島崎藤村「夜明け前」読了。
本作「夜明け前」は、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで、年に四回ずつ『中央公論』に発表された長篇小説である。
完成の年、著者は63歳だった。
単行本は、1931年(昭和6年)1月に『第一部』が、1935年(昭和10年)11月に『第二部』が、それぞれ新潮社から刊行されている。
1935年(昭和10年)、朝日文化賞受賞(現在の朝日賞)。
島崎藤村の家の歴史
本作『夜明け前』は、江戸末期から明治初期にかけて、木曽馬籠の本陣・問屋の当主だった「青山半蔵」の生涯を描いた長篇小説である。
文明開化の時代背景が克明に書き込まれているため、歴史小説と呼ばれることも多いが、作品の主題となっているのは、歴史に翻弄されて生きる庶民の姿に他ならない。
島崎藤村の依頼を受けて、資料収集にあたった田中宇一郎に、著者は次のように語ったという。
「今度、私は少し長い物を書くつもりです。これは前々から考えていたんですが親父の経歴をしらべているうちに、その時代の空気を背景として僕の家の歴史を書いて見ようと思い立ちましてね。何しろ、お祖父さんの時代あたりまでも書き込もうとするんだから、随分長い物になるでしょう。さあ、どんなものになりますか」(田中宇一郎「回想の島崎藤村」)
藤村の予告どおり、『夜明け前』は、主人公の父親である「青山吉左衛門」が現役当主だった時代から始まる(吉左衛門は55歳として登場)。
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。(島崎藤村「夜明け前」)
日本の近代文学作品の中でも、つとに有名なものとなった冒頭の文章は、吉左衛門の時代の木曽路(東山道とも言った)を描いたものということになる。
背伐りの厳禁を犯した村民61人が宿役人へ預けられたとき、主人公の青山半蔵は18歳だった(「さあ、行った、行った──ここはお前達なぞの立ってるところじゃない」)。
本作『夜明け前』は、明治維新の時代に翻弄されて生きる青山半蔵の生涯を、克明に描いていく。
そもそも、アメリカから黒船がやってきた頃、半蔵は、新しい時代への希望を持つ若者の一人だった。
「こんな山の中ばかり引込んでいると、何だか俺は気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない」(島崎藤村「夜明け前」)
父親世代の吉左衛門や金兵衛(若年寄)などは、到底、文明開化などという革命の時代に対応できるはずもない(「何だか俺も遠くまで来たような気がする」「ああああ、俺も六十七の歳まで生きて、この世の末を見過ぎたわい」)。
新しい時代を支えるのは、紛れもなく、半蔵たち若者の世代だった。
新しい時代の論拠を「国学」に見出した半蔵は、平田鉄胤に弟子入りして、平田一門の門人となる(平田篤胤は既に故人だった)。
半蔵にとって、新しい時代の到来とは、「最も遠い古代へ帰る」ことを意味していたのだ(「王政の古に復することは、建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」)。
「話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘の黒船がこの国に着いたか知れない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教でも、空海でも──みんな、黒船ですよ」(島崎藤村「夜明け前」)
やがて、父親から本陣当主を受け継いだ半蔵は、本陣・問屋の立場から、明治維新へ参加することを決意する(「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道がある」)。
やがて、明治天皇による王政復古の大号令が発せられて、時代は、いよいよ古代へ帰るかのように思われたが、明治維新は、必ずしも、半蔵たち平田一門の望むようには進まなかった(「御一新がこんなことでいいのか」)。
問屋・本陣・庄屋の廃止に伴い、当主としての立場を失ったことで、半蔵の娘(お粂)の結婚が破談となり、祖母の持ってきた新しい縁談にも前向きになれないお粂は、とうとう自殺してしまう(自殺未遂)。
娘はまだ顔も腫れ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の相貌には、お民が驚きも一通りではない。(島崎藤村「夜明け前」)
娘の奇行は、国学に凝った父親(半蔵)の影響によるものと糾弾を受け、半蔵は、家長としての立場さえ失っていく(「これは俺の来べき路ではなかったのかしらん」)。
「これでも復古といえるのか」との疑念を強くした半蔵は、明治天皇の行幸に際し、自作の歌を書きつけた扇子を、馬車の中へと投げ込んだ。
その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情(こころ)が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままそこにひざまずいた。「訴人だ、訴人だ」(島崎藤村「夜明け前」)
半蔵は、継母(おまん)の意見を受け容れ、四十四歳で隠居の身となり、跡目相続である宗太に家督を譲った。
夢と希望に満ち溢れていた明治維新は、半蔵の生涯を、かくまで追い込んでいったのである(「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した」)。
夜明けを見ることなく狂い死にした青山半蔵
運命の扉を閉ざされた半蔵は、やがて、精神に異常を来してしまう。
「あ――誰か俺を呼ぶような声がする」と彼はお民に言ったが、妻には聞えないというものも彼には聞える。彼はまた耳を澄ましながら、じっとその夜の声に聞き入った。(島崎藤村「夜明け前」)
「第二部」後半で、克明に描き出されているのは、痛々しいくらいに発狂していく半蔵の姿だ。
「お民、もう何時だろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時の俺の心持はなかった。後方から何かに襲われるような気がして、実に気持が悪かった。さっさと俺は逃げて帰った」(島崎藤村「夜明け前」)
半蔵は、盛んに「敵」を気にするようになる(「俺には敵がある」「さあ、攻めるならせめて来い」)。
暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化物だ、と彼は考えた。(島崎藤村「夜明け前」)
「敵」であり、「化け物」であったものこそ、半蔵にとっては、かつて希望に満ち溢れていた明治維新という新しい時代だったのかもしれない。
とうとう、半蔵は、万福寺に放火をしたことで座敷牢に幽閉され、本物の気狂いとなった。
「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ」(島崎藤村「夜明け前」)
「おてんとうさま」(お天道様)とは、つまり、夜明けのことである。
文明開化と明治維新で、日本の夜明けは到来したかのように見えたが、青山半蔵にとっての夜明けは、まだ、ずっと先のことだったのだろう(ここに「夜明け前」という作品名の意味がある)。
享年五十六歳。
主人公(青山半蔵)は、座敷牢の中で狂い死にした。
明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いに膝をまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細な巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。(島崎藤村「夜明け前」)
歴史の教科書をめくると、新しい時代は、一瞬で到来したかのように読めるが、時代は簡単には移らなかった。
古い時代と新しい時代とが拮抗する世の中で、多くの若者たちが挫折していたのだ。
本作『夜明け前』は、時代の過渡期の中で挫折していった若者たちへ捧げるレクイエムとして読むこともできる。
その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方になった。すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく回りかけていた。(島崎藤村「夜明け前」)
もとより、主人公・青山半蔵は、島崎藤村の実父「島崎正樹」をモデルとした人物である。
しかし、過渡期を生きた若者たちの多くは、青山半蔵でもあったのではないだろうか。
1954年(昭和29年)に、さ・え・ら書房から刊行された『私たちの近代日本文学(ぼくたちの研究室)』に、次のような説明があった(石田佐久馬・著)。
どんなことがテーマとなっているかと申しますと、「夜明け前」という名が示しているように、新しい時代の夜明けともいうべき明治維新のころ、信州木曽路の馬籠の駅長をしていた青山半蔵の生涯をとおして、人間の理想がどのようにふみにじられていくか──時代の動きと人間のみじめな姿を描き出したものであります。(石田佐久馬「藤村と「夜明け前」」)
「人間の理想がどのようにふみにじられていくか──時代の動きと人間のみじめな姿を描き出したもの」とあるところに、『夜明け前』を読んだ読者の切なさが感じられる。
まだ、若かった頃、半蔵は、妻籠の本陣当主・寿平次(嫁の義兄)と、こんな会話をしていたことを思い出したい。
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる」「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか」(島崎藤村「夜明け前」)
青山半蔵の不幸は、結局のところ、「君はなんでも信じ過ぎる」というところにあったのだろう。
平田鉄胤を信じながら国学の可能性を信じ、明治維新を信じながら、新しい時代の到来を信じた(「一切は神の心であろうでござる」)。
信じすぎたが故に裏切られ、青山半蔵は、身を持ち崩してしまったのである。
「あの篤胤先生には『霊(たま)の真柱(まはしら)』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」(島崎藤村「夜明け前」)
新しい時代に裏切られ、夜明けを見ることもなく死んでいった青山半蔵の姿は、過渡期を生きた多くの若者たちの姿でもある。
そして、時代はいつでも過渡期であると考えたとき、『夜明け前』は、どの時代にあっても、若者たちに訴えかける力を持った文学作品だ。
本作『夜明け前』は、年寄りのための歴史小説ではない。
新しい時代を担う若者たちに向けて発せられた、激励のメッセージなのだ。
「さあ、もう一息だ」その声が墓掘りの男達の間に起る。続いて「フム、ヨウ」の掛け声も起る。半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広さ深さも要るとあって、掘り起される土はそのあたりに山と積まれる。強い匂いを放つ土中をめがけて佐吉等が鍬を打ち込む度に、その鍬の響が重く勝重のはらわたに徹えた。一つの音の後には、また他の音が続いた。(島崎藤村「夜明け前」)
最後の一文「一つの音の後には、また他の音が続いた」には、次の世代へと送る、世代間継承の意図が感じられる。
青山半蔵は死んでしまったかもしれないが、次の世代の若者たちが、日本の夜明けを作る(つまり、息子である島崎藤村たちの世代だ)。
そこに、この物語の、本当の意味があるような気がした。
明けない夜はない、と言う。
『夜明け前』もまた、やがて来たるべき「夜明け」への期待に満ちた物語だったのだ。
新潮文庫解説の三好行雄は、晩年の青山半蔵に、北村透谷『一夕観』へのオマージュが反映されていることを指摘している。
半蔵の終焉を書く藤村は父のなかに、若くして逝った友人北村透谷の面影を想起している。そのことは、たとえば第二部の十四章──発狂直前のある夜、隠居所の二階から夜空の星を眺める半蔵の深い物思いが、透谷の晩年の感想『一夕観』のほとんどそのままの口語訳なのを見ても明らかである。(三好行雄「『夜明け前』について」)
北村透谷もまた、新しい時代のうねりの中で挫折して、死んでいった若者の一人だった(発狂して自殺)。
青山半蔵や北村透谷の挫折は、新しい時代に対する挑戦の経過ではなかったか。
時代に裏切られて死んでいったとはいえ、「夜明け前」というタイトルには、将来への希望がある。
あるいは、島崎藤村もまた、新しい時代の到来を信じた、若者の一人だったのかもしれない(『桜の実の熟する時』や『春』の主人公・岸本捨吉のように)。
書名:夜明け前
著者:島崎藤村
発行:2012/06/20 改版
出版社:新潮文庫