読書体験

ロバート・B・パーカー「約束の地」遠くからは美しく見える人生にも汚い部分はある

ロバート・B・パーカー「約束の地」遠くからは美しく見える人生にも汚い部分はある

ロバート・B・パーカー『約束の地』読了。

本作『約束の地』は、1976年(昭和51年)に刊行された探偵小説である。

この年、著者は、44歳だった。

原題は「Promised Land」。

日本では、1978年(昭和53年)、菊池光の訳により、早川書房から刊行されている。

1976年度(昭和51年度)アメリカ探偵作家クラブ賞(MWA賞)最優秀長編賞受賞。

夫婦の危機からの救出

本作『約束の地』は、ロバート・B・パーカーの代表作「私立探偵スペンサー」シリーズ、四作目の作品である。

同時に、私立探偵スペンサーシリーズにおける最高傑作作品と言ってもいい。

初めてロバート・B・パーカーを読む人は、『約束の地』からデビューすると、まず裏切られることはない。

テーマ、プロットともに、非常に完成度の高い作品である。

本作『約束の地』は、推理小説ではない。

私立探偵スペンサーが活躍する探偵小説であり、ハードボイルド小説である。

おれは、声を震わせて話すのは無意味だ、と考えている。とにかく、探す気になる程度に、気にかけている。金のためにもしているわけだが、そんなことをしなくても収入は得られるんだ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

具体的なテーマは、夫婦関係とは何か?である。

依頼人(ハーヴィ・シェパード)の妻(パム・シェパード)が失踪した。

どうやら彼女は夫婦関係に疑問を抱いて家出をしたらしい。

「彼はあなたを愛してる?」たんなる軽蔑以上の激しい目つきで私を見た。(略)「そう、彼はわたしを愛してる。まるで、夫婦の間柄の基盤はそれ以外にない、と考えているかのように。<愛してるよ。愛してるよ。わしを愛してるか? 愛。愛> ばかばかしい!」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

夫の過剰な愛情表現は、妻にとって心理的な負担となり、彼女は表面的な夫婦関係に対する疑問を募らせていく。

「あーあ、わたしにはわからない」彼女がいった。「もう、なんの話をしているのかすら、わからなくなってしまったわ。わかっているのは、うまくいかなかった、ということだけ。ハーヴも、子供も、家も、事業も、クラブも、年をとることも、なにもかもうまくいかなかった」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

精神的に不安定な妻(パム)は、ウーマン・リブの活動家たちと関わり、重大な犯罪に巻き込まれてしまう。

「そして、ローズが、銀行は男性─資本家の象徴だ、といったの。そしたら、女たちの一人が、名前は知らないけど、黒人で、西アフリカ系と思える女が、資本主義自体が男性で人種差別だから、銀行は理想的な攻撃目標だ、といったの」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

自分が破滅の危機に瀕していることを理解したパムは、家出捜索人(スペンサー)に助けを求める。

「四十三歳にもなった自分が、人生で最悪のトラブルにはまり込み、後にも先にも一度しか会ったことがなくて、どんな人間であるかすらわかっていない男以外に、電話をかける相手がいない、誰一人いない」今では泣いていて、声が震えていた。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

ウーマン・リブ運動の犯罪者たちからパムを救出するという一つのストーリーが、ここにはある。

一方、妻に逃げられた夫(シェパード)もまた、事業の失敗により、極めて深刻な状態に陥っていた。

「われわれは、その造成地を <約束の地(プロミスト・ランド)> と名づけた。そして、会社の名前はプロミスト・ランド社だ」「プロミスト・ランド」私はピューと口笛を鳴らした。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

リゾート開発事業(レジャー住宅団地の開発)の危機を救うため、シェパードは悪質な高利貸し(キング・パワーズ)から多額の借金をしてしまう。

しかし、事態は悪化するばかりで、今では黒人の用心棒(ホーク)が、頻繁に彼の周辺に姿を現すようになっていた。

自分が当面している問題が、二つある。シェパードをキング・パワーズから解放し、パム・シェパードが強盗殺人犯になるのを防がなければならない。ばかな奴らだ。二人にはまったくうんざりした。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

家出した人妻を捜索するはずだったスペンサーの仕事は、いつの間にか、夫婦の危機からの救出という大きなテーマへと発展していた。

スペンサーとスーザンの関係

さらに、ハーヴィ夫妻のトラブルは、そのままスペンサー自身のトラブルとして跳ね返ってくる。

夫婦の関係について、男と女の関係について、話し合わなければいけないのは、スペンサーも同じだった。

彼にも、交際している女性(スーザン・シルヴァマン)がいたからだ。

「おれたちは結婚すべきだ、ということなのか?」「今のこの瞬間、わたしは、あなたを愛している、といって、なんらかの答えを待ってるの」「問題はそれほどかんたんじゃないんだ、スーズ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

ハーヴィ夫妻と同世代のスペンサーは、既にアラフォーの独身男性である(「彼女が自分と同年配であるらしいのに、私ははじめて気がついた」)。

わたしが思うのに、中年で女性で独身でいると、フェミニズム、なんなら女性の権利といってもいいけど、女対男ということを、考えずにはいられなくなるのね。そして、もちろん、その中に、あなたとわたしが含まれている」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

