文学鑑賞

マーク・トウェイン「トム・ソーヤの冒険」小さな田舎町で生まれたアメリカン・ドリーム

マーク・トウェイン「トム・ソーヤの冒険」小さな田舎町で生まれたアメリカン・ドリーム

マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」読了。

本作『トム・ソーヤーの冒険』は、1876年(明治9年)に刊行された長篇児童文学小説である。

この年、著者は75歳だった。

トム・ソーヤーは、アメリカン・ドリームの体現者だった

本作『トム・ソーヤーの冒険』は、一人の少年に託して描かれたアメリカン・ドリームの物語である。

そもそも、主人公の少年(トム・ソーヤー)は、大人にとって(特にポールおばさんにとって)、手の付けられない腕白坊主だった。

敬虔なるキリスト教信者であるポールおばさんは、トムを正しい道へ導こうと、日々の生活指導に努めるが、トムが生活態度を改めようとする傾向は、まったく伺えない。

トムは、厳しいポールおばさんも、ほとほと手を焼く、困った少年だったのだ。

「仕事って、何が?」「何がって、それ、仕事じゃないのか?」トムはペンキ塗りを再開しながら、さらりと言った。「これ? まあ、仕事と言えば仕事かもしれないし、仕事じゃないと言えば仕事じゃないかもしれないし……。どっちにしても、トム・ソーヤーにふさわしい、ってことだけは言えるだろうな」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

ポールおばさんに命じられたフェンスのペンキ塗りという嫌な仕事だったが、トムは、巧みな言葉で子どもたちを誘導して、彼らが自発的にペンキ塗りを申し出てくるように仕向ける(しかも、報酬を受け取って)。

フェンスのペンキ塗りは、『トム・ソーヤーの冒険』で最も有名なシーンだが、庄野潤三『ピアノの音』(1997)にも、この場面が引用されている(妻がジップの犬小屋を塗る場面)。

刷毛を手にした妻は、「トム・ソーヤーの気分で」という。『トム・ソーヤーの冒険』は、トムがおばさんに言いつけられて庭の柵のペンキ塗りをする場面から始まる。もっとも、こちらはこの小説を全部読み通したことはない。ただ、トムがペンキ塗りをやらされる場面から始まることしか知らない。(庄野潤三『ピアノの音』)

決して学校の勉強が得意というわけではないが、トムは、知恵の働く少年だった。

だからこそ、クライマックスの洞窟探検で、ガールフレンド(ベッキー)と道に迷ってしまったときも、冷静な判断で脱出することができたのだ。

トム! わたしたち迷子になっちゃったのね、道がわからなくなっちゃったのね! もう、この恐ろしい場所から二度と出られないんだわ! ああ、なんでみんなと離れたりしたんだろう!」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

知恵とともにトムが持っていたもの、それは、勇気だ。

ミシシッピ川を下って無人島(ジャクソン島)へ家出したときも、墓場で目撃したインジャン・ジョーの殺人を裁判で証言したときも、トムを支えていたのは勇気だった。

知恵と勇気が、トム・ソーヤーという少年のサクセス・ストーリーを培っている。

そして、もうひとつ大切なことは、トム・ソーヤーが、誰かの役に立ちたいという献身的な正義を、心の片隅に持ち続けていたことだろう。

もしかして自分はとんでもないことをしたのではないか、という思いが浮かんできた。だんだん心が重く苦しくなってきて、思わずため息がもれた。(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

長い家出の間も、少年たちは家族の心配を想像して、良心の呵責に責められている。

心の底で、トムは家族(ポールおばさん)を愛していたし、彼女がなぜ自分に厳しい生活指導を課しているのかということも、理屈では分かっていたのだ。

トム・ソーヤーが最後には成功者となるにあたっては、知恵や勇気、そして正義といった基本的な人間性が、それを支えていたということが、この物語では示されている。

一方で、トムは、人間としての弱さも、同時に身に付けていた。

トムの心は決まった。暗く絶望的な気分だった。ぼくは見捨てられ、友だちもいないんだ、と、トムはつぶやいた。僕を愛してくれる人なんか、一人もいない。みんな、自分たちがぼくをこんなふうに思いつめたと知ったら、たぶん、すまないことをしたと後悔するだろう。(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

悲劇の主人公になりきって、トムは、妄想の世界で遊ぶ。

少年の豊かな想像力は、被害妄想的とも言える悲観性の中で育まれていた(そのペシミスティックは、決して長くは続かなかったが)。

「ベッキー、さっきは意地悪してごめんね。もうぜったい、ぜったい、これから一生、あんなことしない。だから、仲直りしない?」ベッキーは立ち止まり、軽蔑の眼差しでトムを見た。「どうぞ、わたくしには一切おかまいなく、ミスター・トム・ソーヤー。二度と口もききたくありませんわ」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

ベッキーとの間で繰り広げられる恋の駆け引きは、大人の恋愛ドラマを観ているかのようだ。

「さあ、ベッキー、あと一つ、キスだけだから。怖がらなくていいんだよ。別に何でもないんだから。ね、ベッキー」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

