文学鑑賞

サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」暴かれる人妻の心の闇

サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」あらすじと感想と考察

サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」読了。

本作「コネティカットのひょこひょこおじさん」は、1948年(昭和23年)3月『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。

この年、著者は29歳だった。

作品集としては、1953年(昭和28年)にリトル・ブラウン社から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に収録されている。

楽しいことを言って笑わせてくれた優しい元カレの思い出

本作「コネティカットのひょこひょこおじさん」は、郊外に住む中流家庭の主婦の、心の闇を描いた作品である。

『ナイン・ストーリーズ』に収録されている作品の多くは、オシャレで切ない大人の青春小説だが、「ひょこひょこおじさん」はとりわけ切ない作品だ。

若き人妻<エロイーズ>の孤独を浮かび上がらせる仕掛けは二つあって、ひとつは、大学時代の友人<メアリ・ジェーン>とのガールズトークである。

二人は1942年(大学2年生のとき)に大学を中退しているから、1948年現在で25才くらいの女性だと推測される。

久しぶりに再会した二人は、酒を飲みながら、昔の仲間たちの思い出話で盛り上がる。

やがて、酔ったエロイーズの口から出てきたのが、死んだ元カレ<ウォルト>の思い出話だった。

「ウォルトはね、あのときみたいにあたしを笑わしてくれるんだ。話をしてるときがそうなんだな。電話でも手紙の中でもそうなんだ。何よりもよかったのはね、あの子は意識しておかしくしようとしないんだよ──あの子そのものがおかしいんだ」(サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」野崎孝・訳)

エロイーズが足首を挫いたとき、ウォルトは「かわいそうなひょこひょこおじさんだな」と言って慰めてくれる。

<ひょこひょこおじさん>は、ハワード・ギャリスの連作童話に登場する主人公の名前。親切な年寄り兎で、リュウマチの脚を嘆いている。

ウォルトは、「おじさん(アンクル)」と「足首(アンクル)」という言葉に引っかけて、エロイーズを慰めてくれたのだが、「コネティカットのひょこひょこおじさん」という滑稽な作品タイトルは、エロイーズにとって、楽しいことを言って笑わせてくれた、優しい元カレ・ウォルトの思い出そのものとなっている。

優しかったウォルトの思い出は、やがて、面白みがなく、知性も教養もない現在の夫<ルー>に対する不満へとつながっていく。

「ルーはユーモアのセンスないの?」と、メアリ・ジェーンは言った。「ええ?」「ルーはユーモアのセンスないの?」「やめてよ! でも、どうかな? うん、あるんだろうね。漫画や何か見て笑ってるもの」(サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」野崎孝・訳)

傍目には満ち足りた生活を送っているように見えたエロイーズ(中流家庭の主婦の象徴)も、心のうちでは、満足できない生活の中で、大きな孤独を抱えていたのである。

ちなみに、後の作品において、ウォルトは、「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺するシーモア・グラスの弟であることが明らかにされる。つまり、「コネティカットのひょこひょこおじさん」も、一連のグラス・サーガを構成する作品の一つだったのだ。

妄想彼氏を連れた幼い娘との会話

エロイーズの心の闇を露呈させる、もう一つの仕掛けは、イマジナリーフレンドを有する娘<ラモーナ>との会話である。

幼いラモーナには<ジミー・ジメリーノ>という妄想彼氏がいるが、ウォルトが事故死した話を立ち聞きしたと思われる直後、ジミーは車に轢かれて死んでしまったと話す。

エロイーズは取り合わないが、ラモーナが新たな妄想彼氏<ミッキー・ミケラーノ>の話を始めたとき、突然に感情を爆発させる。

死んだ恋人の補充を簡単に登場させたラモーナの言葉を聞いた瞬間、エロイーズはウォルトの代わりを見つけることはできない自分の孤独と、まともに向き合うことになったからだ。

興奮したエロイーズは、乱暴にラモーナを寝かしつけるが、暗闇の中でベッドに脚をぶつけたとき(足首を挫いたときのことを思い出したのだろう)、優しかったウォルトと一緒に過ごした日々のことを思い出す。

彼女はラモーナの眼鏡を手にとった。そして両手で握りしめて固く頬に押し当てた。涙があふれ出て、眼鏡のレンズを濡らした。「かわいそうなひょこひょこおじさん」何度も何度も繰り返して彼女はそう言った。(サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」野崎孝・訳)

しかし、おかしなことを言って、自分を笑わせてくれるウォルトは、もういない。

物語の最後に、エロイーズはメアリ・ジェーンに「あたし、いい子だったよね?」と泣きながら訴えるが、それは、物語の前半で「あんた、ずいぶん冷たい女になったわねえ」と言われたエロイーズとは別人のようでさえある。

昔話と酔いと時間が、彼女の心をゆっくり溶かし、露になった心の闇にラモーナの妄想彼氏が光を当てた。

幸せそうな中流家庭の光と影を、この小説は見事に浮き彫りにさせているが、こうした作品を読むと、「サリンジャーは優れた短編小説作家だ」という評価の意味が分かるような気がする。

ちなみに、コネティカット州は、ニューヨーク州に隣接しており、最も人口の多いブリッジポートからニュークまでは、約100キロメートル(「ニューヨーク大都市圏」とも呼ばれる)。

当時、サリンジャーは、コネティカット州スタンフォードに暮らしており、郊外に住む中流家庭という新興階級に大きな興味を持っていたらしい。

作品名:コネティカットのひょこひょこおじさん
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。