小樽市「石川啄木歌碑」訪問。
小樽市内には、啄木の歌碑が3基あって、その設置場所は、小樽公園、水天宮、三角市場前となっている。
最も古い小樽公園の歌碑は、1951年(昭和26年)10月に建立された。
小樽公園の石川啄木歌碑
石川啄木が、小樽に滞在したのは、1907年(明治40年)9月27日から1908年(明治41年)1月19日まで、およそ4か月弱の小樽生活だった。
1907年(明治40年)9月に、函館を大火で追われた啄木は、「北門新報社」の校正係の仕事を見つけて札幌へ移住するも、わずか二週間で、小樽の「小樽日報」へと転職している(記者として引き抜かれた)。
小樽日報で人間関係をこじらせた後は、さらに釧路の「釧路新聞」へと転職するのだから、啄木の北海道時代は、文字どおり流浪の時代だったということになる(啄木は『小樽日報』の「初めて見たる小樽」の中で「予はあくまでも風の如き漂泊者である。天下の流浪人である」と自ら書いている)。
おかげで啄木の足跡は文学碑という形で、全道各地に残されることになった。
石川啄木という若者は、妙に庶民から人気の高い歌人だったのだ。
最初に、石川啄木の歌碑を作ろうと提案したのは、啄木の年下の友人・高田紅果だった。
高田紅果は、啄木の「あはれかの眉の秀でし少年よ/弟と呼べば/はつかに笑みしが」と歌われた文化人である(『一握の砂』所収、1910年・東雲堂書店)。
啄木の生前交遊のあった高田紅果は、戦後まもなく遠藤勝一・油川鐘太郎・樋口忠次郎の諸氏と小樽啄木会を組織し、昭和二十二年二月小樽に疎開中の新星社より『秘められし啄木遺稿』を出版したが、その後啄木の歌碑の建立を計画し、二十三年六月小樽公園東山の白樺の樹間に五寸角の木の歌碑を建てた。(岩城之徳「石川啄木(写真作家伝叢書)」1965)
高田紅果ら小樽啄木会歌碑建設期成会が作った、このときの歌碑には、「かの年のかの新聞の初雪の/記事を書きしは/我なりしかな」の歌が刻まれ(『一握の砂』所収)、地元の歌人・小田観螢が揮毫したという。
その後も、高田紅果は、啄木会の代表として、郷土史家の越崎宗一や松木裸志らと啄木文学の普及や遺跡の保存に奔走するとともに、1950年(昭和25年)、小樽市文化団体協議会に対し、石川啄木歌碑の建立を働きかけた。
小樽公園に、正式の啄木歌碑が建立されたのは、1951年(昭和26年)11月3日のことである。
歌碑に刻む歌は、最初市民の投票によって最高点の「かなしきは小樽の町よ」が決定されたが市から歌の再審議が要請され、小田観螢、峰村文人、高田紅果の三人で選んだ「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌が刻まれた。(小樽啄木会「啄木と小樽・札幌」1962)
「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌というのは、「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」のことで(『一握の砂』所収)、良い作品でありつつも、特別に小樽っぽい感じがする作品というわけでもない。
碑面の字体は、啄木の真筆を宇野静山が模写したもので、仙台石に刻んだものを自然石にはめこんである。
生前啄木に<あはれかの眉の秀でし少年よ弟と呼べばはつかに笑みしが>と歌われた高田紅果は、宿望達したその日の喜びを<眉秀でし少年の日の思ひ出をえがきてこれの碑の前に立つ>と歌い、はるばる除幕式に参列した函館の宮崎郁雨は<碑の面(おも)を雨しめやかに来てぬらすそのかの日をば思へとごとくに>と詠んだ。(岩城之徳「石川啄木(写真作家伝叢書)」1965)
小樽公園内には、いくつかの駐車場があるが、訪れる市民も多く、高校野球大会などの開催中には、自動車を止める場所にも困るほどだ。
啄木の歌碑へのアクセスは、国道5号線から公園通りをまっすぐに上り、小樽公園に突き当たったところの左側の入口から入ると、すぐに見つかるが、なにしろ、坂の街・小樽だけあって、公園内の勾配もきつい。
ちなみに、啄木の下宿は小樽市花園町十四番地にあった。
正面は小樽公園で、この通りは現国道に直交し、啄木が好んで散歩した。当時は赤土山を崩して造った悪路で両側に新築平家が並んだ淋しい通りだった。啄木が再々散歩した公園の森には生前彼が住んだ家とこの路とを眼下に見はるかす場所に歌碑が建てられてある。(小樽啄木会「啄木と小樽・札幌」1962)
小樽の道の悪いことは、『小樽日報』掲載の「初めて見たる小樽」にも指摘されている。
(略)手取早く唯男らしい活動の都府とだけ呼ぶ。此活動の都府の道路は人も云ふ如く日本一の悪路である。善悪に拘はらず日本一と名のつくのが、既に男らしい事ではないか。(石川啄木「初めて見たる小樽」)
小樽市内には、3基の石川啄木歌碑が設置されているが、元祖・啄木歌碑と言えるのは、小樽公園の歌碑ということになる。
水天宮の石川啄木歌碑
小樽市内で2番目となる石川啄木歌碑は、水天宮に建てられた(住所は北海道小樽市相生町3-1 水天宮境内)。
なぜ、この歌碑が建てられることになったのか?
