に、斎藤さんの部屋へ切符の世話を頼みに行った。その部屋の障子には「古物商、斎藤芳雄」と書いた貼り紙がされている。(井伏鱒二「貸間あり」)
斎藤さんの本職は古着のブローカーで、長野・山梨・群馬・千葉あたりから古着を仕入れては売りさばいていた。
斎藤さん夫妻のことについては、その隣人である清泉堂骨董屋が詳しい。
その隣りの八畳間の障子にも「古物商」の肩書きで、「清泉堂、九野九郎」と書いた貼り紙がされている。(略)骨董に対する彼の鑑賞眼は殆んどお話にならないが、このアパート屋敷に引越してからは、書画骨董の売り買いをして夫婦で暮らしている。(井伏鱒二「貸間あり」)
主要なメンバー以外にも、多くの住民が、ところどころで顔を見せる。
母屋つづきの八畳間にいる熊田さんという設計屋は「なあんだい、ひもじい思いをさせやがる」と云って引返して行った。湯殿の隣りの八畳にいる木田村さんは、十二時ちょっとすぎに来て「では、御飯できたら、持って来てくれ」と云って引返して行った。(井伏鱒二「貸間あり」)
細かいディテールは、この小説の生命線である。
なにしろ、鎌倉文庫版『貸間あり』(1948)には、「青柳アパート屋敷見取図」まで収録されているのだ。
住民一人一人の生活を具体的に描くことで、この小説は、敗戦直後における日本の貴重な記録書となった。
それは、誰かが書いておかなければいつかは忘れられてしまうだろう、庶民の生活の記録でもある。
アパート屋敷のモデルは青柳瑞穂邸
作者(井伏鱒二)は、住宅難と食糧難に苦しむ庶民の暮らしを、ユーモアたっぷりに綴った。
そもそも「青柳アパート屋敷」のモデルとなっているのは、「阿佐ヶ谷会」の会場としても知られている「青柳瑞穂邸」である。
当時の様子については、真尾悦子『阿佐ヶ谷貧乏物語』(1994)に詳しい。
外村家から小路二つ隔てた奥に、詩人で仏文学者の青柳瑞穂氏が住んでいた。ルソーを訳した人である。氏は書画骨董の収集家でもあった。(真尾悦子「阿佐ヶ谷貧乏物語」)
1948年(昭和23年)に、戦後第一回目の「阿佐ヶ谷会」が開かれたときのことも、『阿佐ヶ谷貧乏物語』に載っている。
それは、文士でさえも「貧乏」とは無縁でいられない時代だった。
真尾倍弘・悦子夫妻も「貸し間」を求めて、外村繁の自宅の一室に間借り暮らしをしていたのである。
本作『貸間あり』は、そんな時代の生活の中から生まれてきた作品だったのだろう。
青柳瑞穂その人も「市川瑞穂」という名前で登場している。
「いま、阿佐ヶ谷の帰りだ。市川瑞穂のところに行ったら、壺を呉れたよ」宇山さんはその翻訳本の頁をめくりながら、五郎さんに云った。(井伏鱒二「貸間あり」)
市川瑞穂は、骨董の蒐集家である。
「よく見てごらん。ちょっと黄瀬戸に、似てるだろう? しかし、黄瀬戸ではない。オロというんだそうだ。陶器蒐集家の、市川瑞穂がそう云ってた」(井伏鱒二「貸間あり」)
津山ユミ子に青柳アパート屋敷を紹介してくれた小説家(宇山冬平)は、もちろん、作者(井伏鱒二)自身の分身だ。
「盛大に送ろうよ。宇山さんの口癖ではないが、人生は、さよならだけだ。僕も大いに飲む。彼女のために飲むんだ」(井伏鱒二「貸間あり」)
ユミ子の恋愛相手で、気取り屋の与田五郎には、太宰治の影が見える。
「珍らしい本を読んでいるね」宇山さんはその本を手に取った。表紙を見ると、徳田秋声訳プーシキン作「大尉の娘」という翻訳本であることがわかった。(井伏鱒二「貸間あり」)
プーシキン『大尉の娘』は、太宰治の愛読書でもある。
「ばか云っちゃいけない。僕はチェホフ流の倦怠青年の、それも出来そこないなんだそうだ。いつか僕の先輩の宇山さんという人が、そう云ってたよ」(井伏鱒二「貸間あり」)
本作『貸間あり』の連載中、人気作家・太宰治はまだ存命中だった(この年の6月に死亡)。
