庄野潤三「ガンビア滞在記」読了。
本作「ガンビア滞在記」は、1959年(昭和34年)3月に中央公論社から刊行された長篇滞在記である。
この年、庄野さんは38歳だった。
オハイオ州の小さな大学村ギャンビア
生田の「山の上の家」の近所に狸が現れるようになったときに、夫婦でガンビア時代の話をする場面が『貝がらと海の音』に出てくる。
「ガンビアみたいになって来ましたね」と妻がいった。「この山の狸も、生きてゆくのが大へんなんだろうな。食べる物、どうしているのかなあ」(庄野潤三「貝がらと海の音」)
狸を見た夫婦がガンビア時代の話をするのは、ガンビアで暮らしていたバラック住宅の前にも「ラックーン」と呼ばれるアライグマが、たびたび現れたからである。
丁度部屋の光線の加減で、この時エリオットさんの顔の眼のまわりにまるい隈どりが出来て、ブラック・マスクのあるラックーンそっくりになり、まるで私たちの眼の前に無邪気にこちらを振り向いたその晩のラックーンの顔を見たような気持がした。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
ラックーンは、ガンビア時代の象徴的存在として、庄野夫妻に大きな印象を残したらしい。
アメリカ行きのクリーブランド号に乗って、庄野夫妻が横浜港を出港したのは、1957年(昭和32年)8月26日のことだった。
ロックフェラー財団の招聘による海外留学で、「田舎の出来るだけ小さな町に行って、その町の住民の一員のようにして暮らすことが出来たら」という庄野さんの希望により、行き先は、オハイオ州ガンビアにあるケニオン大学と決まった。
オハイオ州は、アメリカ中西部の中でも北東にある州で、北部ではカナダとの国境にある。
この物語の舞台となっているガンビア(現在は「ギャンビア」と綴られることが多い)は、オハイオ州の中で、コロンバスとピッツバーグとクリーブランドの中間あたりに位置する、小さな村だ。
電話帳によると、当時のガンビアの人口は600人、戸数200戸。
ちょっとした買い物をするには、5マイル(約8km)離れたマウント・ヴァーノン(人口15,000人)まで出かけなければならないという、本当に小さな大学村だった(ギャンビアの人口は、現在でも約2,000人程度らしい)。
本作『ガンビア滞在記』は、このガンビアで一年間暮らした庄野夫妻の海外滞在記である。
ロックフェラー財団の海外留学に夫人が同伴するようになったのは、1957年(昭和32年)からで、庄野夫妻がその第一号となった。
当時、庄野家には、10歳の長女を筆頭に、6歳の長男、1歳の次男と、三人の子どもがいたから、このガンビア滞在は、夫婦にとって、決して楽しいだけの海外留学ではなかっただろう(長男は、両親の不在中に小学校へ入学した)。
しかし、『ガンビア滞在記』中に、日本に残してきた子どもたちの不安を示唆するような場面は、一切ない。
というか、日本に関する記載などは、ほとんど皆無で、この滞在記は、ガンビアという小さな村の住人となった夫婦のささやかな暮らしが、ほぼほぼ等身大の目線によって綴られているのである。
例えば、ガンビアには、郵便局が一つだけある。
一年しか滞在しない庄野家宛ての郵便物は、郵便局の窓口で受け取る仕組みになっている。
この郵便局の壁に、ケニオン大学を描いた大きな絵が飾られていて、庄野さんは、この絵を通してケニオン大学の沿革に触れている。
遠くから見ると、中世のヨーロッパの城のように見える。中央と両翼に大小の尖塔が聳えていて、先に風見鶏がついている。望楼のようなかたちをした煙突が四つ並んでいる。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
1829年に完成したケニオン大学の校舎は、1949年(昭和24年)の火事で焼け落ちたが、以前と同じ形で復元され、「オールド・ケニオン」と呼ばれている(外観は古くても、内部は近代的に設計されていた)。
ガンビアという町の名前とケニオンという大学の名前は、大学建設に出資したイギリスの貴族の名前である。
そんなエピソードが、郵便局の紹介の中で、さらりと出てくる。
ガンビアには、「村の宿屋」と「ドロシイズ・ランチ」という二軒の食堂がある。
私は「村の宿屋」のいくらか取り澄ました感じをあまり好まず、もしガンビアのどこかにもっと気楽な店があればそこへ行ってみたいと考えていた。それでドロシイズ・ランチとだけかいた看板を見つけたときは、ここがそうらしいぞと思った。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
そうして庄野さんは、ドロシイズ・ランチの経営者であるジェイムズ・ラットレイ氏の生い立ちに触れながら、店に出入りしている住人たちの様子を、詳細にスケッチしてみせる。
まだ海外旅行が自由にできなかった時代の海外滞在記なのに、海外旅行をしているという感覚が、ほとんどない。
