阪田寛夫『童謡の天体』の中に「帝塚山の文化」という一篇がある。
1995年10月5日、帝塚山学院高等部PTAの会での講演を再録したものらしいが、阪田さんが在籍した時代の帝塚山学院の話から学院創設者である庄野貞一の話、さらには、貞一の息子たちである庄野英二、庄野潤三の話などが盛りだくさんである。
庄野潤三の昔話に興味がある方には、ぜひお勧めしたい。
庄野潤三さんが「桃李」という小説の中で、この校歌に言及しています。
庄野潤三さんが「桃李」という小説の中で、この校歌に言及しています。トウリとはモモ、スモモ「桃李もの言はざれども、下自づから蹊を成す」という言葉からきていますが、こういう題で、お父上である庄野貞一氏の事を書いている。「父の精神が自分の中にも育ったことを自覚する」という主題の、短い小説です。(阪田寛夫「帝塚山の文化」)
庄野潤三の「桃李」は、昭和29年6月号の「文学界」に発表された短編小説で、「黒い牧師」「団欒」とともに、昭和29年上半期の芥川賞候補となった(正確には「桃李」と「団欒」は参考作品)。
結局、このとき、庄野さんは芥川賞を受賞することはできなかった。ちなみに、受賞作は吉行淳之介「驟雨」ほか。
「桃李」は、庄野さんが芥川賞を受賞した直後に刊行された『プールサイド小景』に収録されている。
1953年(昭和28年)に33歳で東京支社へ転勤した庄野さんは、練馬の畑の中に一軒家を建てて、帝塚山を初めて離れたのだが、大阪から家族と家財を幌馬車に積み込むような気概で乗り込んだ武蔵野のフロンティアが、ちょうど亡き父が一家を率いて新しい学校を拓いた大正初めの帝塚山と重なったところで、「私」は母校である「T学院」の校歌を思い出す。
「昔の帝塚山をよく知っている人たちが口をそろえて、潤三さんが庄野貞一先生そっくりになってきた、というようになったのも、この頃からでした」と、阪田さんは回想している。
自分たちは兄弟三人、馬を並べて西部の平原を進むアクカンである
三男の庄野潤三さんは、むかし芥川賞受賞作を含む短編集『プールサイド小景』出版記念会の挨拶に、「自分たちは兄弟三人、馬を並べて西部の平原を進むアクカンである」と言いました。昭和30年のこの時すでに長兄鴎一氏は亡くなっていて、次兄英二さん、潤三さんに、末弟至さんが加わっての三人です。(阪田寛夫「帝塚山の文化」)
「帝塚山の文化」では、第1部として創設者である庄野貞一について話し、第2部として貞一の息子たちである庄野ブラザーズについての話が出てくる。
「アクカン」とは「悪漢」のことで、「悪ガキ」というような意味で、庄野さんは自分たち兄弟を表現したのかもしれない。
ここで、阪田さんは庄野さんの「兄弟」という短編小説を引用しながら、無口なスポーツマンで、格好良かった長兄鴎一について触れた後で、英二・潤三兄弟の様子についても振り返っている。
ちなみに、「兄弟」は、昭和24年「文学雑誌」に掲載された短編小説だが、作品集への収録はない。
当時の「文学雑誌」には、庄野英二・潤三兄弟の作品が掲載されていたらしい。
庄野潤三さんご夫妻と、帝塚山の英二さんのお宅へお参りに行ったとき、たまたまそこにユカリさんがいました。
庄野潤三さんご夫妻と、帝塚山の英二さんのお宅へお参りに行ったとき、たまたまそこにユカリさんがいました。ユカリさんは晴子さんの長女だから、英二さんのお孫さんです。よく看病なさっておじいさまが喜ばれたという話は、潤三さんの近著『さくらんぼジャム』で読んでいましたが、初めてお目にかかってびっくりしたのは声が柔らかくって、明るい。(阪田寛夫「帝塚山の文化」)
このときの講演会には、庄野英二さんの長女・晴子さんの長女であるユカリさんがゲスト参加していて、講演の合間合間で歌唱を披露していた。
この講演会のことは、庄野さんの『ピアノの音』でも紹介されている。
今度、十月五日に帝塚山学院高校PTAの総会に、卒業生の阪田寛夫が頼まれて講演をした。阪田の希望で、話の合間に歌を入れることになった。その歌を歌うのが、亡くなった私の兄英二の長女の晴子ちゃんの長女で、神戸女学院で声楽の勉強をしている小林由佳理。つまり、由佳理ちゃんのことを聞いていた阪田寛夫が、声楽家志望の由佳理ちゃんを引き立てて上げようと考えて、自分の講演に唱歌を入れることにしたのである。(庄野潤三「ピアノの音」)
つまり、帝塚山学院の創設者である庄野貞一の曾孫が、学院校歌を披露したわけだから、庄野さんも「こんなうれしいことはない」と綴っている。
帝塚山学院の思い出は、庄野貞一の思い出でもあり、庄野英二・潤三という兄弟の思い出でもある。
この日の講演は、阪田さんのそんな愛情がしっかりと伝わってくるものだった。
書名:童謡の天体
著者:阪田寛夫
発行:1996/10/25
出版社:新潮社