文化庁の調査では、今年も日本人の読書離れの加速が確認された。
「月に一冊も本を読まない人」の割合が、全体の6割を超えたのだ。
読書離れの傾向は「若者」に限ったものではない。
三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)が話題になるなど、読書離れはビジネスマンにも顕著な傾向となっている。
このような時代、ビジネスマンは、どのようにして読書量を確保していくべきなのか。
毎月10冊以上の本を読んでいる自分の読書生活を振り返ってみた。
読書はタイム・マネジメントとの戦いだ
2024年(令和6年)10月に、僕が読んだ本を挙げてみよう(ブログに読書感想を書いている)。
小沼丹『銀色の鈴』、平中悠一『アーリィー・オータム』、トルストイ『戦争と平和』(全6冊)、井伏鱒二『おこまさん』、夏目漱石『三四郎』、中公文庫『中央線随筆傑作選』、氷室冴子『クララ白書』(全2冊)、島崎藤村『新生』(全2冊)。
冊数で数えると、10月の一か月間で「15冊」の本を読んだことになる。
文化庁『国語に関する世論調査』(令和5年度)の結果では、1か月に「7冊以上」本を読む人の割合は「1.8%」なので、自分は、この「1.8%」に属するレアキャラだ。
僕は、どうして1か月に「15冊」の本を読むことができたのだろうか。
文化庁調査の「読書量が減っている理由」に照らして考えてみよう。
文化庁の調査によると、「読書量が減っている理由」の第1位は「情報機器(スマートフォン等)に時間が取られる」だが、自分の場合、メルカリやヤフオク以外で、スマホを使う時間はほとんどない(メルカリとヤフオクは本を入手するために必要なツール)。
毎朝、『北海道新聞』電子版をアプリで読むくらいで、ニュースサイトもあまり読まないから、情報機器に時間を取られるということはない。
次に、第2位は「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」だが、現在、読書の妨げになるほど、仕事に時間を取られている状況ではないことは確かだ。
30代から40代にかけて、毎日4時間の睡眠時間を確保するのも難しいほど、仕事に熱中した時期もあったが、本を読まないビジネスマンは、みんな本当にそれほど忙しいのだろうか(この働き方改革の時代に)。
自分は、朝食前に「1~2時間程度」の読書時間を確保し、就寝前に「1~2時間程度」の読書時間を確保している。
往復「1時間30分」の通勤時間も読書タイムに充てているので、平日は黙っていても毎日「3~4時間程度」の読書時間を確保することができる。
週末は、朝と夕方にブログを書くほか(アウトプット)、買い物に出かけたり、映画を観たりしているから、読書時間は平日とほぼ同じ「3~4時間程度」。
普段から読書をしている生活なので、むしろ、週末くらいは読書から頭を解放してやる時間も必要と考えているので、できるだけ週末には難しい本を読まない。
ただし、『戦争と平和』や『カラマーゾフの兄弟』『アンナ・カレーニナ』のような長い文学作品を読んでいると、「空白期間を作りたくない」という気持ちも手伝って、週末も本を読み続けることになってしまう。
週末に読書をしない方針を立てると、一週間の読書リズムが自然とできあがる。
200ページの文庫本は二日で一冊、500ページの文庫本なら、五日で(つまり、平日の一週間で)一冊程度の小説を読むことができる。
もっとも、要点や感想を、その都度メモに取っているので、難しい小説を読むと、どうしても時間がかかってしまうことにはなるのだが(後でブログを書くときに必要となる)。
僕は、毎朝「6時30分」に家を出て、「19時30分」に帰宅するから、自宅で過ごす時間は「計11時間」ということになる。
そのうち、睡眠時間が「6時間」とすると、残りの「5時間」を自分の自由時間に充てることができるわけで、時間を有効に使うと、1日「4時間」の読書時間を確保することは、特別に難しいことではないことが分かるはずだ(バンプじゃないけれど、通勤時間という「おまけみたいな時間」もある)。
仕事の飲み会に時間を取られるのも惜しいが、時間を最も無駄に消費する方法は、スマホゲームやテレビなどの誘惑だろう。
自分は、普段、朝と夜の「NHKニュース」以外のテレビは観ないが、阪神タイガースが優勝争いをしている時期は、どうしても野球観戦が多くなってしまった(だから、9月は読書量が少ない)。
テレビやゲームで3時間の時間を消費してしまうと、読書時間を確保することは、まず不可能だ。
藤原和博『本を読む人だけが手にするもの』(2015)では、パチンコやケータイゲームをする人は、時間をマネジメントする発想が欠如していると、明確に指摘している。