離婚経験のある恋人(スーザン)との関係は、非常にナーバスな問題だった。

「見た目ほどにはそれていないわ」スーザンがいった。「パムの夫が入ってる一隅にあなたが入っていない理由の一つは、彼の方は承知の上で危険を冒したからだわ。彼は結婚した。子供ができた。愛と夫婦関係から生じる危険を冒し、それに伴う妥協の必要性という危険を、あえて冒したのよ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

彼らは、ハーヴィ夫妻のトラブルを通して、自分たちの関係と向き合っていく。

つまり、本作『約束の地』は、ハーヴィ夫妻の夫婦間トラブルを描きつつ、スペンサーとスーザンが抱える不安定な男女関係をも描いている作品なのだ。

夫婦関係の問題は「男と女の問題」へと発展し、突き詰めると、それは「男とは何か?」という問題になる。

具体的に言うと、私立探偵スペンサーとは何者か?という自己探索だ。

スペンサーは、「男であること」を誇りにして生きている男だった。

彼女は首を振った。「そんなの通用しないわ。そんなのは、男性誇示(マチズモ)の因襲にすぎないわ。そのために、人は殺されるのよ、無意味な死をとげるのよ。人生は、ジョン・ウェインの映画じゃないわ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

状況が自分にとって不利になると分かっていても(人生がジョン・ウェインの映画ではないと知っていても)、スペンサーは、逃げることができない。

彼は、むしろ、自らトラブルの中へ飛びこんでヒーローになることを望んでいたのだ。

ホークがまた右に左に首を振った。「自分でわざわざ人生を複雑にしているんだ、スペンサー。おまえは、いろんなことを考えすぎるよ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

そこに、私立探偵スペンサーの魅力がある。

スペンサーが持っているものは、多くの男たちが持っていないものである。

「あのような生き方をしている男たちが何百万もいる。なにも話すことのない相手といっしょにテイブルを囲んで、いかにも親しそうな態度を装っている」スーザンがうなずいた。「男だけじゃないわ」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

それは、男たちが「男とは何か?」という問題について、考えなければならない時代だった。

なぜなら、女たちは「女とは何か?」という問題と真剣に向き合っている時代だったからだ。

ウーマン・リブの時代が、この物語の大きな背景となっている。

「約束の地」が意味するもの

ハーヴィ・シェパードの不動産事業「約束の地」は、夫婦関係の象徴として読むことができる。

長年ボストンに住んでいると、とにかく、ケイプ・コッドを神の約束の地と思いがちになる。海、太陽、空、健康、気楽で賑やかな仲間付き合い、ビールのコマーシャルを地でいく生活。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

幸福な夫婦関係というのは、あるいは、神の約束の地のようなものではないだろうか。

それにしても、あの二人はばか者だ。プロミスト・ランド、約束の地だと。呆れた話だ。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

スペンサーは、幸福な結婚生活というものに疑問を抱いている。

彼にとって、それは「約束の地」にも等しい幻想のように思われていたのだ。

「約束」私がいった。「何の?」「すべてだ。遠くから見ている時は、あの建物群は、なにを望んでいるにしろ、すべてを約束してくれる。あのように、空を背景にしていると、清潔な永遠の存在に見える。近くで見ると、まわりに犬の汚物が散らかっている」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

本作『約束の地』で作者が言いたかったメッセージが、スペンサーの言葉に集約されている。

遠くから見える摩天楼の美しさは、必ずしも現実のものではない。

職業安定所に駐車場があり、向きを変えるためにそこへ車を乗り入れた。安定所のオフィスに長い列ができて、一人の男が、手押車の上に縞模様の日除け傘を広げて、ホットドッグ、ジュースやコーラ、ポップコーン、ピーナッツを売っていた。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

実際の街は、失業者が溢れ、多くの人たちが行き惑っている。

つまり、夫婦も、人生も、遠くから見えるほどに美しいものではない、ということを、スペンサー(つまり作者)は主張したかったのではないだろうか。

スーザンが言うとおり、他人同士が一緒に暮らす結婚は、人生にとってひとつの冒険である。

ハーヴィ夫妻は、結婚という人生の冒険で、大きなトラブルに巻きこまれた。

それは、多かれ少なかれ、すべての夫婦が背負っているトラブルだ。

スペンサーは、どこかでアメリカの原風景を求めている。

何年か前に、私は、サミュエル・エリオット・モリソンの大部のアメリカ史を読んで、すっかりアメリカ史にとりつかれ、東部の植民地時代の復原史跡を車でまわったことがある。(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

文明が発展する以前、男は男として生き、女は女として生きていた。

男が男でなければ、それは、生き残ってはいけない時代だったのだ。

「簡単には説明できないんだ。それは、答えるのが面映い質問なのだ。なぜなら、誠実とか自尊心とか、ジョン・ウェインの映画につめこまれていることについて、話す必要があるからだ。たとえば、名誉とか」(ロバート・B・パーカー『約束の地』菊池光・訳)

名誉を重んじる男、私立探偵スペンサー。

あるいは、スペンサーも、また、不器用な男だったのかもしれない。

書名:約束の地
著者:ロバート・B・パーカー
訳者:菊池光
発行:1987/04/15
出版社:ハヤカワ文庫

ABOUT ME
MAS@ZIN
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。