五郎さんは一升瓶の口をあけて、机の上のユミ子の湯呑みを断りなしにとって酒をついだ。そのつぎかたは、みっともないけれど、手慣れたものであった。(井伏鱒二「貸間あり」)
三つ四つ舌打ちをしながら酒を飲む仕草にも、どこか太宰治が投影されていたのかもしれない(「品のないことするわね。あれもポーズのつもりなのかしら」)。
作者自身のメッセージは、様々な登場人物の言葉を借りて発信されていく。
「僕は、桜の花それ自体は、きれいだと思います。しかし、よく一般に云いますね。花は何とか、とか、あしたに匂う何とかだとか、──ぞっとする──あの言葉には、妙な概念がつきまとう。僕はそれが不愉快です。(略)全くあれは不愉快だ。あの概念が、三年間も僕を徴用して、マレーくんだりまで連れてったのだね」(井伏鱒二「貸間あり」)
戦時中にマレーまで徴用されたときの恨みは、設計屋の熊田さんの言葉として語られている。
自称「盆栽屋」の木田村さんは、お千代さんの送別会で愉快な踊りを披露した。
「あの男、戦争中に外地で、徴用者をこき使っていた男だそうですからね。どうせ退屈しのぎに、軍部のものからでも、教わった踊りでしょう。あんな踊りは、貧しい百姓を馬鹿もの扱いにしていると云えます」(井伏鱒二「貸間あり」)
それは、軍部批判とか戦争批判とか言われるものとは性質が違っている。
なぜなら、彼らの言葉は、戦後を生きる庶民の「生活の言葉」だったからだ。
結婚するため故郷に帰ったお千代さんは、旦那を持っていた東京の暮らしを、アパート屋敷の住民に暴露されて自殺してしまう。
「俺もね、いま手紙を読んでて、ほろりとさせられたのさ。旦那を三人も持って、苦労して、その挙句だ。わけがわからねえ」(井伏鱒二「貸間あり」)
23歳で死んだお千代さんは、敗戦後の日本が生んだ犠牲者の一人である。
アパート屋敷の住民一人一人の生活の中に「敗戦」という歴史の傷痕があった。
「あたし、今度の戦争中に罹災したのでね。むかしの牛屋の御主人にお願いをして添書を頂いて、ここの御隠居さんを伺ったの。すると、すぐさま家作に入れて下すったよ」(井伏鱒二「貸間あり」)
「貸間あり」の札に翻弄されて行き惑う人々は、そもそも、敗戦後の住宅難という(ある意味で人為的な)災害の罹災者だった。
作者は、敗戦後の日本を生きる庶民に、温かい愛情と共感の目で寄り添っている(なにしろ、彼自身もまた、敗戦の被害者だったのだから)。
「結構ですわね」ウタさんは書込みに気をとられながら、上の空のように云った。「筋書があれば、小説なんて筋書どおりですものね。でも、世のなかのことだけは、そうは行かないわね」(井伏鱒二「貸間あり」)
事実は小説よりも奇なり、という時代が確かにあった(それが、つまり「戦後」という時代だった)。
作家(井伏鱒二)は、敏感な感性でもって、そんな時代を取りこみ、自分の物語という形で世に送り出したのだ。
そこでは、純文学とか大衆文学とかいうジャンル分けは、何らの意味も持たない。
同じく1948年(昭和23年)に発表された太宰治の『人間失格』は純文学で、井伏鱒二の『貸間あり』は大衆文学である。
そんなジャンル分けに、いったい何の意味があっただろうか。
確かなことは、井伏鱒二はリアルな庶民を描き続けていた、ということである。
「そうだ、全く奇遇だ。人間、五十にもなるというと、つまり死なないで生きてると、知りあいの人に久しぶりで逢う機会がたびたびあるからね。だから、奇遇という事実があったって、べつに狼狽することなんかないさ」(井伏鱒二「貸間あり」)
文学が庶民のものであるなら、庶民に伝わらなければ意味はないはずだ。
そういう意味において、井伏鱒二の文学は、現代社会における庶民文学ということだったのかもしれない。
書名:貸間あり
著者:井伏鱒二
発行:1948/08/30
出版社:鎌倉文庫