その理由は、最初の歌碑(小樽公園にある)の碑面に刻む歌の選定にあったらしい。
昭和二十六年、小樽啄木会は碑の歌を市民投票で決めたいと提案、その結果「かなしきは」が最高点となった。しかし、市の予算で建てられることになり、議会や行政当局の意向があって、「こころよく」の歌に決まった。だが、やっぱり「かなしきは」を建立したいという市民の願いは止みがたく、結局、水天宮の方に建てられることになった。(浜練太郎「小樽の二つの啄木歌碑」1995年4月号『民主文学』)
「かなしきは」というのは、「かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ」という作品のことで、「小樽」という地名が入っているので、小樽市内に建つ歌碑の歌としては、いかにもふさわしい(『一握の砂』所収)。
もっとも、小樽の人々の声の荒さをディすった歌と解釈することもできるので(というか、そのように解釈するのが自然なので)、小樽市の行政当局としては、市民からの批判を恐れて、作品の変更を求めたものだろう。
この辺りの経緯は、1979年(昭和54年)に朝日新聞小樽通信局編で刊行された『小樽』にも詳しく紹介されている(「啄木の歌碑をめぐり逸話」)。
小樽市民の悪口とも言われる「かなしきは小樽の町よ」の歌が、市民投票で最高得点を獲得したという事実は興味深い。
昔の話でもあるし、多くの小樽市民は、あまり気にしていなかったということか(啄木滞在時から、既に半世紀近くが経とうとしていた)。
水天宮の石川啄木歌碑は、1980年(昭和55年)10月12日に建立された。
最初の歌碑(小樽公園)からほぼ30年が経過しているが、「かなしきは小樽の町よ」の歌に対する小樽市民の思いは強かったらしい。
あるいは、作品解釈が多様化する中で、「かなしきは」に対する小樽市民のアレルギーも、時代とともに薄れてしまったということなのだろうか。
ちなみに、1965年(昭和40年)に明治書院から刊行された『石川啄木(写真作家伝叢書3)』には、小樽日報社内で上司と喧嘩をしている啄木のイラストが掲載されていておもしろい。
小樽の人は、声ばかりでなく、行動まで荒かったのだ(啄木も他者を怒らせるタイプの若者ではあったが)。
水天宮へ向かう坂の傾斜はきついが、敷地内に駐車場があるので、自動車で訪れることも可能。
広い水天宮の敷地内の端っこに、ぽつんと啄木の歌碑が立っているのは、なんとなく寂しいような感じがした。
三角市場前(小樽駅前)の石川啄木歌碑
小樽市内で3番目となる石川啄木歌碑は、三角市場前にある。
三角市場は、JR小樽駅を出て、すぐ左隣にある市場だから、市内の啄木歌碑のうちでは、最もアクセスが容易な歌碑ということになる。
あまりに観光地すぎて、ここに啄木歌碑があることさえ、通り過ぎる観光客の視界には入っていないみたいだ。
三角市場前の啄木歌碑は、2005年(平成17年)10月23日に建立された。
札幌から小樽へ移住したとき、啄木は実姉夫婦の家に居候するが、義理兄(姉の夫)山本千三郎は、北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長だったことから、その官舎も、現在の三角市場付近にあったという。
碑面に刻まれた「子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな」の歌は、小樽を去るときに詠んだものと伝えられている(『一握の砂』所収)。
小樽駅前にはコインパーキングもあって、公共交通機関・自動車ともにアクセスは便利。
小樽駅を左に出て、坂の階段を上ると、すぐに三角市場がある(歌碑は石段を上ったところの左にある)。
三角市場の幟(海鮮丼とか書かれている)が、歌碑鑑賞の邪魔になっているが、海鮮丼の旗も含めて、小樽駅前の石川啄木歌碑ということだろう。
ちなみに、三角市場には、多くの食堂が入っていて、朝早くから北海道グルメを楽しむ人たちで賑わっている。
文学散歩の休憩場所として、有効に活用したい(この日はホッケ定食を食べた)。
やたらと観光化の進む小樽だが、実は、文学の街として充実した地域でもある。
北海道の人たちに愛された明治の歌人・石川啄木を巡る旅も、夏の北海道旅行にぴったりのテーマではないだろうか。