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【名作考察】宮沢賢治「銀河鉄道の夜」人は、本当の幸福とは何かを探すために生きなければならない

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」あらすじ・感想・考察・解説

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」読了。

本作「銀河鉄道の夜」は、1934年(昭和19年)に文圃堂書店から刊行された『宮澤賢治全集 第三巻』に収録された短篇小説である。

生前未発表の作品であるため、完成稿はなく、初期系(第一次稿~第三次稿)と最終形(第四次稿)が発表されているが、近年刊行されるものは「最終形(第四次稿)」が基本となっている。

なお、著者の宮沢賢治は、1933年(昭和18年)9月に37歳で他界している。

銀河鉄道の旅は、喪失感を癒す脳内旅行だった

本作「銀河鉄道の夜」は、大きな喪失感を抱えた少年の自己救済の物語である。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの坐っていた席にもうカムパネルラの形は見えず、ジョバンニはまるで鉄砲玉のように立ちあがりました。そして誰にも聞こえないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」を行く旅の終わり、主人公(ジョバンニ)が、親友(カムパネルラ)に「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」と呼びかけたとき、カムパネルラの姿は、既になかった。

主人公は激しく慟哭するが、再び、現実世界へ戻り、たくましく生きていく(カムパネルラの死を知った後も)。

これ以上ない喪失体験に遭遇しながら、なぜ、主人公は生き続けることができたのか?

それは、銀河鉄道の旅行そのものが、主人公の喪失感を癒すための大きな救済となっていたからだ

ジョバンニの疎外感は、冒頭から描かれている。

ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニは眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

宇宙(銀河)に関する授業を受けながら、主人公は、持っている知識を、うまく説明することができない。

朝にも午後にも仕事は辛く、学校へ出ても仲間たちと遊ぶこともできない少年・ジョバンニ。

職場の活版所にも、主人公の居場所はなかった。

青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷たくわらいました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

自宅では、病気の母親が、一人寝ていた。

「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ」「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの」「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ」「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない」「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈がないんだ」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

北方へ漁に出かけているらしい父の不在が、少年が抱える喪失感の大きな要因となっている。

それは、川へ烏瓜を流すケンタウルス祭の夜だった。

宮沢賢治の故郷(花巻)では、お盆に北上川へ灯火を流す風習があったという(「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」)。

「ザネリ、烏瓜ながしに行くの」ジョバンニがまだそう云ってしまわないうちに、「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ」その子が投げつけるようにうしろから叫びました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

クラスメートのザネリは、「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ」と言って、お父さんのいないジョバンニをからかう。

さらに、お母さんのための牛乳を受け取るために牛乳屋へ行くと、ここでも主人公は、軽くあしらわれてしまう。

「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰いにあがったんです」ジョバンニが一生けん命勢いよく云いました。「いま誰もいないのでわかりません。あしたにして下さい」その人は、赤い眼の下のとこを擦りながら、ジョバンニを見おろして云いました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

結局、改めて牛乳屋を訪れる約束をして、再び町へ戻ると、そこでも主人公は、クラスメートたちと遭遇する。

「川へ行くの」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ」さっきのザネリがまた叫びました。「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ」すぐみんなが、続いて叫びました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

積み重なっていく疎外感を抱えて、主人公は黒い丘へ走り、冷たい草の上に体を投げて、大きな星空を見上げる。

ここから始まる「銀河鉄道の旅」は、一種の脳内旅行だったと考えられる。

主人公が持つ喪失感を、主人公自身の心が癒そうとしていたのだ。

銀河鉄道の旅は、親友(カムパネルラ)とともに始まる。

「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ」カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまっていました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

主人公に心の浄化を促すのは、列車で同乗する人々だ。

列車の中で、最初に出会ったのが、親友のカムパネルラだった。

「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」と、自問自答するカムパネルラ。

この先、「本当の幸(さいわい)」という言葉が、数々のエピソードをつなぐ役割を果たしていく。

つまり、銀河鉄道の旅は、「本当の幸」探しの旅だったということだ。

白い十字架(北十字)を通りすぎるとき、旅人たちが唱える「ハルレヤ、ハルレヤ」の言葉は、キリスト教の敬虔な祈りをイメージさせる効果を上げている(「ハレルヤ」ではない)。

なお、「カムパネルラ」や「ジョバンニ」といった名前は、作者が南欧をイメージして付けたものらしい。

「どんなのだス」「銀河旅行ス」「ワア、銀河旅行すか、おもしろそうだナ」「場所は南欧あたりにしてナス。だから子供の名などもカンパネラという風にしあんした」(菊池武雄「『注文の多い料理店』出版の頃」)

北十字星(はくちょう座)から南十字星(みなみじゅうじ座)までをたどる銀河鉄道の旅は、南ヨーロッパのイメージとともに生まれたのだ。

本当の幸せとは何か?

「いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」と言ったカムパネルラの言葉をきっかけとして、主人公(ジョバンニ)は、本当の幸せについて考え始める。

白鳥の停車場で降りたプリシオン海岸では、牛の先祖(ボス)の化石を掘り出す大学士と出会い、白鳥区では「鳥捕り」と出会う。

「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

旅人であるジョバンニやカムパネルラとは違って、鳥捕りは「どこへも行けない人」である。

死んだカムパネルラが成仏の旅をしていると考えるとき、鳥捕りは「成仏できない人」を象徴しているとも言える(「ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました」)。

そんなことを一一(いちいち)考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「本当の幸い」というカムパネルラの呟きは、ここからは主人公(ジョバンニ)自身の言葉として機能していく。

どこにも行けない鳥捕りは、いつの間にか姿を消して(鷲の停車場)、入れ替わるように三人組が現れる(家庭教師の青年、12歳の少女かおる、6歳の少年タダシ)。

黒服の青年は「わたくしたちは神さまに召されているのです」と囁き、二人の子どもたちを慰める。

「わたしたちはもうなんにもかなしいことなどないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂いがよくて立派な人たちでいっぱいです」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

氷山に衝突して沈んだ旅客船に乗っていた彼らは、救命ボートを幼い子どもに譲って命を落としたのだ(タイタニック号の沈没事故は1912年)。

それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

自己犠牲の精神を発揮して死んだ彼らは、ザネリを助けるために死んだカムパネルラの姿と重なる。

さらに、主人公は、遠い北方の海で働いている人たちにまで、救いの想像を広げていく。

ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

いくつもの疎外感を抱え、ただただ病気の母の幸福を祈っていた主人公(ジョバンニ)が、いつの間にか、遠い異国の地で働いている人の幸せを祈るまでに回復している。

主人公の変容をもたらすきっかけとなったのは、「いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」と言った、カムパネルラのつぶやきだった。

燈台看守が、同乗者たちに苹果(りんご)を配るころ、カムパネルラは女の子(かおる)と仲良くなる。

主人公(ジョバンニ)が、少女(かおる)に感じた嫉妬は、疎外感からの解放を求める祈りだ。

「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているしぼくはほんとうにつらいなあ」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「ほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか」という主人公の願いは、喪失感からの救済願望を暗示しているが、もちろん、どこまでも一緒に行ける人はいない。

「どこまでも一緒に行ける人はいない」という人生の真実を知ることこそが、主人公にとっての救いだったからだ。

やがて、自己犠牲の象徴とも言うべき「蠍の火」が見えてくる。

「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずにどうかこの次にはまことのみんなの幸のためにわたしのからだをおつかい下さい」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

カムパネルラ、沈没事故で死んだ三人組、そして、蠍の火。

彼らの犠牲体験は、主人公の心を確実に浄化していたらしい。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」「うん。僕だってそうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」とあるのは、この物語のクライマックスである。

弱さを克服しようとする少年の覚悟が、「ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という言葉に象徴されている。

そして、直後に語られている作者からのメッセージ。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」ジョバンニが云いました。「僕わからない」カムパネルラがぼんやり云いました。「僕たちしっかりやろうねえ」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

この物語で、作者が伝えたかったことは、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という読者への問題提起である。

本当の幸福とは、いったいどんなものなのか?

それを考える旅こそ、人生というものだということを、作者は伝えたかったのだ。

だから、「本当の幸せは何か?」という問いに対する答えは、作品中には書かれていない。

それは、この物語を読んだ読者に対する、著者からの宿題なのだ。

おそらく、答えは「人生の数だけ」あるだろう。

ただし、その根本にあったものは、「ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という、あのジョバンニの誓いだったのではないだろうか。

「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

「あんな大きな暗(やみ)」とあるのは、主人公の心の闇であり、人生の闇でもあった。

「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」と、ジョバンニは誓う。

自分の幸福ではなく、家族の幸福でもなく、みんなの幸福を探しに行くことこそが、自分に与えられた使命だと気づいたからだ。

そして、気づきを得た瞬間、カムパネルラの姿は消えた。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの坐っていた席にもうカムパネルラの形は見えず、ジョバンニはまるで鉄砲玉のように立ちあがりました。そして誰にも聞こえないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)

誰かと、どこまでも、一緒に行くことはできない。

激しく号泣した少年は、しかし、夢から目覚めたとき、新しい自分に生まれ変わっていたに違いない(夢を通した成長体験)。

現実世界に戻った主人公は、カムパネルラが、友人(ザネリ)を助けるために、川で溺れて死んだことを知る。

素晴らしいのは、死んだカムパネルラのお父さん(博士)だろう(「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」)。

博士は、ジョバンニのお父さんから便りがあったことを明かし、今日あたりもう帰ってくるだろうと予言する。

主人公にとって喪失感の象徴だったお父さんが戻ってくるという予言は、銀河鉄道の旅で得た救いを具象化するものと言える。

その予言を与えてくれた博士は、たった今、息子を亡くしたばかりの父親だった。

あるいは、博士こそが、「みんなのほんとうのさいわい」を知っている大人だったのではないだろうか。

様々な形で現れる登場人物は、それぞれ著者の投影として読むことができる。

同時に、それは読者自身の姿でもある。

鳥を殺して商売にしている鳥捕りも、イタチから逃げたサソリも、読者の心の中に潜んでいるのだ。

逆に言うと、ジョバンニが手に入れた「緑色の紙(ジョバンニの切符)」は、誰もが持っているということでもある。

人は、本当の幸福とは何かを探すために生きなければならない。

この物語に込められたメッセージは、つまり、そういうことだったのだろう。

現在の「最終形(第四次稿)」が定着するまで、一般に流通する文庫本には、「初期形(第三次稿)」による『銀河鉄道の旅』が収録されていた(1980年代以前)。

ブルカニロ博士が登場する「第三次稿」では、自己犠牲の精神が強調されているものの、物語のプロットを、ブルカニロ博士が分かりやすく解説してくれている(「本当の神さま論争」についての見解も示されている)。

読み比べてみることで、新たな発見があるかもしれない。

作品名:銀河鉄道の夜
著者:宮沢賢治
書名:宮沢賢治コレクション1「銀河鉄道の夜──童話Ⅰ・少年小説ほか」
発行:2016/12/25
出版社:筑摩書房

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。