1980年代を代表する小説家といえば、村上春樹さんですよね?
もちろん、村上春樹さんは1990年代以降も現在までずっと活躍し続けていますが、ボクの中ではやっぱり1980年代のイメージがとても強い作家です。
そして、小説以上にエッセイが面白い作家というのが、僕の中の村上春樹さんでもあります。
特に初期のエッセイは今読んでも楽しいし、一番最初のエッセイ集『村上朝日堂』なんて、本当にお勧めなんですよ。
ということで、今回は村上春樹さん初めてのエッセイ集『村上朝日堂』をご紹介したいと思います。
概要
『村上朝日堂』は、村上春樹さん最初のエッセイ集です。
あとがきには「これは僕にとってのはじめての雑文集のようなもの」「『日刊アルバイトニュース』に一年九か月にわたって連載したコラムを集成したものです」とあります。
日刊アルバイトニュースでの連載は「シティ・ウォーキン」というタイトルで、1982年(昭和57年)8月から1984年(昭和59年)5月まで続きました。
安西水丸さんとの共著となっているように、村上春樹さんの書いたコラムに、安西水丸さんの作成したイラストが挿し絵として付いています。
単行本は、1982年7月に若林出版企画から刊行され、1988年2月、新潮文庫に入りました。
目次・収録内容・読書感想・解説
『村上朝日堂』は、日刊アルバイトニュースに連載されたコラムを集成した、村上春樹さん初めてのエッセイ集です。
アルバイトについて
村上さんの学生時代、平均的なアルバイトの時給は、だいたい平均的な喫茶店と同じくらいでした(1960年代の終わりごろで150円くらい)。
一日半働けばLPレコードが一枚買えるくらいの金額でしたが、現在はコーヒー300円に対して、アルバイトの時給500円。
数字だけで見ると、この十年間に我々の暮しは楽になったみたいだけど、生活感覚からすると、そんな楽になったとは思えないと、村上さんは綴っています。
『ノルウェイの森』の主人公(ワタナベ君)も、レコード店でアルバイトしていました。ちなみに「ワタナベノボル」は安西水丸さんの本名です。
そば屋のビール
昭和56年の夏に都心から郊外に引越しをしていちばん困ったことは、昼間からぶらぶらしている人間がまったくいないこと。
年中ジーパンと運動靴で暮らしているとはいえ、もう32歳なのに大学生に間違われてしまうことも。
都心ではそんなことはなくて、青山通りを昼間散歩していると、イラストレーターの安西水丸さんには、度々出会ったそうです。
水丸さんの事務所は青山にありました。
三十年に一度
村上さんはヤクルトスワローズのファンなので、よく神宮球場へ行きます。
いちばん気持ちの良かったシーズンは1978年。
その頃、村上さんは神宮球場から歩いて五分というところに住んでいたので、毎日のように野球見物に通っていたそうです。
1978年、ヤクルトスワローズは球団創設29年目で初めて、リーグ優勝と日本一の座を獲得。監督は広岡達朗さんでした。
離婚について
最近どういうわけか、離婚した知り合いとばかり立て続けてに会って、久しぶりに会う相手だと話題にも困ったしまった、という話です。
「良かったね」とか「大変だったね」とか、適当な返事をできないのが離婚。
夏について
村上さんは夏が大好きで、太陽がガンガン照りつける夏の午後にショート・パンツ一枚でロックン・ロール聴きながらビール飲んでいると、ほんとに幸せだなあと思ってしまいます。
アーシュラ・K・ル=グィンのSF小説「辺境の惑星」は、それぞれの季節が15年ずつあるという話だけれど、こういう星で生まれるなら、やっぱり夏がいい。
フランク・シナトラの「セプテンバー・ソング」を聴いていると、心が暗くなっちゃうそうです。
そのせいかどうか、「風の歌を聴け」「午後の最後の芝生」など、村上さんの初期の作品には、夏を舞台にした名作が多いです。
