庄野潤三は大の鰻好きだった。
大阪グランドホテル「竹葉亭」のうなぎ会席や、地元「益膳」のうな重など、庄野文学には、随所に鰻が登場する。
なかでも印象的なのは、小田原の老舗「柏又」のうなぎである。
小田原「柏又」のうなぎと庄野文学
庄野さんに「柏又」を教えてくれたのは、下曽我在住の作家(尾崎一雄)である。
1964年(昭和39年)3月16日、第一ホテルで開かれた「巌谷大四を励ます会」で尾崎一雄と会った庄野さんは、4月2日、下曽我にある尾崎一雄邸を訪ねた。
自宅でゆっくりと話し込んだ後、二人は電車に乗って小田原へ向かう。
「柏又」という鰻屋へ案内して下さるつもりでいたのだが、休みで店が閉まっていた。東京からわざわざ食べに来る人もいる店と聞くと、身の不運を歎かずにはいられない。(庄野潤三「下曾我へ行った日のこと」)
初めての「柏又」を休みで逃した庄野さんは、この年の秋、家族で再び小田原を訪れた。
その年の十一月半ばに私たちは家族全部で小田原へ出かけた。城跡の天守閣へ上ってまわりの景色を眺め、あとで動物園の狸、狐、かわうそなどを見て、それから「柏又」へ行き、二階の部屋を予約しておいて、海岸へ出、広い砂浜で日の暮れまで石を投げたりして遊び、約束した時間に「柏又」へ戻った。女中さんにいろいろ相談して註文をしたのだが、うな丼の前に出た、マヨネーズのかかったとりのささ身を詰めた「トマト」もなかなかうまかった。(庄野潤三「下曾我へ行った日のこと」)
この年、庄野さんは43歳。
長女(夏子)は高校2年生、長男(龍也)は中学1年生、次男(和也)は小学3年生だった(随筆中に「その時、高校三年であった長女」とあるのは記憶違い)。
庄野家の「柏又体験」を綴った随筆「下曾我へ行った日のこと」は、随筆集「ぎぼしの花」に収録されている。
このときの家族少旅行は、その後、何度も庄野文学の中で語られた。
小田原は好きな町で、この長女が高校二年のころにみんなで出かけた。城跡の新しい天守閣に上って陳列してあるものを見物したり海岸で遊んだりしたあと、古い鰻屋さんの二階で食事をして帰った。(庄野潤三「神奈川と私」)
随筆集『誕生日のラムケーキ』に収録されている「神奈川と私」にも、このときの柏又体験に触れられている(「長女が高校二年のころに」と正確な記述になった)。
次に、小田原「柏又」が登場するのは、長女(夏子)の一家が、南足柄市へ引っ越した後である。
「ウーマンズ・ミーティング」の第一回が梅雨のはれ間の眩い日差しの小田原で開かれた日(この時は長女が高校二年の時に家族全部で夕食を食べに行ったことのあるお濠の近くの古い鰻屋で鰻重を食べてから三人で動物園を散歩した)のあとで寄越した手紙の後の方に、高らかなファンファーレを示す擬態語とともに大ニュースだよと書いてある。(庄野潤三「インド綿の服」)
「ウーマンズ・ミーティング」は、庄野夫人・長女(夏子)・長男の嫁(あつ子)の女性陣が集まる食事会のことで、夏子の都合上、小田原方面を会場とすることが多かった(この時点で、次男・和也はまだ結婚していないので、和也の嫁・ミサヲちゃんも、まだ登場していない)。
1982年(昭和57年)1月、庄野夫妻は、小田原で長女と食事をしている。
一月下旬のよく晴れた日であった。箱根芦の湯に妻と二人で一泊した帰りに小田原で長女を呼び出し、古い鰻屋へ上って昼を一緒に食べ、あとは城跡の公園を歩いてベンチで雑談をした。(庄野潤三「楽しき農婦」)
食事の内容は、長女の手紙に詳しい。
「タクシーで乗りつけた柏又のお昼ご飯の豪華でおいしかったこと。冷たい「とまと」サラダと蒲焼と御飯とお吸物とお漬物と塩辛がぺこぺこだったおなかにすいこまれるようで、あのおいしさは忘れられません」(庄野潤三「楽しき農婦」)
あいにく、庄野さんの方は、あまり空腹ではなかったらしい。
こちらは旅館の朝飯を食べてからそんなに時間がたっていない。小田原で長女を呼び出して鰻屋へ来ると分っていれば少し控えるのだったと悔んだが、いまからそんなことをいっても遅い。突出しの塩辛も(ビールの小瓶を二本飲んだ)とりのサラダをたっぷり詰めた「とまと」も殆ど手を附けずに長女にまわしてやった。(庄野潤三「楽しき農婦」)
この日の「うなぎランチ」も、よほど楽しいものだったらしい。
