村上春樹『1Q84』に、「歌志内市」という地名が登場している。
いくつかの可能性が考えられた。
(1) 彼女は北海道の歌志内市郊外に住んでいる
(2) 彼女は結婚して姓を「伊藤」に変えた
(3) 彼女はプライバシーを護るために電話帳に名前を出さない
(4) 彼女は二年前の春に悪性インフルエンザで死んだ
(村上春樹「1Q84 BOOK1」)
主人公(天吾)は、小学校時代に同級生だった女子(青豆)の名前を電話帳で探すが、彼女の名前を見つけることができない。
そのとき、彼は、青豆の名前が見つからない理由のひとつとして、「(1) 彼女は北海道の歌志内市郊外に住んでいる」を思いつく。
もちろん、歌志内市郊外に住んでいたって、電話帳に名前くらいは載るだろうが、この場面で「歌志内市郊外」は、地球上に存在するあらゆる場所の中で、最大限の「辺境の地」を象徴する言葉として例示されているにすぎない。
それよりも気になるのが、「歌志内市郊外」という言葉の使い方である。
果たして、辺境の地「歌志内市」に「郊外」などというものが存在しているのだろうか。
というか、むしろ、歌志内市に「市街」があるかどうかということの方が、問題になるかもしれない。
歌志内市は、地域全体がまるで「郊外」のような町だからだ。
国木田独歩や葛西善三が描いた明治の歌志内
北海道の空知管内にある歌志内市は、全国最小の人口を有する「市」として知られている(だからこそ『1Q84』にも登場しているのだろう)。
かつて、石炭で栄えた「旧産炭地域」のひとつであり、その歴史は意外と古い。
汽車の歌志内の渓谷に着いた時は、雨全く止みて日はまさに暮れんとする時で、余は宿るべき家のあてもなく停車場を出ると、さすがに幾千の鉱夫を養い、幾百の人家の狭き渓に簇集している場所だけありて、宿引なるものが二三人待ち受けていた。(国木田独歩「空知川の岸辺」)
北海道移住を目論む国木田独歩が、開拓地を下見するために空知管内を訪れた際、滝川にある宿屋「三浦屋」(現在のホテル三浦華園)の助言でやってきたのが歌志内だった。
当時、赤平市茂尻(もじり)あたりの空知河畔は開拓途上で、歌志内から赤平へ向かうにも、山道を越えなければならない。
独歩は、宿屋の少年に案内されて「空知川の岸辺」を訪れるのだが、このとき、産炭地の歌志内は、既に大変な賑わいぶりだったらしい。
余は進んでこの長屋小路に入った。雨上がりの路はぬかるみ、水溜まりには火影うつる。家は離れて見しよりも更に哀れな建てざまにて、新開地だけにただ軒先障子などの白木の夜目にも生々しく見ゆるばかり、床低く屋根低く、立てし障子は地より直ちに軒に至るかと思われ、既に歪みて隙間よりは鉤りランプの笠など見ゆ。
肌脱ぎの荒くれ男の影鬼の如く映れるあり、乱髪の酌婦の頭の夜叉の如く映るかと思えば、床も落つると思わるる音がして、ドッとばかり笑声の起る家もあり。
「飲めよ」、「歌えよ」、「殺すぞ」、「撲るぞ」、哄笑、激語、悪罵、歓呼、叱咤、艶ある小節の歌の文句の腸を断つばかりなる、三絃の調子の嗚咽が如き忽ちにして暴風、忽ちにして春雨、見来れば、歓楽の中に殺気をこめ、殺気の中に血涙をふくむ、泣くは笑うのか、笑うのは泣くのか、怒りは歌か、歌は怒か、ああ儚き人生の流よ!
数年前までは熊眠り狼住みし此渓間に流れ落ちて、ここに澱み、ここに激し、ここに沈み、月影冷やかにこれを照している。(国木田独歩「空知川の岸辺」)
国木田独歩が歌志内を訪れたのは、1895年(明治28年)9月25日で、「数年前までは熊眠り狼住みし此渓間」は「何ぞ知らん鉱夫どもが深山幽谷の一隅に求め得し歓楽境」へと変貌していた。
『空知川の岸辺』は、開拓初期の歌志内を描いた貴重な記録となっている。
国木田独歩より少し遅れて、北海道放浪中の葛西善三も歌志内を訪れた。
歌志内から雪の山越えをして、また吹雪の中を歌志内まで帰ってきた。毛布も外套も、東京の塩鮭のように凍えてしまい、積った雪が股を越えた場合のことをもう一度想像してくれたまえ。私は未だ妻を捨てての十九歳の少年と云っていい年だった。(葛西善三「雪をんな(二)」)
1903年(明治36年から)約2年間に渡って北海道内を放浪したという葛西善三の足跡は、決してはっきりしていないが、次女(ゆき)の名前は、本作品「雪をんな」に由来しているらしい。
三浦綾子や高橋揆一郎が描いた戦前戦後の歌志内
旭川出身の作家(三浦綾子)も、教員時代の一時期を歌志内で過ごしている。
昭和十四年の三月も末近いある日、旭川と札幌の中ほどにある砂川駅で、わたしたち一行は歌志内線に乗りかえた。一行というのは、わたしと同じく神威小学校に勤めることになった一期上の山田克子、佐々木まさ、宮原冴子、松岡英子、そしてわたしの父と、わたしの六人のことである。(三浦綾子「石ころのうた」)
