札幌「キノカフェ」で、友部正人のライブに参加してきた。
友部正人「銀座線を探して」発売記念完全生音ライブ。
マイクもアンプもスピーカーもない、完全な生音ライブは、フォークシンガー友部正人の原点に触れる、貴重な体験だった。
時代や世代を超えて「友部正人」を愛する人たち
ライブ終了後、出口に設けられた物販コーナーに友部さんが立った。
CDや書籍を購入してくれた人たちに、サインをしているらしい。
僕の前に並んだ若い女性(20代前半?)が『シングル コレクション』(CD)と『絵の中のどろぼう』(絵本)を買って、友部さんのサインをもらっている。
そして、後ろに並んでいるおじさんにスマホを預けて、友部さんとツーショット記念写真を撮影(「写真はだめですか?」という訊き方が控えめでかわいい)。
友部正人の音楽が世代を超えて愛されているという事実に、瞬間、はっとさせられた。
友部さんの音楽は、決して時代に縛られるものではない。
いつの時代でも、どんな世代の人にでも、幅広く訴えかけてくるのが、「友部正人」という音楽なのだ。
そこに、友部正人というミュージシャンの持つ本質がある。
一方で、来場者の多くが、友部さんとともに1970年代から走り続けてきたベテランであるということも、また、間違いのない事実だろう。
「陸前高田のアベマリア」「すばらしいさよなら」「小林ケンタロウのいえ中華」など、会場の中に漂っていたほのぼのとした空気が、「もうずっと長いあいだ」一曲で緊張感のあるものへと変わった。
もうずっと長いあいだ
おもしろい映画を見ていない
もうずっと長いあいだ
新しい歌を聞いていない
空はあんなに明るいけれど
日ざしは石のように冷たい
もうずっと長いあいだ
本当に歌いたいと思ったことがない
(友部正人「もうずっと長いあいだ」)
札幌のバンド「スカイドッグ・ブルースバンド」が演奏に参加した曲とあって、地元には、思い入れを持っている人たちも少なくない。
特に「もうずっと長いあいだ」は、友部正人にとっても、特別な意味合いを持つ曲だ。
1976年にこのLPが発売されてからもう14年たちました。1981年には自主制作のかたちでLPを再発売し、今回CDとして再び登場します。録音当時のメンバー(今はなき SKY DOG BLUES BAND)と共に14年ぶりにレコーディングされた「びっこのポーの最後」「もうずっと長いあいだ」(1975年の未発表作品)を特に楽しんでください。(小野由美子「1976」制作ノート)
1990年(平成2年)に発売されたアルバム『1976』は、日本ロック史に数えるべき名盤のひとつだ。
スカイドッグ・ブルースバンドが演奏に参加した、1976年(昭和51年)発売のアルバム『どうして旅に出なかったんだ』は、差別用語を使用しているという理由で市場から回収され、発売禁止となる(いわゆる、レコード会社の自主規制)。
幻の名作は、1981年(昭和56年)になって自主制作盤『友部正人 1976』という形で再発売されるが、収録時間の関係で、回収盤に入っていた「ヘマな奴」はカットされた。
1990年(平成元年)、「ヘマな奴」を復活させたうえ、未発表だった「もうずっと長いあいだ」を新録音で追加した『1976』が発売される。
「びっこのポーの最後」も、新たに録音し直された『1976』は、だから、『どうして旅に出なかったんだ』の完成形と言っていい。
2005年(平成17年)には、吉野金次によるリマスター版が発売されているので、これから買う人には、2005年(平成17年)リマスター版がおすすめ。
この日、初めて、客席から声が飛んだのを聞いたとき、1990年(平成2年)発売の『1976』を思い出した人も少なくなかっただろう。
ベテラン勢の多くは、ギターを持って歌う友部さんに、「1970年代の友部正人」を見ていたはずだ。
なぜなら、「もうずっと長いあいだ」の原点には、1976年(昭和51年)発売の『どうして旅に出なかったんだ』があるからだ。
「一本道」当時から、友部正人というミュージシャンを支えてきた、筋金入りのリスナーたちの熱気。
僕のように、1980年代後半から友部正人を聴き始めたような「ニワカ」とは、気合いの入り方が違う(ような気がする)。
