小田急小田原線生田駅を北口から出て県道3号線まで行くと、左手に「中国料理 味良」の看板が見える。
ここが庄野潤三の小説に出てくる「中国料理 味善」と同じ店だろうか。
窓際のテーブル席に座って、タンメンを注文した。
「中国料理 味良」のタンメンを食べる
庄野潤三の長編小説『せきれい』(1998)にも、「中国料理 味善」が登場している。
帰りはいつもの通り、生田で中国料理の味善(みよし)に入る。だるま市の帰りは、ここのたんめんを食べる決まりになっている。窓ぎわの日のさし込むテーブルでたんめんを注文する。ここのたんめんを食べたくてだるま市へ行くようなものだ。キャベツ、もやし、にんじんなどたっぷり入っていて、とんこつスープが格別おいしい。(庄野潤三「せきれい」)
れんげで掬ってスープを飲んだ庄野さんに、妻は「お父さん、スープ沢山飲みましたね」と声をかける。
本当は全部飲み干したいところを我慢して、少し残したものらしい。
日曜日の昼時、店内は家族連れで賑わっていた。
老夫婦もいれば、宴会をしているお年寄りのグループもある。
やがて、運ばれてきたタンメンを、庄野さんに習ってれんげで掬ってスープを飲む。
野菜の旨味がたっぷりと感じられる美味しいスープだ。
「野菜讃歌」なんていうエッセイを書くくらい野菜好きだった庄野さんには、たまらない御馳走だっただろう。
野菜がたっぷりと乗っかっていると思ったら、麺もたっぷりと入っている。
この「中国料理 味良」のタンメンは、昭和40年代の小説から既に登場していた。
長編小説『野鴨』(1973)に出てきたのが、始まりだったかもしれない。
駅の近くの中華そばの店へ入って、湯麺を食べた。赤ん坊のいる夫婦でしている店で、そこの湯麺がキャベツももやしもたっぷり入っていて、汁は丼のふちにすれすれになるくらいで、味がよかった。(庄野潤三「野鴨」)
夫婦は「これからだるま市の帰りはここへ寄って昼食ということにしよう」と話し合い、以来、だるま市の帰りのタンメンは、庄野夫妻の年中行事となる。
長年続いている店も凄いが、毎年の習慣を実行して、それを小説に書き続けた庄野さんも凄い。
いや、一番凄いのは、何十年も食べ続けたいと思わせる、この店のタンメンなのかもしれないが。
庄野潤三の「山の上の家」を訪ねる
庄野文学で、多くの作品の舞台として描かれてきた「山の上の家」は、この「中国料理 味良」とは、生田駅を挟んで反対側の道を登ったところにある。
小さな橋を渡って川を越えてから石段を登り、西三田団地とオーケー生田店との間を通る坂道を歩いていく。
「山の上の家」という表現は、決してオーバーな表現ではない。
短篇小説「秋風と二人の男」(1965、『丘の明り』所収)で、上着を忘れた主人公が、家へ戻ることを躊躇して、上着を諦める場面が出てくる。
そうして、ここは忘れ物に気がついたからと云って、走って取りに戻れるところではなかった。あの崖を駆け上ることは無理だ。ただ下から上まで駆け上るだけなら、或は出来るかも知れない。それ一回きりであるなら。(庄野潤三「秋風と二人の男」)
しかし、忘れ物を取って、再び駅までの遠い道を出かけていくのは容易ではない。
「丘の天辺に住んでいると、こういう時に不自由であった」という主人公の気持ちも、なるほど、納得の坂道である。
広い団地を通り越して、長沢浄水場の横を過ぎ、ジグザグの急な崖(通称「Z坂」)の麓まで来ると、「山の上の家」は、もうあと少しだ。
とても駆け上がる気にはなれないZ坂をゆっくりと登って、山の天辺までたどり着くと、意外に住宅がいくつも並んでいる。
こういう環境に住みたいと考えるのは、庄野さんばかりではないらしい。
この山の上に一軒の家が建てられたのは、1961年(昭和36年)4月のこと。
当時のことは、代表作『夕べの雲』(1965)に詳しいが、山を切り開いて、よくぞこんなところに住宅を構えたものだと、誰しも考えるに違いない。
駅から二十分と大浦はいうが、それは彼の体力と健康からいうことで、細君にとっては二十分なんていうものではない。「行けども行けども、まだ現れない」というのが、彼女の実感なのである。(庄野潤三「夕べの雲」)
子どもたちは、この家から学校へ通い、庄野さんは、この家を舞台に多くの作品を書いた。
今や、庄野潤三の自邸、通称「山の上の家」は、庄野文学の愛読者にとって聖地のような存在である。
本当なら、夕方までここに佇んで、浄水場の空へ浮かぶ「夕べの雲」を見てみたいと思ったけれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
来た道を引き返すようにして、坂道をゆっくりと降りた。
いったい、どれだけ多くの作品に、この坂道は描かれてきたことだろう?
まるで、自分の思い出がそこにあるかのように、僕はその坂を懐かしく感じていた。