神威小学校時代の経験は、作家・三浦綾子に大きな影響を与えた。
三浦文学晩年の長篇『銃口』の主人公(北森竜太)が勤める炭鉱町(幌志内)は、歌志内がモデルとなっている。
一九三七年(昭和十二年)九月五日、この日竜太は、その赴任地、空知郡幌志内に着いた。九月初旬と思えぬ日射しの暑い日曜日であった。(三浦綾子「銃口」)
幌志内の小学校へ赴任した竜太の教員生活は、作者(三浦綾子)自身の体験を投影したものだっただろう。
『銃口』は、戦時中の歌志内市における学校教育の様子を詳細に描いた作品だ。
わたしは、車窓に見えてきた、自分の赴任する炭鉱の街に目を注いだ。山間にできたこの街は、一本の幹線道路が真ん中に走り、その道路から左右の山腹に幾本もの枝道が這い上がっていた。山腹には、俗にハーモニカ長屋といわれる一棟五戸ほどの長屋が、整然と段状に並んでいた。(三浦綾子「石ころのうた」)
自伝『石ころのうた』にも、1937年(昭和12年)当時の歌志内の街が描かれている。
新任教師たちが暮らすのは、炭鉱の社宅だった。
今汽車から眺めてきた街を、一キロ半も戻って、住友歌志内鉱の社宅に、わたしたちはようやくたどりついた。この社宅は、学校が借り受けた建物で、長屋ではなく一戸建ての住友職員住宅だった。(三浦綾子「石ころのうた」)
戦前から戦後にかけて石炭需要が最盛期となったときが、歌志内という町の最盛期でもあった(昭和20年代、ピーク時の人口は40,000人を超えた)。
石炭会社の撤退とともに、歌志内は衰退の道を歩き始める。
倉本聰『昨日、悲別で』(1984)は、斜陽都市・歌志内を舞台にしたテレビドラマだ。
「去年の春まで悲別にいたんだ。北海道の砂川って町から南に入った炭坑町でね。昔はよかったけど今はもう駄目さ。炭鉱はつぶれる寸前だし、国鉄だってひどい赤字で、もうじきなくなるっていう噂がある」(倉本聰「昨日、悲別で」)
「旧上歌会館」を転用した「悲別ロマン座」は、現在も、歌志内市の上歌(かみうた)地区に残る。
砂川と歌志内をつなぐ歌志内線は、1988年(昭和63年)4月に全線廃止となった。
同じく倉本聰原作『北の国から』の主人公(黒板純)は、ガールフレンド(小沼シュウ)に会うため、富良野から砂川へと自動車を走らせる。
「滝里、野花南、上芦別、平岸、茂尻、歌志内、上砂川。富良野から上砂川への国道沿いの景色が、ぼくの頭をどんどん走っていった。あの道をぼくはシュウに会うためにこれから幾度となく通うのだろうか」(倉本聰「北の国から’98時代」)
「平岸(ひらぎし)」から「茂尻(もじり)」にかけては、国木田独歩も訪れた空知川の岸辺に建つ集落で、「茂尻」には、国木田独歩を記念する文学碑(国木田独歩曾遊地)を設置した「独歩苑(どっぽえん)」がある(住所は赤平市内だが、最寄りのバス停は「歌志内入口」)。
新任教師として赴任する三浦綾子も乗った「歌志内線」が廃止になったとき、記念式典には、歌志内出身の作家(高橋揆一郎)も参加した(と祖母が言っていた)。
父親菊五郎が妻子を引き連れてその終焉の地である北海道空知郡の炭鉱まち歌志内村に落ちついたのは昭和二年のことで、良作はその翌年に生まれた。歌志内は石狩平野の東北隅の山麓地帯にあって石炭以外にこれといった産業のないまちだ。(高橋揆一郎「友子」)
歌志内のことを知りたかったら、高橋揆一郎を読むに限る。
長篇『友子』は、炭鉱全盛期の歌志内を描いた、貴重な歌志内文学と言っていい。
復員した坑夫たちのほか炭鉱の食糧特配めあてに各地から人が流れ込んで、人手だけはあり余るほどだった。歌志内のヤマにも旧軍人から肉屋、植木職人、靴屋、経師屋に失業者……。あげ出すときりがない。昭和十年の国勢調査では村民三万三千人ほどだったのが、戦後の昭和二十三年には四万六千人にふくれあがった。(高橋揆一郎「友子」)
当時、歌志内駅前を中心に、上歌(かみうた)、神威(かむい)、文珠(もんじゅ)、西歌(にしうた)など、国鉄駅を中心として、いくつもの「市街」が形成されたが、一般に、市民が「市街」と呼ぶときは、歌志内駅前を指したらしい。
歌志内線の廃線後、市街は市街としての機能を失い、現在、歌志内は、街全体が郊外のようになっている。
むしろ、街全体が郊外であることが、歌志内という町にとってのアイデンティティと言っていい。
賑やかな都会に疲れたとき、人は、この静かなる町「歌志内」を訪れる。
そこは、村上春樹『1Q84』にも最高の辺境として登場する、現代の秘境だ。
画像は、道の駅「うたしない チロルの湯」(2024年8月撮影)。