内藤啓子『枕詞はサッちゃん』読了。
本作『枕詞はサッちゃん』は、作家(阪田寛夫)の長女による、父の回想録である。
自己肯定感の低い詩人
小学校の音楽の時間に「世界一周」という歌を覚えた。
日本のくにから こんにちは
日本のくにから こんにちは
世界じゅう一日でまわってきましょ
ハ テクテク こんにちは
フランスで朝ごはん ボンジュール
フランスで朝ごはん ボンジュール
かたくてでかくておいしい フランスパン
ハ ポリポリ ボンジュール
ドイツのこどもは グーテンターク
ドイツのこどもは グーテンターク
どいつも こいつも ドイツ語がじょうず
ハ ペラぺラ グーテンターク
おひるはイタリア ボンジョールノ
おひるはイタリア ボンジョールノ
おはしもつかわずに スパゲッティたべた
ハ ツルツル ボンジョールノ
(阪田寛夫「世界一周」)
この楽しい童謡の作詞が阪田寛夫によるものであることは、近年知った。
1975年(昭和50年)に『土の器』で芥川賞を授賞した阪田寛夫は、小説家でもあり、詩人でもある。
「子どもの歌で、『サッちゃん』というのをご存じでしょうか? あの詩を書いたのが父です」「ああ、あの『サッちゃん』を書かれた」この会話を何十回繰り返したことだろう。『サッちゃん』は、阪田寛夫の枕詞なり。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
『サッちゃん』で知られる阪田寛夫は、あたたかくてユーモアのある童謡詩を数多く手がけた。
家族小説の大家(庄野潤三)との親交も厚いことから、阪田家もさぞかし明るくて楽しい家庭だったのだろう──。
などという勝手な妄想は、このエッセイ集で木っ端みじんに吹き飛ばされた。
なにしろ、阪田家では、父親を「オジサン」、母親を「オバサン」と呼んでいたという。
そんなある日父から、「今日から俺のことを『オジサン』と呼べ」と言われた。その理由がふるっている。いずれ離婚して、自分は別の女性と結婚するだろう。新しい子どもも生まれるだろう。その時、お前たちが俺のことを「とうちゃん」と呼んだら、新しい家族に悪いからと言うのだ。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
夫婦喧嘩の絶えない家庭だった。
父(阪田寛夫)がサラリーマンを辞めて、著述業に専念するようになった頃から、彼らの衝突は激しくなったらしい。
結局、離婚することはなかったが、両親を「おじさん」「おばさん」と呼ぶ習慣は、阪田家にそのまま定着した。
昭和三十一年生まれの妹の本名「なつめ」は、『ザボンの花』から父が勝手にいただいた。作中の「なつめ」は、庄野さんの長女夏子さんがモデルの、活発で好もしい女の子の名前だ。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田寛夫は、庄野潤三を(あるいは庄野家を)崇拝していた。
それは、阪田家の中にあっても徹底された。
庄野ご夫妻と両親が揃って旅行に出かけることもあったが、帰宅すると、父はすぐ母にむかって「(庄野さんに)あんなことを言うな、こんなことはしたらアカン」と小言を言い、挙げ句「庄野さんの奥さんを見習え」と反省を促す。私や妹も、お会いしたこともないのに「夏子さんのようになれ」と言われ続けて育った。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田寛夫には、きっと庄野家への憧れがあったのだろう。
しかし、阪田家と庄野家とは、やはり違った。
「夫であり父であるオジサンが、そもそも庄野さんとは全く違うんだから。オジサンの家族の私たちが、理想像に近づくのは絶対に無理だよ」と言ってやればよかった。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
なにしろ、トラブルの絶えない家族である。
これは夫婦喧嘩のときの、母の十八番の台詞である。「わたしと娘たち、三人の人生をめちゃくちゃにされて、今までの××年返せ!」と母は父にものすごい剣幕で迫るのだ。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
娘(作者)との喧嘩も日常茶飯事で(「なんだ、くそじじい!」「なんだ、くそばばあ!」)、時には暴力沙汰にまで及ぶこともあった。
滅多になかったが、たまにエスカレートして叩いたり蹴ったりがあると、自分のことは棚に上げ、「娘に足蹴にされました」と、庄野さん始め友人や親戚に言いつけるのだ。私は、お目にかかるまで庄野さんを大変厳しい方だと思っていたが、庄野さんの方でも、私のことを酷い暴力娘と思われていたのではないだろうか。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田寛夫は、自己肯定感の低い人だったように思われる。
「おれはもうダメだ」が口癖だった。
泥酔して帰った翌日、特にそれが顕著に現れている。
