旅行体験

森山大道「NORTHERN」1978年(昭和53年)の北海道という記憶の残像が甦ったとき

森山大道「NORTHERN」1978年(昭和53年)の北海道という記憶の残像が甦ったとき

森山大道『NORTHERN』読了。

本作『NORTHERN』は、2009年(平成21年)6月に図書新聞から刊行された写真集である。

この年、作者は71歳だった。

歌志内の「鮨 江戸屋」

歌志内の市街に「鮨 江戸屋」という寿司屋があった。

写真家の森山大道が、この寿司屋を撮影したのは、1978年(昭和53年)のことである。

その頃は歌志内にも国鉄の駅があって、歌志内駅と砂川駅との間を往復していた。

当時のことは、森山大道『犬の記憶』(1984)や『犬の記憶 終章』(2001)に詳しい。

四年前の初夏から盛夏にかけての三カ月間、僕は札幌にアパートを借りてひとりで住んでいた。ふたたび、僕自身が写真を撮る日々をとり戻すためというのが唯一の目的であった。(森山大道「犬の記憶」)

このとき、森山大道は40歳で、「正直に言って写真など撮れる状態ではなかった」というくらいに苦悩していた。

写真は彼から遠ざかりはじめていたし、彼自身もまた写真から遠のきつつあったのだ。

着いた六月の札幌は、冷えびえとした空気の中で淡紫色のライラックの花房が路地や家々の軒下でふるえているような寒さの日々であった。(森山大道「犬の記憶」)

札幌での拠点は、白石にあった。

地下鉄大通駅から東西線に乗って東に四つめの白石で下車、駅から歩いて七、八分の住宅地にそのアパート(商店の寮)はあった。(森山大道「犬の記憶 終章」)

「商店の寮」とあるのは、「お茶の土倉」のことである。

北海道の人には「♪だから土倉のお茶に決めてます~」のCMソングでも懐かしい、札幌のお茶屋さんだ。

「運よく、ぼくが当時レクチャーしていた御茶ノ水の写真学校の生徒が札幌の出身で、「うちの実家の会社の寮がいま空いてるんです。先生が本当に行くならどうですか」って、渡りに船だったね。その会社は北海道で一番大きい『土倉』ってお茶の会社だった」(森山大道「NORTHERN」)

三か月の北海道生活を、彼はただ一人きりで過ごした。

失語症と不眠症を抱えた写真家は孤独と戦いながら、ただ黙々とカメラのシャッターを押し続けていたという。

三ヵ月という期限つきで札幌にアパートを借りたぼくは、あの間、雨降りでさえなければ、とにかく自分の決めとして連日カメラを持って外出した。(略)バスに乗り列車に乗って北海道のあちこちを写し歩いた。(森山大道「犬の記憶 終章」)

当時の森山大道の写真は、青函連絡船で渡った函館の街から始まり、滞在地である札幌を拠点として、漁港の街・小樽や、産炭地域である夕張にまで広がっている。

時には、遠く釧路にまで一泊かけて撮影に出かけたこともあったらしい。

歌志内市は、夕張市や美唄市と同じように、炭鉱の街だった。

戦前は、後にベストセラー作家となる三浦綾子が、小学校の教員として勤務していたこともある。

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この街で、森山大道は(おそらくは)列車から降り立ち、カメラを持って駅前の市街地をぶらぶらと歩いたのだろう。

歌志内市街の飲食店街は、駅前通りから一本裏側へ入ったところにあった。

最盛期の1948年(昭和23年)に4万人を超えた人口は、1978年(昭和53年)の時点で既に1万人近くにまで減少していた。

『森山大道写真展 北海道ー序章』より『森山大道写真展 北海道ー序章』より

森山大道の写真には、「鮨 江戸屋」の看板がはっきりと写っている。

衰退期とはいえ、炭鉱町の寿司屋は、まだまだ元気だったのかもしれない。

今、「鮨 江戸屋」は廃墟となり、かつての残像だけが、そこにひっそりと佇んでいる。

写真の奥にある墓地へと続く坂道だけが、当時の光景を今に伝えているのみだ。

歌志内市の「鮨 江戸屋」歌志内市の「鮨 江戸屋」

炭鉱を失い、鉄道を失ったように、街は「鮨 江戸屋」を失った。

時代は(どうしようもなく)変わり続けていたのだ(遠い昔にボブ・ディランが歌ったように)。

「森山大道写真展 北海道」と写真集『NORTHERN』

『森山大道写真展 北海道ー序章』チラシ『森山大道写真展 北海道ー序章』チラシ

「鮨 江戸屋」の写真は、2009年(平成21年)の夏に美唄市で開催された写真展『森山大道写真展 北海道ー序章』に展示された。

『森山大道写真展 北海道ー序章』は、札幌市をはじめ、美唄市や夕張市で開催された巡回展である。

「森山大道写真展 北海道──序章」

会場:札幌宮の森美術館
会期:2009年6月26日(金)〜8月30日(日)