パチンコは非生産的な行為だ。平気で非生産的な行為に時間を浪費する人に、時間に対するマネジメント能力があるとは思えない。(略)時間のマネジメントができない人は、時間あたりに創出する付加価値が低くなってしまうため、真っ先に労働市場から淘汰される。(藤原和博「本を読む人だけが手にするもの」)
別に、パチンコやゲームを悪者とは思わないが、大切なことは、限られた時間を何に投資するか?ということではないだろうか(つまり、タイム・パフォーマンスだ)。
1日「24時間」という時間は、誰にも公平に与えられたもので、「24時間」をどのように活用するかというところに、ビジネスマンとしての(あるいは社会人としての)資質が求められている。
仮に仕事量が多ければ、読書時間を確保する発想に立って、仕事を効率的に処理する工夫をすることも必要だろう(これも自分マネジメントのひとつ)。
昼休みに昼寝する時間があるくらいなら本を読んだ方が良いし、通勤電車の中で動画を観て過ごすくらいなら、文庫本を読んで過ごすべきなのだ。
現代人にとって、読書は、タイム・マネジメントとの戦いである。
もちろん、闇雲にたくさんの本を読めば良いというわけではない。
冊数以上に大切なことは、何を読んだか?ということだからだ。
読みたい本をすべて読んでから死ねる人生なんて、世の中にはない
書評サイト『千夜千冊』で人気の松岡正剛が書いた『多読術』(2009)には、たくさんの本を読むノウハウが紹介されている。
ぼくは人生の多くを読書とともに歩んできましたが、それは生活面でも思考面でも、経済面でもそうしてきたということです。計算したことなんてありませんが、ぼくの人生コストは本代になっているパーセンテージが圧倒的に高いと思います。(松岡正剛「多読術」)
この本で、著者は、いかにたくさんの本を読むかということを解説しているが、多く読むこと以上に注目すべきは、「無駄な本を読んでいない」ということだろう。
仕事に関係があるからといってビジネス書をたくさん読んでも、本好きの人は、それを読書とは、あまり言わない。
1日に5冊も6冊も読めるようなビジネス書をたくさん読んだところで、それは、ほとんど教養にはならないからだ。
ハウツー本には探究する隙間がない。
ビジネス書に書かれているノウハウは、かつての日本人が大好きだった詰込み型の知識主義に根差しているので、気付きはあっても、そこから発展する探究はない。
大切なことは、自分の頭で考え、答えを導き出す、ということなのだ。
僕の愛読書の一冊に、駒井稔『文学こそ最高の教養である』(2020)という本がある。
光文社古典新訳文庫の編集部と共著したもので、大人は、なぜ本を読まなければいけないのかといったことの答えが、この中にはある。
小さな声でそっと言いますが、文学はすぐには役に立ちません。身も蓋もないことを言うようで恐縮ですが、すぐには役に立たないからこそ、極めて大切なものであり、教養として身に付けるべきものなのではないでしょうか。(駒井稔「文学こそ最高の教養である」)
促成栽培のようにインスタントな知識が欲しかったら、薄っぺらなビジネス書を読めばいい(それは教養とは呼べない)。
しかし、自分で考える力を身に付けて、本当に必要な教養を身に付けたいと思うなら、それは文学書を読む以外に方法はない。
文学とは、時代が認めた古典のことである。
30年後には世の中から忘れられているような小説は、文学とは呼ばない(と考えるしかない)。
村上春樹が、19世紀のロシア文学を勧めるのは、それこそ、時代が認めた古典であるからだ。
読書がタイム・マネジメントとの戦いである以上、無駄な本を読む時間はない。
それは、人生に残された時間との戦いでもある。
無駄な読書をするのは、学生のうちだけにして、社会人になったら、本当に必要な読書に専念すべきなのだ。
どんな読書家の人生も、限られた時間で作られている。
読みたい本を、すべて読んでから死ねる人生なんて、世の中にはない。
そして、そういう事実に、僕が気が付いたのは、人生も折り返し地点を過ぎた40代になってからのことだった。
もしも、自分の人生をやり直せるとしたら、僕は、もっともっとたくさんの本を読みたい。
日本の古典や世界の名作文学を読破するには、人間の一生は短すぎる。
50代となった今(そして、60代が近くなってきた今)、僕にできることは、優先順位を付けながら、できるだけ効率的に本を読むことだけだ。
NO BOOK NO LIFE。
どんなに、世の中の読書離れが進んでも、自分が読書を辞めることはないだろう。
世の中には、魅力的な文学書が、あまりにも多すぎるのだから。