そして始まるのだ。「おれはダメだ」が。二階の部屋に籠もって唸りだす。(略)聞こえよがしに「おれはダメだあ」とわめき、それが一週間も続くので隣の部屋にいる私はたまらない。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
妻と娘二人の女性三人に囲まれて、特別なプレッシャーがあったのだろうか。
それでも阪田寛夫は、自分を取り繕ったりしない。
彼は、むしろ自虐的なまでに「ダメな父親」を演じ続けている。
テレビを見ていて、好みのタイプの女優やアナウンサーが出てくると、嬉しさのあまり、「チビチャバ!」と叫び、画面の女性の胸のあたりをつついて、「アチャビ、〇子のオッパイ」と喜ぶ。ミニスカート姿など映ろうものなら、テレビに近寄ってわざわざブラウン管の下から見上げてみせる。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
大阪の人だったから、家族サービスのつもりだったのかもしれない(笑いを取るための)。
それでも、多感な少女だった作者にとって、不快な父親には違いなかった(「オッサン、不潔! 死んじゃえ!」)。
どう考えても、庄野家とは対照的な家族像である。
しかし、宝塚歌劇団の大スター(大浦みずき)は、この家庭から生まれたのだ。
一七歳で宝塚歌劇団に入った妹は、芸名「大浦みずき」も庄野さんにつけていただいた。最初の案では「浦みずき」だったが、夏子さんが「大浦」の方が語呂が良いと言われた。「大浦」もまた、庄野さんの小説『夕べの雲』の主人公一家の名字と同じになった。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田寛夫にとって、庄野潤三は「恩人」である。
大変お世話になった庄野さんだが、父が庄野さんのために奔走しだすと、「ああ、またオジサンの『庄野大明神』が始まったよ」と私たち家族はため息をつく。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田文学を築く基礎を与えてくれたのも、庄野潤三だった。
父の小説がちっとも物にならない時に、「どうして君は自分のことの代わりに、自分の身の廻りの人を書かないのか。読者として、君自身のことより興味がある」とアドバイスを受けた。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
第72回芥川賞受賞作『土の器』は、キリスト教の活動に貢献した母(阪田京)をモデルにした作品である。
父(阪田素夫)の一生を描いた『音楽入門』も、芥川賞候補となった。
いずれも身内の死後、その生涯や病の顛末を描いているので、伯父の一夫(父の兄で母の義兄)が評していわく、「おまえは屍肉にたかるハイエナのようなやっちゃな」と。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
阪田寛夫は、他者を描くことを得意とする作家だったと言っていい。
父の著作は、身内を始めとしてモデルになる人がいて、その人の評伝と小説の間、ノンフィクションとフィクションの間のような作品が大部分をしめる。そのどれもが、世間の基準からすると、少しはみ出したり、変わっているとみられるような人物が主人公である。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
一方で、自分を表現することは苦手としていた(サブタイトルに「照れやな詩人」とあるように)。
人前で話をするのが苦手なのは生涯変わらなかった。芥川賞をいただいた時のスピーチの拙さに、庄野潤三さんから「今後講演の依頼などが来ても躊躇せずに断りなさい」と忠告されたほどである。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
お酒と女性が好き、運動神経が鈍くて、交通事故を起こしたことで運転をやめ、外出準備のための時間調整も苦手(約束の時間になってから準備を始める)。
神経症的に「小便」のことを気にするなど、阪田寛夫は、実に特徴の多い「お父さん」だったらしい。
キャラが立ちすぎているというよりは、あまりにも設定が盛りだくさんで、もはや「属性過多」のレベルである。
「♪フランスで朝ごはんボンジュール~」の作者の意外な素顔が、そこにはあった。
うつ病と戦った詩人の晩年
晩年は、うつ病に悩まされていたという。
七〇代の後半になって、あまりにも自分を「ダメだ」と卑下しすぎたせいなのかどうか、とうとう父は鬱病になってしまった。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
認知症を発症した妻の介護が、心理的な負担になっていたことは間違いない。
脳梗塞を発症後、妻の鬱傾向が際立ってきた。
「もう私アカンわ。こんなになるんなら生きていてもしゃあない」「電車に飛び込んで死んだ方がマシ」と言う。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