裏を返すと、女性に対する積極性というのも、トムが持っている才能の一つだったということなのだろう。

ベッキーと二人、洞窟からの脱出に成功し、インジャン・ジョーの隠した財宝を手に入れたトムは、富と名声と美しい女性のすべてを手に入れる。

トム・ソーヤーは、アメリカン・ドリームの体現者となったのだ。

トムの成功体験に至る日常生活には、多くのローカルな迷信が描かれているところもいい(蟻地獄とか尺取虫とか幽霊とか魔女とか天罰の雷とか水死体を探す大砲とか)。

非科学的な迷信が、人々の行動規範とさえなっていた時代の、小さなアメリカン・ドリーム。

そこに、時代を超えた人々が願う幸せへの祈りが見える。

本当の主人公はハックルベリー・フィンだった

もっとも、本作『トム・ソーヤーの冒険』の本当の主人公は、トムの親友の浮浪児(ハックルベリー・フィン)だった。

まもなく、トムは村の浮浪児ハックルベリー・フィンに出くわした。ハックルベリーの父親は札付きの大酒飲みで、ハックルベリー本人も村じゅうの母親からことごとく毛嫌いされる存在だった。学校に行かずぶらぶらしていて、法を守らず、粗野で不良だからである。そのうえ、村の子供全員がこの浮浪児にあこがれ、この浮浪児との禁じられた交遊を熱望し、この浮浪児のようになりたいと願っていたからである。(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

ハックルベリー・フィンは、自由に生きる存在の象徴である。

トム・ソーヤーとの財宝探しに成功して、アメリカン・ドリームを手に入れたハックルベリーは、元の自由な生活に戻ることを選ぶ。

「そんなの関係ねえよ。おれ、『誰でもみんな』じゃねえもん。おれは、がまんできねえ。窮屈すぎて最悪だよ」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

ダグラス夫人の与えてくれる洋服や食事や学校生活は、ハックルベリーにとって、窮屈な生活でしかない。

なあ、トム、金持ちなんか、ちっとも良くねえや。やなことばっかで、苦しいことばっかで、こんなんなら死んだほうがましだって思いたくなることばっかでさ。(略)トム、おれ、あの金さえなけりゃ、こんな面倒にはならずにすんだのによ。おれの分、おまえにやるよ」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンは、同じものを手に入れながら、それぞれ違う未来を見ていたらしい。

「冗談じゃねえや、おれは金持ちなんかごめんだ。あんな息もできねえ家なんかごめんだ。おれは森や川が好きなんだ。大樽ん中で寝るのが好きなんだ。それを変える気はないね」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

そもそも、トム・ソーヤーが憧れていたものも、ハックルベリーの、こうした自由な生き方ではなかったか。

「ぼく、こういうふうになりたかったんだ」トムが言った。「毎朝起きなくてもいいし、学校も行かなくていいし、顔洗ったりとか馬鹿みたいことしなくていいし。だってさ、ジョー、海賊は何もしなくていいんだよ」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

富と名声のアメリカン・ドリームと、自由な放浪生活とは、どうやら両立するものではなかったらしい。

愛した女性を幸福にするためにも、男には、十分な富と名声が必要だったのだ。

なあトム、女なんか、みんな同じだと思うよ。女はみんな引っかくんだから。悪いこと言わねえから考えなおせ。で、そのネエちゃん、何て名前なんだ?」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

女性に関心のないハックルベリーには、富も名声も不必要なものだった。

ここに、ハックルベリー・フィンの真摯な生き方がある。

あいつはすごくいいニガーだよ。おれのことが好きなんだ。おれ、あいつより上等の人間みたいにいばったりしないからさ。ときどき、一緒に並んで座ってめし食うことだってあるんだ。人には言うなよ」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

自由に生きるといういうことは、社会のルールに縛られないで生きることを意味する。

当時の社会ではタブーとされていた黒人との交際も、ハックルベリー・フィンにとっては、自由な生活の一部だったのだ。

新しい保護者となったダグラス夫人の家庭から脱走を試みたハックルベリーは、トム・ソーヤーに説得されて、将来、トムと一緒に一流の海賊になるため、立派な大人になることを決意する。

「おもしろくなってきたぞ!(略)おれ、何が何でもダグラスのおばさん家でがんばるよ、トム。そんで、おれが一流の盗賊になって、みんなが噂するようになったら、ダグラスのおばさんもおれを引き取ってよかったって思ってくれるだろうしな!」(マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」土屋京子・訳)

大人の社会にはない価値観が、ハックルベリー・フィンの中にはある。

そして、こうしたハックルベリーの自由な生き方こそが、本作『トム・ソーヤーの冒険』を本質的に支えている、少年たちの強さだったのだ。

自由な生活に憧れを抱きながら、女性にも名声にもお金にも目がないトム・ソーヤーは、堕落した現代人の象徴とも言える。

この物語の主人公はトム・ソーヤーだったけれど、一番輝いているのは、やはり、ハックルベリー・フィンだったのではないだろうか。

書名:トム・ソーヤーの冒険
著者:マーク・トウェイン
訳者:土屋京子
発行:2012/06/20
出版社:光文社古典新訳文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。