千倉について
村上さんは神戸育ちなので、牛肉と海が大好きで、海の見えるレストランでステーキを食べていたりすると、すごく幸せ。
東京には海がないし(あれはあるうちに入らない)、湘南や横浜の海は少しソフィスティケートされすぎている。
村上さんが最近気に入っているのは南房総で、特に千倉が良いそうです(安西水丸さんの故郷)。
フェリー・ボート
前回から千倉の話の続きで、千倉には、気の利いた喫茶店とかレストランとかまるでないし、白浜の寿司屋も別にうまくない(不思議だ)。
白浜から館山までバスに乗って、館山から浜金谷まで国鉄に乗って、浜金谷からフェリー・ボートに乗ると、東京湾を横切って三浦半島久里浜。
千葉県から神奈川へ直接行くというのは、すごく奇妙なものだそうです。
文章の書き方
文章を書くコツは文章を書かないこと—書きすぎないことだそうです。
どんな風に書くかということは、どんな風に生きるかというのと、大体同じ。
どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩するか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。
「先のこと」について
あたりまえのことだけど、先のことなんかわからない。
いちばんヤバいのが専門家の話で、その次にヤバいのがかっこいいキャッチフレーズ。
小説も同じで、新しい小説とは何かなんてことを考える前に、まず良い小説を書くこと、それがすべてだということです。
タクシー・ドライバー
青山でタクシーに乗ったら、イランの民俗音楽が流れていました。
日本関係では沖縄の音楽とお経しかかけないそうです。
なかなか東京もワイルドになってきたなあ。
報酬について
二十代前半から八年くらいジャズ喫茶を経営してきて、絶対に雇ってはいけないタイプのひとつが「ただでもいいから働かせてください」というタイプ。
同じような意味で、村上さんは原稿料の入ってこない原稿は絶対に書きません。
金にうるさいって言われそうだけど、そういうドンブリ勘定的な体質が、日本の文壇をスポイルしてきたんですよね。
清潔な生活
村上さんも、昔は床屋とか風呂とかが嫌いだったそうです。
なにしろ、大学生活と学生運動やヒッピー・ムーブメントのピークが、もろに一緒だったので、汚いことがステータス・シンボルみたいな時代を、村上さんは大学生として生きてきたわけですから。
ということは、『ノルウェイの森』の主人公であるワタナベ君も、ヒッピーのように長髪で、お風呂にも行かず、一か月の髪を洗わないような生活をしていたっていうことでしょうか、、、
ヤクザについて
高校時代に一人で旅行していて、夜行列車でヤクザのおっさんと同席したときの思い出から始まって、プールへ泳ぎに行ったら、イレズミをした肩にボートハウスのトレーナーをひっかけてサーフ・パンツをはいたヤクザのお兄さんがいたという話に。
湯村輝彦と片岡義男とヒューマン・リーグが好きなんていうヤクザがいたりするかもしれませんね。
再び神宮球場について
世の中でいちばんわびしい行為は、十月初めのしとしとと秋雨の降る夜に文芸誌の編集者と二人で神宮球場に行って、柿のたねを食べ、仕事の話をしながらヤクルト対中日の日程消化ゲームを眺めることだそうです。
「引越し」グラフティー(1)(2)(3)(4)(5)(6)
村上さんはすごく引越しが好きで、荷物をまとめて街から街へと家から家へと移り歩いていると、本当に幸せな気持ちになってきます。
生活習慣を変えたりするのは極体に嫌いで、洋服なんか十五年前とほとんど同じものを着ているのに、引越しだけは大好き。
村上さんが大学に入ったのは1968年(昭和43年)で、とりあえず目白にある学生寮に入りますが、その年の秋に素行不良で追い出されてしまいます。