一族全員で行こうねと話したという古い鰻屋は私たちがいまの長女の一家と丁度同じように多摩丘陵のひとつに家を建てて越して来た年から数えて三年目、空気の澄んだ秋晴れの祭日にみんなで小田原へ出かけた折に食事をした思い出のある店だ。あの時、高校二年であった長女が小田原に近い南足柄市に住むようになったのだから、不思議な縁というほかない。(庄野潤三「楽しき農婦」)
「インド綿の服」と「楽しき農婦」は、連作短編集『インド綿の服』に収録されている。
「柏又」のうなぎは、長女の宅急便でも活躍した。
南足柄の長女から宅急便が届く。父の日のプレゼントとして小田原の柏又の鰻の白焼の折詰が入っていた。(略)小田原の柏又へは、むかし、家族みんなで蒲焼を食べに行ったことがある。お堀ばたに近い、古い、いい店。うれしい。(庄野潤三「庭のつるばら」)
『庭のつるばら』(1999)は、夫婦の晩年シリーズの作品のひとつである。
1997年(平成9年)6月の父の日に、長女は「柏又」のうなぎをプレゼントしたのだろう。
https://gentle-land.com/niwa-no-tsurubara/
夫婦の晩年を描いたシリーズでは『庭の小さなばら』(2003)にも、「柏又」は登場する。
夕方、図書室のソファーでよこになっていたら、足柄の長女から電話かかる。小田原まで私たちに出て来てもらって、うなぎの柏又で一しょにお昼を食べたいという。ご招待の電話である。(庄野潤三「庭の小さなばら」)
電話がかかってきたのは、2000年(平成12年)12月23日のこと。
家族全員で小旅行に来てから、38年の時が経っている。
近所を長女の案内で一まわりしたあと、四時すぎに長女の車で出発、小田原へ。うなぎの店の柏又は、これまでに何度か来たことのある、なじみの料理屋だ。むかし、一度、生田から子供らみんな連れてロマンスカーで小田原まで出かけ、柏又でうなぎを食べて帰ったことがある。(庄野潤三「庭の小さなばら」)
小田原「柏又」は、庄野家の家族アルバムの中に、しっかりと貼りつけられていたらしい。
はじめに「トマト」を先ず食べる。トマトの中にとりのささみのマリネしたのが詰まっていて、おいしい。ビールを一本飲み、お酒を貰う。最後にうな重が出る。これで満足する。(庄野潤三「庭の小さなばら」)
この年、庄野さんは79歳。
きっと、うなぎは生涯の好物だったんだろうなあ。
梅雨空の小田原文学散歩
そんな庄野家思い出の鰻屋「柏又」で食事をするため小田原を訪ねたのは、2024年(令和6年)7月のこと。
北村透谷の墓参りをした後で、うなぎランチという計画を立て、ロマンスカーに乗って小田原へ向かう。
あいにくの梅雨空だったけれど、なんとか傘を差さずに小田原文学散歩を楽しむことができそうだ。
まずは、北村透谷のお墓へと向かう。
島崎藤村『春』の読者にとって、北村透谷は忘れがたい文学者だ(透谷は「青木駿一」として登場)。
北村透谷の墓参りの後で、北原白秋の童謡館を見学。
庄野潤三『ザボンの花』は、北原白秋の童謡「南の風の」が素材となっている(♪南の風の吹くころは朱欒(ザボン)の花がにおいます~)。
「南の風の」は、最近では、聴くことさえ難しい作品になってしまったらしい。
せっかくだから「童謡の散歩道」を全部歩いてみたかったけれど、そこまで時間に余裕はない。
思ったよりも坂が多くて、徒歩移動にも時間がかかる。
小田原は、ゆっくりと歩いてみたい街だ。
予約していた時間に「柏又」へ到着。
こちらは庄野文学の読者だから、注文は鰻重にトマトサラダと決まっている(それとビール)。
鳥のささ身が入った「トマトサラダ」は、さすがに食べ応えがある(ビールの肴にぴったり)。
美味しいけれど、食べ方が難しい(笑)
お目当ては、もちろん、主役の鰻重だ。
庄野さんじゃないけれど、うなぎの老舗と聞けば行ってみたくなる鰻好き。
庄野文学に共感する理由のいくつかは「うなぎ」にあるかもしれない(まさか)。
さすがに老舗、洗練された鰻重だから、いくらでも食べられそうだ。
長女(夏子)の手紙にもあったとおり、お吸物もお漬物も、みんな美味しい。
これは何度でもリピートしたくなる鰻だと思った。
人気の店らしいが、時間が早かったせいか、落ち着いて食事をすることができた(入れ違いに、お年寄りを連れた家族連れがやって来た)。
地元の常連客が多い店は、やはり、良い店だと思う。
食後、庄野さんも泳いだという「御幸の浜海水浴場」まで歩いて、一休み。
こんな梅雨空でも、海に入って遊んでいる若者たちがいるからすごい。
次は、海水浴シーズンに、ゆっくりと来てみたいな。
もちろん、「柏又」のうなぎとセットで。