古いモノを集めた、その最初が、古いビー玉だった。
別に、古いビー玉が好きだったわけではない。
古いモノを扱う、そのお店で、僕はたまたま古いビー玉と巡り合ったのだ。
なぜ古いビー玉を集めるのか?
新築マンションへの引っ越しが決まっていた僕は、部屋に何かインテリア的なものを置きたいと考えていた。
コンセプトは「ノスタルジア」で、昭和モダンな趣きの感じられる落ち着いた部屋を造りたい。
照明とかソファとか食器棚とか蓄音機とか、大きな問題はいろいろとあったけれど、僕の部屋作りは小物集めから始まった。
最初に注目したものは、ガラスコップである。
何かの雑誌で見かけた「明治時代のガラスコップ」というのに惹かれて、僕は、早速、明治時代のガラスコップを揃えることにした。
それは、グーグル検索に「札幌 明治時代 ガラスコップ」と入れて検索すれば、個人の感想が書かれたブログがヒットするという、のどかな時代だった(あるいは、当時はgoo検索だったかもしれない)。
使えない企業サイトばかりがヒットする現代では、グーグル検索で個人の感想を入手することは、ほぼ不可能だ。
最初にヒットしたページには、山鼻にあるアンティーク・ショップ「K」で購入したという、「明治時代のガラスコップ」の写真が掲載されていた。
今となっては、誰の、何というサイトだったかさえ分からないが、このサイトは、僕のアンティーク入門に、大きな勇気を与えてくれた、重要な個人サイトだったと、今でも思っている。
大雪の降った年末に、僕は、山鼻にある「K」まで出かけた。
こじんまりとしたレストランのように清潔に整えられた「K」の店内は、昭和30年代の小物雑貨を中心に、多くの商品で埋め尽くされていた。
昭和初期の電傘を吊るした店内は薄暗く、僕の想像とは違って、ひどく若い女の子がひとり、店番をしていた。
「この店では、オーナーの集めたコレクションを販売しているのです」と、彼女は言った。
大雪の街は、それでなくとも、ひっそりと静まり返っている。
BGMのない静かな店内に、囁くような声が聞こえた。
次に「K」を訪れたとき、僕はオーナーと初めての挨拶を交わし、古い金魚鉢の中に入っていたビー玉を、まとめて買った。
そんなモノを買う人が現れるとは、オーナーも予想していなかったらしい。
ビー玉は、あくまで金魚鉢の添え物だったのだから。
部屋でゆっくりとビー玉を観察した僕は、それから、少しずつ、古いビー玉を集め始めた。
骨董屋や骨董市でビー玉を見つけるたび、少しずつ買い集めていったのである。
ビー玉の製造年代を特定する方法
古いビー玉の魅力は、ひとつひとつに個性がある、ということに尽きる。
正直に言って、古いビー玉の製造年代を特定することは困難だ。
夏目漱石『明暗』(1916年)の中に、ビー玉が登場している。
彼の馳け出す時には、隠袋(ポッケット)の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。「今日学校でこんなに勝っちゃった」彼は隠袋の中へ手をぐっと挿し込んで掌いっぱいにそのビー玉を載せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸しるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章ててそれを追いかけた。(夏目漱石『明暗』)
1916年(大正5年)、ビー玉は、普通に少年たちの遊び道具として定着していたらしい。
以来、昭和40年代まで、ビー玉は、少年たちの大切な宝物であり続けた。
その遊び道具の時代を特定するというのは、そもそも無理な相談なのだ。
もちろん、ビー玉の製造年代を推測する方法なら、いくつかある。
例えば、ガラス玉の中に、不純物の混じっているものは、比較的、古い時代に造られたものと考えていい。
写真右側のビー玉には、黒いゴミのようなものが、複数含まれている。
近年のビー玉に、ゴミが混在することはないだろうから、不純物の多いビー玉は、あるいは、戦後間もない時代に造られたものかもしれない。
写真左側のビー玉には、黒いゴミの他に、大きな気泡が入っている。
ビー玉には、小さな気泡が無数に含まれているものだが、このように大きな気泡が入ったものは、もしかすると、失敗作だったのかもしれない。
こうした低品質のビー玉を眺めていると、ラムネ瓶に使われたものが「A玉(エー玉)」、品質が悪くて子どもの遊びに回されたものが「B玉(ビー玉)」という俗説も、なるほどと思えてしまう。
しかしながら、ビー玉の語源は「ビードロ玉」である。