次に住んだのが、西武新宿線の都立家政の駅から歩いて十五分のところにある練馬の下宿で、三畳で四千五百円、敷金・礼金なしでしたが、女の子とうまくいかなかったりして、村上さん的には暗い時代だったそうです。
翌年(1969年)の春に、六畳台所つき七千吾百円という三鷹のアパートへ移りますが、三鷹の思い出といえば、すごく風の強い夜にブラジャーが空を飛んでいたことくらい。
管理人は1967年(昭和42年)生まれ。村上さんが早稲田大学へ入る前の年(浪人時代)に生まれたということになります。
文京区千石と猫のピーター
三鷹のアパートで二年暮らし後、村上さんは結婚をして、文京区千石(奥さんの実家)へ引越しますが、この時の荷物は、本と服と猫くらいしかありませんでした。
猫の名前はピーターですが、この猫は都会の暮らしになじむことができず、田舎の知り合いの元へ預けられてしまったそうです。
文京区千石の幽霊
奥さんの実家は、昔の徳川屋敷の一画にあって、地下牢の上に建っていたんだとか。
もちろん幽霊が出て、奥さんは時々幽霊を見たそうです。
能力のない村上さんが幽霊を見ることはなかったようですが。
国分寺の巻
いつまでも奥さんの実家に居候しているわけにもいかないので、村上さんは国分寺に引越しをして、ジャズ喫茶を始めます。
昭和49年のことで、奥さんと二人でアルバイトをして貯めたお金が250万円、双方の両親から借りたお金が250万円、合計500万円あれば、国分寺の割と良い場所で感じの良いお店を作ることができたんですね。
金はないけど就職もしたくないと考える人間でも、アイデア次第でなんとか自分で商売を始めることができる時代でした。
1974年(昭和49年)、村上さんが開いたジャズ喫茶の名前が「ピーター・キャット」。店は1977年(昭和52年)、千駄ヶ谷へ移転。
大森一樹について
大森一樹さんは兵庫県芦屋市立精道中学校の村上さんの三年後輩で、村上さんが書いた「風の歌を聴け」という小説が映画化された際の監督です。
先日テクニクスのプレイヤーの雑誌CMにも出ていましたが、プレイヤーさえもらえなかったそうです。
大森一樹監督の映画『風の歌を聴け』(1981年公開)は、原作の愛読者としては切ない映画です。主演は小林薫。
地下鉄銀座線の暗闇
東京に来ていちばん感動したのは、地下鉄銀座線に乗ったとき。
駅に到着する直前に一秒か二秒電灯が消えて車内が真っ暗になるのに、誰も顔色ひとつ変えない。
東京の人ってクールなんだなあと、つくづく感心したそうです。
ダッフル・コートについて
村上さんはダッフル・コートが好きで、VANジャケット製のチャコール・グレイのやつ(買った時は一万五千円だった)を十三年くらい着ています。
村上さんがダッフルコートを着ている間、世の中では実にいろいろなコートが流行ったそうですが、「メンズ・クラブ」一月号によると、今年はダッフル・コートが流行っているそうです。
それはそうと、今年こそは軽くて暖かいダウン・ジャケットを買おうと、村上さんは考えていますが。
体重の増減について
今年の秋に体重計をもらってからというもの、村上さんはみんなの体重を測って楽しんでいます。
猫①は3.5きろ、猫②は4.5キロ、村上さんは61キロ。
基礎的なダイエットと軽いジョギングを一か月やれば、5キロくらいはすぐにやせるみたいです。
電車とその切符(1)(2)(3)(4)
村上さんはしょっちゅう電車の切符をなくしてしまう人間です。
そんな村上さんが考えた切符をなくさない方法は、切符を折りたたんで耳の穴にしまいこんでおくこと。
もっとも、耳の穴に切符を入れていると、すごく変な目つきで見る人がいるそうです。
聖バレンタイン・デーの切干大根
西友の前を歩いていたら、農家のおばさんが道ばたでビニール袋に入った切り干しを売っていました(一袋五十円)。