見知らぬ街の住人となった人が、真新しい街を珍しそうに眺めている。
大仰な日米比較文化論とか、アメリカの現代的課題とか、そんな難しい話なんかは一切なくて、ガンビアでは栗鼠が電線の上を走っていたとか、ラックーンがごみ箱を荒らすとか、町の住人たちの様子とか、そういう瑣末なことが、丁寧に紹介されている。
ガンビアにある銀行「ピープルズ・バンク」の経営者ブラウン氏は、非常に熱心に働いているが、ガンビアの天気の悪口を言うと機嫌が悪くなる。
今年の冬、ある雪の日にミノーが銀行へ行き、ついうっかり、「今日は大変寒い」と云うと、ブラウン氏は書いていたペンを止めて、顔を上げ、底力のある声で、「ビューティフル・デイ」と云った。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
食堂と同じように、ガンビアには二軒の食料品店があって(「ヘイズ」と「ウィルソン」)、町の人々はどちらかの常連となって買い物をする。
庄野さんは「ウィルソン」で買い物をするようになるが、ウィルソンの主人の言葉は、ガンビアで一番分かりにくいので、庄野さんはほとんど理解できない。
相手があんまり嬉しそうに笑っているので、「何と云ったのか、もう一度云ってくれ」とつい云い出せなくなる。かりに私が問い返しても、やっぱり何を云ったのか分らない。ヘイズの主人の言葉は非常にはっきりしている。しかし、この人は冗談を云ったりしない。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
言葉がはっきり伝わらなくても、親しみの持てる主人がいる「ウィルソン」を、庄野さんは選んだらしい。
町の紹介は、そんな瑣末なエピソードとともに披露されるが、エピソードが瑣末であるほどに興味を惹かれるのはどうしてだろう?
小さくて実際的なエピソードを積み重ねることによって、庄野さんは、ガンビアという小さな町の在り様を、丁寧に伝えようとしていたのかもしれない。
井伏鱒二は、本作『ガンビア滞在記』について「一種、詩神へ捧げる報告書のような読みごたえのする物語である」と評している。
これを読みながらつい私はフィリップの「小さい町」を思い出した。しかし庄野君の見せてくれたガンビアは珍しく楽しい町であった。(井伏鱒二「著者へ<庄野潤三『ガンビア滞在記』>」)
「自分もこんな町に住んでみたい気持がした」とあるのは、井伏さんによる最大限の讃辞だったのだろう。
ミノー&ジューンとニコディム夫人
町の紹介もケニオン大学の紹介も、庄野さんと交流する人々の紹介も、季節の流れに沿って描かれている。
庄野さんのアメリカ滞在は、1957年(昭和32年)9月から1958年(昭和33年)8月までだから、この物語は秋に始まって冬を越し、春を迎えて、夏が来たところで終わりを告げる。
ガンビアの四季とともに、町と人々との交流が描かれていく。
だから、章タイトルを読むと「万聖節前夜」「感謝祭」「雪の日」「クリスマス」「春の気配」「卒業式」と、季節感を感じる言葉が、いくつも出てくる(全35章あって、季節以外の言葉も多い)。
交流の中心となっているのは、ミノーとジューンのエディノワラ教授夫妻である(シリーンという幼い娘がいた)。
ミノーはボンベイで生れた印度人で、ジューンは彼がアメリカ留学中に結婚したアメリカ人の奥さんである。二人がシカゴの近くのエバンストンにあるノースウェスタン大学の学生であった時知り合って、ジューンの家があるイリノイ州のウェインという小さな町で二年前に結婚式を挙げた。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
当時、ジューンは25歳で、庄野夫妻は、ガンビアで、この若き隣人と家族同様の生活を過ごすようになる。
そして、庄野夫妻のガンビア物語は、ミノー&ジューンを中心として展開していくことになるので、エディノワラ夫妻との出会いは、庄野夫妻のガンビア滞在にとって、非常に大きな出来事となった。
少なくとも、ミノー&ジューンとの出会いがなければ、現在の形での『ガンビア滞在記』は成立しなかったに違いない。
ジューンは黒いオーヴァーに黒いベレをかぶって出て来たので、「パリジャンだ」と誰かが云った。車が走り出すと、私もミノーもジューンも出まかせのフランス語を口々に叫び、最後は「セ・シ・ボン!」と四人が大きな声で歌い出した。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
彼らもまた一時的な滞在者であったエディノワラ一家は、庄野夫妻よりも早く、ガンビアを去っていく(ミノーはケニオン大学の非常勤講師だった)。
ミノーは車に乗る前にもう一度まわりを点検した。ジューンの足もとに荷物が入っている。車が動き出して見送っている私たちの前を通過すると、ミノーは警笛をゆっくりと三回鳴らした。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