会場:夕張市美術館
2009年7月11日(土)〜8月23日(日)

会場:アルテピアッツァ美唄
2009年7月29日(水)〜9月28日(月)

会場:札幌PARCO
2009年9月12日(土)〜9月28日(月)

美唄市では、アルテピアッツァ美唄が会場となった。

展示作品も、美唄市を含む空知管内の炭鉱町で撮影された写真が中心となっている。

この頃、2009年(平成21年)から2011年(平成23年)にかけて、森山大道は、北海道を舞台に大きな仕事を仕掛けていた。

『北海道新聞』(2010年8月20日)の「現代かわら版」にも、森山大道が登場している。

『北海道新聞』(2010年8月20日)より『北海道新聞』(2010年8月20日)より

「夕張もそうなんだけど、見知らぬ遠い記憶がよみがえる感じがする」と、森山大道は記者の取材に答えている。

78年、倦怠感に陥り、自宅の壁に北海道の地図を貼り、「心の旅をしていた」という森山さんは、白石区に部屋を借り、全道各地へ足を運んだ。(「北海道新聞」2010/08/20)

写真家の仕事は、過ぎ去った過去を懐かしむことだけではない。

(いずれは過去となってしまう)現在を撮影することにこそ、写真家として最大の関心はあった。

当時と比べ「札幌以外の街にももうちょっと人がいましたよね。札幌だって、ビルの合間に昔風の北海道らしい住宅がたくさんあってね」と振り返る。「印象が強いのは、どこの駅前にも石炭が積んであったこと。人間の生活感がありました」(「北海道新聞」2010/08/20)

1978年(昭和53年)当時、石狩で写した少女の写真は巡回展に展示され、本人らしき女性が「私かも」と名乗り出る一幕もあった。

写真家は「写真は記録。やっぱり撮っておくもんだなぁって」と感慨深げに語っている。

この年、森山大道は道内各地で、新作を含む写真展『森山大道写真展 北海道─第2章/展開』を開催中で、道新にも写真撮影をする森山大道の姿が掲載された。

森山大道『NORTHERN』は、2009年(平成21年)に発売された(古い北海道の)写真集だった。

「まず近くのコーヒー屋でコーヒー飲んで、札幌駅かバスセンターに行って、その日のその時の気分でどこに行こうって決めて(略)。たまには一泊で釧路に行こうとか、函館に行こうとか。積丹半島の方に行ってみようとかね」(森山大道「NORTHERN」)

3か月の間、森山大道は、北海道の街を、ひたすらカメラで撮り続けた。

とにかくバスにはよく乗ったね。バスはどこでもさっと降りられるじゃない? それで半日以上撮って、夜食のパン買ってとぼとぼ帰ってきてさ。もうあとは長い長い夜のみよ」(森山大道「NORTHERN」)

歌志内から「鮨 江戸屋」が消えてしまったように、半世紀近い時間の中で、多くの街並みが消えていった。

写真集『NORTHERN』に収録されているのは、在りし日の北海道の姿である。

それは、現実世界には存在しない、記憶の中の街並みだ。

現在では、撮影することすら難しくなってしまったストリート・スナップによる写真表現が、そこにはある。

森山大道にとって「街」とは、すなわち、人々が生活している舞台のことだった。

人々が生活しているからこそ「街」なのであって、人間の営みのない街は、もはや「街」とさえ呼べないものだっただろう。

だからこそ、森山大道の写真では、街に生きる人々が、常に主役だった。

名もなき市民の日常生活を撮影することによって、森山大道の写真はリアリティを確立していたのだ。

今や、一般市民の姿を写真に撮ることは、すっかりと難しい時代になってしまった。

札幌パルコ『森山大道写真展 北海道ー序章』札幌パルコ『森山大道写真展 北海道ー序章』

「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれたコントラストの強い白黒写真は、記憶の中の残像に似ている。

札幌パルコの(オシャレな)ショーウィンドウに、森山大道のモノクロ写真が大きく貼りだされたときの印象は、凄まじいものだった。

現代の札幌に甦る「古い札幌」の記憶。

写真の印象を一層強烈なものとしているのは、「アレ・ブレ・ボケ」であり、強いコントラストの白黒写真である。

誰のものでもない森山大道の写真が、そこにはあった。

鮮烈な印象とともに残る記憶の断片。

森山大道のストリート・スナップは、あるいは、曖昧な記憶のように、街並みの姿を記録していたのかもしれない。

書名:NORTHERN
著者:森山大道
発行:2009/06/25
出版社:図書新聞

ABOUT ME
懐究堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。