家に帰った村上さんは切り干し大根を作って奥さんと一緒に食べますが、食事をしながら、その日がバレンタイン・デーであることに気が付きます。
昔はチョコレートをくれる人もいたんだけどなあ、、、
誕生日について
この年になると、誕生日だからといって、特に良いことがあるわけでもない。
今年の誕生日の翌日、村上さんは出版担当の女性編集者と会って、一緒に食事をします(村上さんより三つ年下で、同じ血液型で、同じ誕生日)。
年を取ったら、こんな風にみんなで集まって「お互い良いことありませんねえ」などと飲み食いするのが妥当ではないか、と村上さんは主張しています。
村上春樹さんの誕生日は1月12日。現在72歳。
ムーミン・パパと占星術について
同じ血液型で同じ誕生日の女性編集者と村上さんとの間に性格的運命的な共通点があるかと言えば、感心するほどに顕著な共通点はなくて、相違点よりも共通点の方がいくぶん多いという程度のもの。
もっとも、ムーミン・パパと五分違いで生まれた人は大悪党になったそうです。
三年くらい前に占星術に詳しい有名な女性に占ってもらったところ、「今年中に離婚しますね」と言われたけれど、村上さんは離婚しませんでした。
あたり猫とスカ猫
村上さんのところの八歳になる雌のシャム猫、背骨がずれて入院しました。
この猫は「あたり」の猫で、猫には「あたり」と「スカ」があるんだそうです。
ロンメル将軍と食堂車
何かの本で、ロンメル将軍が食堂車でビーフ・カツレツを食べるシーンがありました。
なんでもない一節ですが、色のとりあわせがきれいで、村上さんの印象に残ったそうです。
小説を書く時には、こういう広がりのある一行で始めると、話がどんどんふくらんでいくのだとか。
ビーフ・カツレツについて
東京ではビーフ・カツレツがなかなか見つからないので、村上さんは次善の策としてウィンナ・シュニツェル(ウィーン風仔牛のカツレツ)を食べるそうです。
「サウンド・オブ・ミュージック」の「マイ・フェバリット・シングス」という唄の中にも、「私の好きなものは…ヌードルを添えたウィンナ・シュニツェル」という歌詞が出てきます。
村上さんの好みのつけあわせは、塩ゆでしただけのスパゲティーとクレソンのサラダ。
食堂車のビール
函館から札幌に向かう特急の食堂車で、一人でビールを飲みながら遅めの朝食をとっています。
ハムエッグとサラダとトーストと、それからビール。
窓の外は白一色で、目がちかちかしています。
『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)の主人公も、特急に乗って函館から札幌へ移動していますね。いるかホテルに宿泊するために。
旅行先で映画を見ることについて
三日間札幌にいました(別に用事があったわけではなく、ついでがあったので一人でふらっと寄っただけ)。
札幌では、ビヤホールに入って生ビールを三杯飲んで昼食をとり、それから「ランボー」と「少林寺」の二本立てを見た後で、夕食でビールを飲んで、食後はジャズの店でウィスキー。
札幌には十軒の映画館がまとまって入ったビルがあってすごい。
ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」
村上さんは早稲田大学文学部の映画演劇科で映画の勉強をしていました。
学生時代、一年に二百本以上の映画を観たそうです。
お金がなくなると、早稲田の本部にある演劇博物館に行って、古い映画雑誌に載っているシナリオを片端から読みました。
『ノルウェイの森』の主人公のワタナベ君も、大学で演劇を学んでいました。
蟻について(1)(2)
村上さんは昔から蟻を眺めるのが好きだったそうです。
昔、蟻が核実験で巨大化して人間に襲いかかる「巨大蟻のなんとか」みたいな映画もありました。
とかげの話
村上さんの家は田舎にあるので、とかげがいっぱい住んでいるそうです。