古い文学作品の中にも「ビードロ玉」という言葉は、あちこちに使われている。
モスクワじゅうが濡れたビードロ玉だ。きのうひどく寒かった。並木道の雪が再び凍って子供連がスキーをかつぎ出した。ところへ今夜は零下五度の春の雨が盛にふってる。どこもかしこもつるつるである。(宮本百合子「三月八日は女の日だ」)
宮本百合子「三月八日は女の日だ」は、1931年(昭和6年)1月『改造』に発表された作品で、真冬のモスクワが「濡れたビードロ」に喩えられている。
ビードロとは「ガラス」を意味するポルトガル語で、特に、長崎地方で広く使われていたらしい。
ガラス球を意味する「ビー玉」は、「ビードロ玉」が短縮された言葉というのが、現在の定説となっており、これ以上に、複雑な由来を考える必要もないくらい、シンプルで分かりやすいネーミングである。
そもそも、少年たちにとって宝物にも等しいビー玉が「B級品の玉」では、あまりに夢がない。
「ビードロの玉」だからこそ、ビー玉は、少年たちにとって財宝にも等しい存在だったのだ。
もっとも、大人になると、完全なものよりも不完全なものに、心を惹かれてしまう。
黒い不純物が漂うビー玉には、完成された現代のビー玉にはない、人間臭さがある。
ガラス玉の色が、ひとつひとつ異なっているところも、ビー玉の個性と言っていい。
写真左のビー玉は、小さな不純物が多く含まれているうえ、上部にガラス皺が見える。
写真右側のビー玉も、黒い塵のような不純物を多く含んだもの。
不純物が入っていなくても、内部が均一ではないビー玉も多い。
特に、黒っぽい茶色の筋が、ビー玉の内部に入ることは、古いビー玉では珍しくなかったようだ。
写真左側のビー玉には、気泡がほとんどない代わりに、複数の茶筋が、漂うように入っている。
一方で右側のビー玉には不均一な無数の気泡が入ったうえで、まるでオーロラのような茶色の幕が、一部に広がっている。
これらのビー玉は、まとめてしまうと、ひとつひとつの個性が埋もれてしまうが、ひとひとつと向かい合うことで、初めて、それぞれの個性というものを見つけることができる(まるで学校みたいだ)。
写真右のビー玉には、不均一な気泡が無数に含まれていて、まるで炭酸飲料を見ているかのようだ。
内部の水分が動き出しそうな錯覚を覚えるが、普通のビー玉だから、もちろん動くことはない。
いずれも、ガラス球本体の色は透明に近く、茶色の幕が美しい。
個性の違いは、本体の色にも表れている。
左のビー玉は青系で、右のビー玉はグリーン系。
古いビー玉を集めていると、ほとんどはグリーン系で、ブルー系には、比較的整ったものが多い印象を受ける。
美しいブルー系のビー玉には、気泡も不純物も少ない。
珍しいところでは、レッド系のビー玉というのもある。
やはり、不純物は少ないが、赤い幕が、オーロラのように漂っているのは、ひとつの見どころだろう。
謎の魅力を放つのが、ブラック系のビー玉。
まとめてしまうと、まっ黒に見えるのだが、光に透かせて見ると、濃いブラウン色をしていることが分かる。
ほとんど光を通さないブラック系のビー玉は、資材に不足していた戦後間もない時代に造られた「黒い牛乳瓶」に共通する色を持っているようにも思われる。
膨大なビー玉コレクションの中でも、数少ないタイプのレアキャラだ。
高度経済成長期に入ると、技術の進化に伴い、ビー玉にも工夫が加えられていく。
透明なガラス球の中に、色とりどりのリボンを仕込んだビー玉は、1960年代から1970年代にかけて活躍したもの。
カラー文化の波が、ビー玉の世界にも押し寄せていたのだ。
写真左のビー玉には、貝がらのようなものが含まれている。
「ミルキー」とも呼ばれるミルクガラスのビー玉は珍しくないが、古い時代のモノには、練り込んだようなガラス皺を見つけることができる。
なんとなく、ほっとするビー玉だ。
ブラックライトで照射すると妖しく蛍光するウランガラスのビー玉は外国製。
参考のために入手したが、ウランガラス製という以外には、これといった特徴がない。
ビー玉は、やはり、古い日本製のものに限るらしい。
ビー玉は、少年たちにとって、いつでも身近な存在だったから、古いモノと言っても、高い値段が付くことはない。
そもそも、年代が特定できないから、高い値段で取引する意味がないのだ。
それでも、ひとつひとつに個性のある古いビー玉は、心の癒しである。
もう十分に集めすぎて、これ以上集めようとは思わないけれど(キリがないから)、ビー玉偏愛だけは止められそうにない。
もしかすると、ビー玉は、少年の日の心を失っていないことを確認する、おとなのイノセントの象徴だったのではないだろうか。