ミノーの自動車が見えなくなったところで、エボラが泣き出すが(イングリッシュ氏の子ども)、エボラの涙は、庄野夫妻の涙でもあっただろう。
本作『ガンビア滞在記』は、可能なかぎり感情を抑制した文章で綴られている一方で、登場する人々の様子が丁寧にスケッチされている。
書かれていない庄野夫妻の感情は、こうした町の人々のスケッチによって表現されていく。
ミノーの自動車でダンビルまでドライブしたとき、アイスクリームを食べているハイスクールの女の子たちを眺めながら、こんな話をした。
ミノーは「印度ではこんな田舎の小さい町へ行くと、貧乏がひどい。しかし、アメリカではどんな小さい町へ行っても、自動車は持っている、テレビはある、家はいい。必ず食堂があって、何でも食べるものを売っている。みんな裕福に暮らしているように見える。アメリカへ来た時、それに一番驚いた」と云った。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
ミノーの言葉によって、庄野さんはアメリカを描き、インドを描いている。
そして、それが、本作『ガンビア滞在記』という作品の本質だったかもしれない。
ガンビアでの隣人として、もう一つの軸となっているのが、ポーランド人であるニコディム教授夫妻である。
私はニコディム夫妻がケニオンのどの教授の家族ともつき合いをしていなくて、孤立した生活を送っているということを聞いていた。特にニコディム教授は頑なで交際嫌いだという評判である。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
やがて、ニコディム夫人の運転する自動車に乗って、庄野夫妻はガンビア近隣へドライブへ出かけるようになるのだが、「孤立した生活を送っている」というニコディム夫人は、実際には大変に面倒見の良い人で、日本からやって来た庄野夫妻の世話を、あれこれとなく焼いてくれる。
ハローイーンの晩にニコディム家へお茶に呼ばれた時も、私たちはジニイとトムの二人と一緒であった。ニコディム夫人はイギリスにいる友達が送ってくれたお茶を出し、自分がつくったクッキーを「もっと食べよ。もっと食べよ」と勧めた。しかし、そのクッキーは二十人分ぐらいあった上に、非常に甘かったので、誰もひと口食べただけで後は手を出さなかった。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
ミノー&ジューンとニコディム夫人は、間違いなく『ガンビア滞在記』の重要な登場人物だ。
その他、ランサム教授やエリオット教授、サトクリッフ教授など、多彩な教授連とその家族、そしてジニイやトムといった学生たちが、ガンビアでの生活の物語に起伏を与えてくれる。
興味深いのは、遠いアメリカの地で出会った人々に、庄野さんは、自分の両親の姿を重ね合わせていることだ。
インドから遊びにやって来たミノーの母ディンショウが、結婚披露宴のときの家族写真を見て、幸せそうな笑顔を見せる。
私はそれを見た時、一年前に亡くなった自分の母がやはりそれと同じような時にそっくり同じ笑い方をしたことを思い出した。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
あるいは、昼寝をしている散髪屋ジム。
ジムはしばらくすると鼾を立て始めた。胸の上に組んでいる指に毛が生えている。私はその毛を見ていると、亡くなった父を思い出した。私の父はもっと鼾が大きかったが、昼寝している時はジムのような顔をしていた。(庄野潤三「ガンビア滞在記」)
ディンショウはインド人の女性であり、ジムはアメリカ人の男性である。
庄野さんは、民族を越えた人々に、亡くなった両親の面影を見出しているわけで、この『ガンビア滞在記』が、矮小化されたアメリカ観によって描かれてはいない理由を、我々はそこに知ることができる。
おそらく、庄野さんは、人間を描こうとしていたのだ。
実際に生きている人間を描くことで、ガンビアという小さな村を描き、アメリカという大きな国家を描こうとしたのだろう。
「あとがき」には、庄野さんの有名な言葉がある。
私は滞在記という名前をつけたが、考えてみると私たちはみなこの世の中に滞在しているわけである。自分の書くものも願わくばいつも滞在記のようなものでありたい。(庄野潤三「ガンビア滞在記」あとがき)
「私たちはみなこの世の中に滞在している」という言葉に、庄野文学の本質があり、『ガンビア滞在記』の本質がある。
庄野夫妻のガンビア物語は、やがて『シェリー酒と楓の葉』(1978)と『懐しきオハイオ』(1991)という二つの長篇小説によって完成されることになるが、こうした長編小説のほか、多くの短編小説や随筆を含む「ガンビアシリーズ」は、庄野文学にとって、非常に重要な作品群である。
家族小説ばかりが庄野文学ではないのだ。
書名:ガンビア滞在記
著者:庄野潤三
発行:2005/10/07
出版社:みすず書房