村上さんの家で飼っている二匹の猫は、とかげいじめが三度のメシよりも好き。
毛虫の話
村上さんの家の近くには桜並木が多くて、春はとてもきれいですが、五月六月になると、驚異的に毛虫が多くなります。
安西水丸さんは毛虫が苦手なので、この回のイラストには毛虫が描かれていません(「村上さん、気味わるいよ」とのコメントあり」。
「豆腐」について(1)(2)(3)(4)
新宿の酒場の豆腐がおいしかったので、豆腐を四丁も食べてしまいました。
村上さんは熱狂的に豆腐が好きなので、ビールと豆腐と枝豆とかつおのたたきがあれば、夏の夕方はもう極楽。
冬は湯どうふ、あげだし、おでんの焼き豆腐で、とにかく春夏秋冬一日二丁は豆腐を食べます。
村上さんの家では米飯を食べないので、豆腐が主食。
辞書の話(1)(2)
翻訳の仕事をするとき、村上さんは大・中・小の三種類の英和辞典と二種類の英英辞典を使っていますが、そのうちのひとつが研究社の「新簡約英和」で、高校入学時に買ったこの辞書を、村上さんは二十年近くも使っているんだとか。
村上さんは辞書の挿し絵が大好き。
辞書を全部絵にしてしまえという発想でできたのが、オックスフォード・ドゥーデンの「図解英和辞典」(福武書店)で、村上さんも先日買ってきたばかりです。
ディスコ図解とか、ヌーディスト図解なんていうのまで、ちゃんと載っています。
ナイトクラブ編のイラストは、どう見ても湯村輝彦風。
女の子に親切にすることについて
村上さんは今年34歳、人並みに女の子とつきあってきましたが、年を取るにつれて、女の子に親切にすることがどれだけ難しいかということが、身に染みて分かるようになってきました。
十七歳のとき、神戸にある高校までの通学に使っていた阪急電車の阪急芦屋川駅で、紙袋を電車のドアにはさまれて困っているとてもかわいい女子高生(甲南女子高校)を見かけました。
助けてあげようと思って思いきり引っぱったら紙袋が二つに裂けて、中身が線路の上に散らばってしまうという大惨事に。
フリオ・イグレシアスのどこが良いのだ!(1)(2)
村上さんの周りには面食いの女性が多くて、村上さんは「フリオ症候群」と名付けています。
個人的な感想で言えば、村上さんはフリオ・イグレシアスという人間が不快。
まるで村上さんがことさらに二枚目を嫌っているみたいですが。
「三省堂書店」で考えたこと
神田の三省堂書店で本を買っていたら、同じレジで村上さんの書いた本を買っている女の子がいました。
自分の本が買われているところを見るのは嬉しいものです。
「対談」について(1)(2)
日本の雑誌には、実に対談が多い。
対談のギャラは高くないけれど、食事はわりと良いそうです。
もっとも、村上さんとしては、食事はビールと天ザルぐらいでいいので、もっとギャラが欲しいそうです。
僕の出会った有名人(1)(2)(3)(4)
村上さんはいわゆる有名人にあまり会ったことがありません。
1970年、学生時代に新宿の小さなレコード屋でアルバイトしていた時、お店にやって来たのが藤圭子さん。
文芸誌の新人賞をとったときの選行委員で、一応恩義のある人が吉行淳之介さん。
山口昌弘くんは別に有名人ではなくて、村上さんが昔国分寺で経営していたジャズ喫茶でアルバイトをしていた人。
村上春樹さんは、1979年(昭和54年)に群像新人文学賞受賞でデビュー。村上さんを推薦した審査員が吉行淳之介さんでした。
本の話(1)「日刊アルバイトニュース」の優れた点について
我が家の本の数が増えすぎたので、先日新しく本棚を買いました。
「ユリイカ」とか「キネ旬」「ミュージック・マガジン」「ミステリマガジン」「スタジオ・ボイス」「広告批評」なんて捨てちゃうとあとで後悔するような気がする。
大橋歩時代の「平凡パンチ」とか創刊当時の「アンアン」とか「映画芸術」、今けっこう役に立っています。
本の話(2) 鷲は土地を所有するか?