もちろん、そんな僕だって、ニワカなりの人生を抱えながら友部正人を聴いてきた、ささやかなリスナーの一人だ。
考えてみると、友部正人を聴くときというのは、何かしら人生の逆境にあった。
どうしようもなく孤独になったとき、僕は、友部正人という音楽に救われてきたらしい。
そのためだろうか。
「はじめぼくはひとりだった」を聴いているうちに、涙が流れた。
はじめぼくはひとりだった
それはおやじもおふくろも知らないぼくだった
電車の窓から外を見ながら
駅の名前をおぼえていった
その夜 ぼくは炭坑町で
真黒いお風呂に入れられた
(友部正人「はじめぼくはひとりだった」)
「はじめぼくはひとりだった」も、『どうして旅に出なかったんだ』(後の『1976』)で発表された作品だ。
友部さん初めての一人旅は、札幌で暮らしていた小学一年生のとき。
札幌から夕張まで、汽車に揺られていった。
そのときのことを歌った歌が「はじめぼくはひとりだった」という歌です──
そんな話を、友部さんがしていたことを、僕は覚えている。
アコースティックギターとブルースハープの衝撃
シアター・キノ併設の「キノカフェ」は、決して大きなお店ではない。
一列に三脚の椅子を並べて、全部で40人程度も入っていただろうか。
アコースティックギターとブルースハープだけで、友部さんは、2時間を歌い続けた(ずっと立ちっぱなし)。
アンプを通さないギターの音色と友部さんの声。
君がニューヨークにいるのと同じように
ぼくは東京にいる
君がニューヨークでアパートを借りているのと同じように
ぼくは東京で借家住まいだ
君はニューヨークで新しい友だちを見つけただろうか
ぼくは東京で見つけたよ
そしてぼくも君も東京とニューヨークで
歌のことを考えている
(友部正人「遠来」)
「遠来」のブルースハープを聴いているとき、なんて贅沢で素晴らしい音楽体験なんだろうと、本気で感動した。
友部正人完全生音ライブの衝撃。
そして、この貴重な完全生音ライブの衝撃を知っているのは、そのときキノカフェにいた数十人の来場者だけだ。
華やかなドームツアーでは、決して体感することのできない世界が、そこにはある。
アンコールの一曲目は「ぼくは君を探しに来たんだ」。
会場の隅に引っ込んでいた友部さんが(なにしろステージがないから隠れる場所もない)、ギターを弾きながら、再びセンターへ登場すると、会場は一気にヒートアップ。
終電車の町へやってきた
スポーツ新聞の町へやってきた
忙しい町へやってきた
しなびたみかんみたいな町
それでも値段はとても高い
大きな町へやってきたけど
ぼくの行くところはたったひとつさ
ぼくは君を探しに来たんだ
ぼくは海を離れ山を越えてやって来た
話じょうずの君にも会いたかったし
ぼくのいない町で暮らしたかったから
(友部正人「ぼくは君を探しに来たんだ」)
フォーク・コンサートは、アンプを通さない、このような形こそ、実は本当だったのではないだろうか。
ギターとハーモニカで熱唱する友部さんの姿。
1970年代から走り続けてきた長距離ランナー、友部正人の原風景が、そこにある。
ニューアルバム収録作品が中心となった『銀座線を探して』発売記念完全生音ライブ。
『銀座線を探して』からは「陸前高田のアベマリア」「銀座線を探して」「小林ケンタロウのいえ中華」「一枚のレコード」「水上アパート」「小鳥谷」の6曲が演奏された(つまり、アルバムの最初と最後の3曲ずつ。この日最後の演奏が「小鳥谷」だった)。
2020年(令和2年)発売のアルバム『あの橋を渡る』からも「あの声を聞いて振り返る」「ブルース」「バレンタインデー」が披露された。
友部正人は、決して「懐かしい」だけのミュージシャンではないのだ。
一方で、1994年(平成6年)発表のシングル「朝は詩人」や、1989年(平成元年)発表のアルバム『夕日は昇る』に収録された人気曲「水門」など、平成初期の作品も良かった。
時代を駆け抜けてきたミュージシャン・友部正人の現在を聴くことができた完全生音ライブ。
もしかすると、僕たちは、二度と取り戻すことのできないような「真冬の午後の夢」を見ていたのかもしれない。