そんな妻を、阪田寛夫は、誠実に介護し続けた。
体調に変化が見られだしたのは、エッセイ集『受けたもの伝えたいもの』を出版した、2003年(平成15年)頃だった。
実家に着いて玄関に入った途端、父が現れ口に人差し指を立てる。「しっ静かに。大きな声を出すなよ」(略)「盗聴されとるんや」ひそひそ声で続ける。「前のマンションの二階に警察がおって見張られてる」(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
警察に逮捕されるかもしれないという「罪業妄想」が現れ始めていた。
経済的な不安も、彼を悩ませた。
昔の浮気相手から金を寄こせと言われているが、オバサンの介護や入院費でもうお金がない。おれはもう仕事ができないし、お前たち家族も含めて(何故か我が家の面倒まで見てくれるらしい)六人が路頭に迷うと。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
うつ病の症状のひとつ「貧困妄想」である。
さらに、若いころから「がんノイローゼ」気味だった彼は、高額のガン保険に加入し、いくつもの病院を転々として、がんの検査を受け続けた。
最後に肺ガンの検査を受けようとしたK病院で、検査前に怖くなってパニックを起し、担当医師にお疲れのようですからと精神科の受診を勧められた。身体の異常を訴えるのを心気妄想というのだそう。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
精神科に通院し始めても、うつ症状は重くなっていく。
妻の介護で訪れるヘルパーさんたちにも理不尽なことを言うようになり、「早く入院させた方がいい」と訴えられた。
入院中は電気ショック療法などの治療を受け、うつ症状は少しずつ改善に向かっていたという。
2004年(平成16年)に退院するが、病状はすぐに悪化した。
自分の居場所がない。所詮ここは啓の家で、おれはよそものやと言い出した。息子たちにまで見張られているような気がするという。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
その頃には、強い自殺願望も現れていた。
そうこうしている内に、父は次第に食べることを拒否し始め、とうとう動くことも出来なくなるほど弱り、点滴につながれる。(略)身体が弱ったことで内科の扱いになり、そのまま居続けて亡くなった。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
2005年(平成17年)3月22日、阪田寛夫は79年間の人生を終えた。
死因は肺炎だが、ほとんど時間をかけた自殺のようなものだったのではないかと、著者は推測している。
小康状態になった時期もあるが、結局鬱病は治ることはなく、次第に食事を摂らなくなり、時には点滴すら拒否し、最後は肺炎を起こして亡くなった。緩慢な自殺であったと思う。(内藤啓子「枕詞はサッちゃん」)
死後、2005年(平成17年)5月『群像』に「遺稿」が発表された。
見えるのは内田百閒先生の闇の土手ではなく
小沼丹さんの遺作「馬画帖」の馬の瞳です
本名を救(はじめ)という小沼さんのお父さんは牧師さん、
下町のセツルメントの館長でもあり、絵が上手
集ってくる貧しい家の子供たちに絵を描いてみせた
私小説風な作家に分類されている小沼さんの作品に
そんな話が一切でてこないのがふしぎでした。
(阪田寛夫「鬱の髄から天井みれば」)
『馬画帖』は、入院中の小沼丹が描いた馬のスケッチ画を、死後に遺族がまとめた私家版の画集である(遺稿集)。
入手困難だが、庄野潤三の妻(庄野千壽子)の書簡集『誕生日のアップルパイ』に、『馬画帖』から引用された小沼丹の馬の絵が掲載されている。
「遺稿」というタイトルの詩の原稿を、阪田寛夫は具合の悪くなり始めた2003年(平成15年)10月に『群像』編集部へ送っていたという。
私はもはや言葉を失い文章も書けませんが、
「馬画帖」の馬の瞳を思い描くことはできます
小沼丹さんありがとうございました
(阪田寛夫「鬱の髄から天井みれば」)
「遺稿(鬱の髄から天井みれば)」は、講談社文芸文庫『うるわしきあさも(阪田寛夫短篇集)』に収録された。
本書『枕詞はサっちゃん』の帯文は、作者の幼なじみでもあるエッセイスト(阿川佐和子)が寄せている。
穏やかそうにみえた阪田寛夫という作家の娘もまた、ずいぶんひどい目に遭っていたか……。そう知って喜んで笑い転げて、そして涙が止まらない。(阿川佐和子『枕詞はサッちゃん』帯文)
阿川佐和子の肩書には「文士の子ども被害者の会仲間」とある。
かわいらしいイラストの表紙に包まれた、これはヘヴィな暴露本だった。
書かずにはいられないものが、阪田家にはあったのかもしれない。
書名:枕詞はサッちゃん─照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生
著者:内藤啓子
発行:2017/11/30
出版社:新潮社