村上さんのよく行く洋書専門の古本屋が神田にあります。
珍品もゴミみたいな本も値段が一律。
最近はこういうのどかな商売がすっかり姿を消してしまって淋しいかぎり。
本の話(3) つけで本を買うことについて
村上さんの家はごく普通の暮らし向きの家でしたが、父親が本好きだったので、村上さんも近所の本屋でつけで好きな本を買うことができたそうです。
当時(1960年代前半)、村上さんの家では、毎月河出書房の「世界文学全集」と中央公論社の「世界の歴史」を一冊ずつ配達してもらっていました。
それを読みながら十代を過ごした村上さんは、今に至るまで外国文学一本鎗。
河出書房の「世界文学全集グリーン版」は1959年から1966年まで刊行(全100巻)。
本の話(4) サイン会雑感
めんどうくさいし恥ずかしいので、サイン会だけはやりません。
ちなみに、村上さんのサイン本を持って古本屋へ行っても、高く買い取ってくれるということはありません。
サイン本で高くなるのは、せいぜい遠藤周作・開高健といった世代までで、後の若い作家の署名なんて、汚れみたいなものだそうです。
略語について(1)(2)
「UFO」は「ユッフォー」ではなくて「ユーエフオー」です。
「アメリカン・グラフティー」には、略語がたくさん出ていました。
「あんた、かなりの J・D ね」の「J・D」は非行少年のこと。
ケーサツの話(1) 職務質問について
学生の頃は、よく警官に呼び止められて職務質問をされました。
小石川の方に住んでいた頃には、病気の猫をバッグに入れて獣医のところまで運んでいく途中、近所の交番の前で職務質問にあいました。
ケーサツの話(2) 陳述書について
その昔、ちょっと事情があって警察にひっぱられて陳述書を書かされたことがあります。
警察官の作文能力は、一般人のそれに比べて極端に低い。
何にも増して屈辱的なのは、警察官が鉛筆で書いた下書きの上を、一字一句違えずにボールペンでなぞって清書しなければならないこと。
このときの経験は『ダンス・ダンス・ダンス』で生かされているようです。
新聞を読まないことについて
外国へ行っていちばんほっとするのは、新聞を読まなくて済むことです。
この間、ドイツに一か月滞在した時も、まるで新聞を読まなかったけれど、現地の若い連中は反核のバッジを胸に付けていたりするのを見て、世界の空気の流れみたいものを肌で感じることできました。
本当の情報とはそういうものだと、村上さんは考えています。
ギリシャにおける情報のあり方
ギリシャでは街を歩いていても書店がほとんど見当たりません。
みんな本なんて読まないで、カフェに集まって討論して日々を送っているから。
その結果として、漠然としたコンセンサスのようなものが形成されます。
ミケーネの小惑星ホテル
ギリシャにミケーネという村があります。
ミケーネでいちばんよいホテルが「ル・プチ・プラネット」(小惑星)。
ミケーネ村の人々に「幸せそうですね」と訊ねると、「もちろん」「とてもとても幸せだ」と言います。
日本人の一体何人が「幸せだ」と答えられるでしょうか。
ギリシャの食堂について
ギリシャの食事は決してまずくないと、村上さんは言います。
一流レストランで食べるより、大衆食堂で食べた方がずっとおいしい(世界中どこでも同じ)。
海岸近くの食堂(タヴェルナ)で食べる魚料理は最高です。
食物の好き嫌いについて(1)(2)(3)/
村上さんは、けっこう偏食がちな人間です。
肉は牛肉だけ、貝はカキ以外まるでダメ、中華料理は一切食べられません。
ちょっと食べたくないもののひとつがカレーうどん。
再びウィンナ・シュニッツェルについて
