村上護「反骨無頼の俳人たち」読了。
本書は、2009年(平成21年)に刊行された俳人列伝である。
社会に反抗するプロレタリア運動の俳人たち
書名にある「反骨無頼の俳人」とは何か?
定義は不明だが、帯には「激動の昭和を生き貫いた反骨の俳人十人」とある。
編者による前書きを読むと「いわゆる花鳥諷詠派ではない。虚子の勢力範囲の及ばぬところで句作活動をした俳人たちである」という文章が見つかった。
ざっぱくに言えば、俳句の世界で保守本流ではない人たちということだろうか。
最も分かりやすいのは、プロレタリア俳句運動の担い手として活動した<栗林一石路>だろう。
戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ
もう痛いといわなくなった顔おこし水枕をはずす
長い戦争がすんだすだれをかけた
どの作品も散文のように自由で季語がない、無季自由律俳句だが、栗林一石路という俳人最大の特徴は、俳句を詠む、その精神にあるようだ。
『層雲』の自由律俳句をへてプロレタリア俳句へ、それから、戦時中の弾圧をうけて戦後の民主的俳句運動へと、いわばわたしは俳壇のいちばん左側を歩いてきたわけである。(栗林一石路「栗林一石路句集」)
「わたしは俳壇のいちばん左側を歩いてきた」などという文章を読むにつけ、「反骨無頼の俳人」というテーマが理解できるような気がする。
同様のことは、<橋本夢道>の作品からも感じられる。
死亡室の白布の下の死顔もう一度見たい母が叱られる
妻よたった十日余りの兵隊にきた烈しい俺の性欲が銃口を磨いている
おいら娘を売ったまでよ、今年も日照らぬ田よ寒むかんべ
二人とはない妻と二つとはない世にいて子をあるかせる
死ぬ前妻子が養える月給をとりたいと言った
メインストリームでは見られないほど主観的な作品が多い。
「烈しい俺の性欲が銃口を磨いている」なんて凄い表現だと思うけれど、少なくとも、俳句の世界で出会えるような言葉でないことは確かだろう。
俳句の形式をとおして自由に歌いたい。いまもなお抵抗しなければならない。かかる民族の文学までに発展してきたことは、たのもしいことであるが、それを、さらにつみかさねたのが、私の夢道俳句であると思っている。(橋本夢道「無礼なる妻」)
なるほど、本書の「反骨無頼の俳人」というのは、社会に反抗するプロレタリア運動の俳人たちのことなのかと思ったら、それはちょっと違うようだ。
藤木清子や片山桃史のような無名の俳人
例えば、<三橋鷹女>の作品に「一枚二十銭の絵を売り食へり凍ての朝餉」があるが、貧しい絵描きをモチーフにしているが、ここにあるのは資本主義社会への憎悪ではない。
作者が感じているのは、一枚二十銭の絵を売りながら生活している貧しい絵描きへの、温かい共感である。
鷹女の代表的な作品と言えば「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」を思い出すが、「一枚二十銭」の句にも、そうした女の匂いが感じられると言ったら、深読みしすぎだろうか。
少なくとも、鷹女に「反骨無頼の俳人」という装飾語は似合わないと思った。
近年になって再評価が進んだ<鈴木しづ子>は、社会の底辺で生きる女性の逞しさを生々しく詠んだ作品で有名だが、「反骨無頼の俳人」というイメージにはならない。
そう言えば、当時、この本を買った理由は、鈴木しづ子が紹介されているからだったような気がするが、少なくとも他の9人の俳人と鈴木しづ子とは、あまり馴染まないように感じた。
人気俳人・西東三鬼も「反骨無頼の俳人」というキャッチフレーズで登場されると、ちょっと戸惑ってしまう。
「算術の少年しのび泣けり夏」のように、繊細な感性を発揮した三鬼に「反骨無頼」という表現は使いたくない(その生き様は無頼ではあったにしても)。
もしかすると、本書は、石川桂郎の『俳人風狂列伝』を意識したものなのかもしれないが、「反骨無頼」というテーマでまとめるには、とりとめのないもののように思われる。
「戦死せり三十二枚の歯をそろへ」の句を遺した藤木清子や片山桃史のような無名の俳人を採りあげているところが、ポイントと言えばポイントだろうか。
「金銭(かね)貸してくれない三日月をみてもどる」の借金俳人・冨澤赤黄男や、「離農者や残す一墓を抱き洗う」の開拓俳人・細谷源二は、個人的には好きな俳人である。
書名:反骨無頼の俳人たち
著者:村上護
発行:2009/12/25
出版社:春陽堂