先日、わざわざウィーンへ行ってウィンナ・シュニッツェルを食べてきました。
ウィーンのウィンナ・シュニッツェルは、全然ウィンナ・シュニッツェルらしくなくてがっかり。
ウィーンで意外と美味いのがハンガリー・グラシュ。
続・毛虫の話(1)(2)
村上さんの奥さんが、ナメクジの行列を見たという話。
世界でいちばんおぞましい刑罰は「毛虫壺」だという話。
拷問について(1) 石抱きとドリル
映画には拷問のシーンがよく出てきます。
昔の時代劇には、石抱きの拷問がよく登場しました。
拷問について(2) くすぐりと指おとし
映画の拷問シーンで、いちばん面白かったのは、くすぐり拷問。
拷問について(3) メル・ブルックスの「世界の歴史・パートⅠ」
映画の拷問シーンの馬鹿馬鹿しい最右翼は、メル・ブルックスの「世界の歴史・パートⅠ」におけるトルケマダの宗教裁判。
カサブランカ問題
ジェームズ・ポンド「ロシアより愛をこめて」に出てくる「君がいなくなるとイスタンブールもさびしくなるね」という科白は、「カサブランカ」に出てくる科白と似ています。
有名になった広告コピーは、必ずその周辺の文体を破壊し去っていく。
チャンドラーのキメの名セリフ「タフじゃなければ生きていけない。やさしくなければ…云々」だって、広告業界に破壊しつくされたあとでは、もうスカスカの抜けがらみたいな科白になってしまいました。
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」は、レイモンド・チャンドラーの小説「プレイバック」で主人公のフィリップ・マーロウが女性に向かって言う言葉。1978年の角川映画「野性の証明」のキャッチコピーとして流行しました。
ヴェトナム戦争問題
映画を観ていたら、あるパイロットが「どれくらいヴェトナムにいた?」ときの返事として、「二往復半」と字幕が出た。
正しくは「二期半」と訳すべきでは?
コッポラの「地獄の黙示録」に出てくる東洋人に対する差別言辞はすごくて、とても字幕には訳しきれないそうです。
映画の字幕問題
吹き替えは、映画のイメージが確実に狂ってしまうから、村上さんはどうも好きになれないそうです。
先日観た「スターウォーズ・日本語版」も、全然日本語の科白が聞き取れなくて、とてもシラケてしまいました。
「荒野の七人」問題
ジョン・スタージェスの「荒野の七人」について。
ダーティ・ハリー問題
映画の字幕は字数が限られていて大変です。
言い回しの面白さとか訛りとかも伝わりにくいし。
このコラムもいよいよ今週が最終回
飽きっぽい性格の村上さんですが、このコラムは、一年の予定を超えて一年九か月も続いてしまいました。
これは主として、安西水丸さんの挿し絵のおかげだそうです。
それから、この「日刊アルバイトニュース」という雑誌が、若い人たちに読まれているということも励みになったとか。
今さら若い人におもねるつもりはないけれど、それでも若い人に向けて何かを書くということは、村上さんにとって楽しいことだったんですね。
若い世代に向けてのメッセージとか提案とか苦情というのは特にありません。
まあがんばって働いて、がんばって年取ってください。
村上さんもそんな風にしてなんとか人並みの中年になったんだから。
「日刊アルバイトニュース」は、1986年、「an」(アン)に改題されました。2019年、Web版を含めてすべてのサービスが終了。
番外 お正月は楽しい(1)
正月に対して懐疑的な村上さんは、学生時代も正月だからといって、特に家に帰ったりはしなかったそうです。
親父と顔をあわせて新年のあいさつをしたり、テレビのくだらない番組見てたりするより、アルバイトしていた方がマシだったから。
特に楽しいのは、大晦日の夜に新宿のオールナイト映画館をはしごすることでした。
番外 お正月は楽しい(2)
村上さんの家でも、お正月になると一応おせち料理のようなものを作ります。
何を隠そう、村上さんはおせち料理が病的に好きなのです(お雑煮も好き)。
食べること以外で、正月の楽しみは、空がきれいで町が静かなことに尽きますが、東京の都心で迎えるお正月くらい楽しいことはないそうです。
千駄ヶ谷に住んでいた頃の、村上さんの大晦日からお正月にかけての過ごし方は、確かに最高だと思う。
「千倉における朝食のあり方」安西水丸氏に聞くⅠ
ここからは、村上春樹さんと安西水丸との対談です。
千倉の朝食は、いそのり、ハバ、あわび、さざえ、石だたみ。
味噌汁はフノリ、かさ貝、カメのつめ。
「ビックリハウス」1984年(昭和59年)2月号掲載。
「千倉における夕食のあり方」安西水丸氏に聞くⅡ
千倉の夕ご飯は、アジの刺身、イワシの刺身、それからサンマ。
たまにマンボの刺身も食べます。
イセエビをゆでたやつに、野菜はオクラ(千倉名物)。
千倉で初めてクリスマス・ツリーを作ったのは安西水丸さんだそうです。
「ビックリハウス」1984年(昭和59年)3月号掲載。
「千倉サーフィン・グラフティー」安西水丸氏に聞くⅢ
水丸さんは、子どもの頃、千倉でサーフィンをしていたそうです。
板でボードを作って。
「男にとって”早い結婚”はソンかトクか」安西水丸氏に聞くⅣ
安西水丸さん(41歳)が結婚したのは23歳のとき(卒業を待ってから結婚)。
日大の芸術学部でグラフィック・デザインの勉強をしながら、夜はインテリア・デザインの専門学校へ通っていて、そこで隣り合わせに話をしていたのが、今の奥さん。
村上春樹(35歳)さんが結婚したのは22歳のとき。
知り合ったときはお互いに大学生で(18か19のとき)、村上さんは七年、奥さんは五年大学にいたので、二年先に奥さんが卒業。
早稲田大学では、奥さんとは専攻は別だけどクラスは同じで、二年生くらいまでは普通の友だちという感じで付き合っていたそうです。
結婚と同時に店を持ったときは、まだ大学生でしたが、奥さんと二人でアルバイトして貯めた200万円と、残りは銀行から借金をして、500万円のお金を用意をして商売を始めました。
借金は連帯感が出てくるし、頑張れるから非常にいいと、村上さんも水丸さんも言います。
「GORO」1984年(昭和59年)2月23日号掲載。
付録(1) カレーライスの話(文・安西水丸、画・村上春樹)
水丸さんはカレーライスが好きで、一週間に三回は食べます。
子ども時代に千倉で食べたカレーライスは、地元で採れる貝で作ったカレーライスの方が、肉で作ったカレーライスよりも圧倒的に美味しかったとか。
付録(2) 東京の街から都電のなくなるちょっと前の話(文・安西水丸、画・村上春樹)
水丸さんは高校時代、赤坂から九段にある私立高校に都電で通っていました。
当時、赤坂には喫茶店がひとつしかなくて(「みつる」という名前)、TBSも九十九里浜のトーチカといった感じでした。
まとめ
ということで、以上、今回は、村上春樹さんのエッセイ集「村上朝日堂」について全力で語ってみました。
初期の村上さんのエッセイには、どうでもいい話の中にキラッと光る文章があって、そういう文章を見つけると、本当にうれしくなったものです。
「どんなに少なくてもギャラは現金でもらいたい」とか、筋を通して生きている感じが、憧れの大人の人という感じでもありました。
あまり難しいことを考えず、お気楽に読みたいエッセイ集ですよ。
書名:村上朝日堂
著者:村上春樹・安西水丸
発行年月日:1988/2/25
出版社:新潮文庫