音楽体験

村尾陸男『ジャズ詩大全(クリスマス編)』第二大戦前後に生まれたクリスマス・ヒット曲の歴史

村尾陸男『ジャズ詩大全(クリスマス編)』第二大戦前後に生まれたクリスマス・ヒット曲の歴史

村尾陸男『ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)』読了。

本作『ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)』は2006年(平成18年)11月に中央アート出版社から刊行された音楽解説書である。

この年、著者は64歳だった。

クリスマスは故国アメリカの象徴だった

1990年(平成2年)5月、最終的には全20巻となる『ジャズ詩大全』の刊行が開始された(他に「別巻」2巻あり)。

『ジャズ詩大全』は、ジャズの名曲を採りあげて、来歴や名盤などを紹介している。

何より魅力的だったのは、「日本語でジャズ詩を味わう!」というキャッチフレーズのとおり、ジャズ・ソングの歌詞の「日本語訳」が収録されているということだった。

NHKカルチャーラジオ現在放送中のジャズピアニスト村尾陸男氏が20年以上の歳月をかけ、スタンダードを中心に様々なアメリカンポピュラーミュージックの歌詞を、作詞作曲者のエピソードやその時代背景などを交え、発音や英文法に至るまで詳しく解説したシリーズがジャズ詩大全です。(中央アート出版社『ジャズ詩大全』公式サイトより)

つまり、『ジャズ詩大全』は、ジャズソングの詩集だったのだ。

著者は、ジャズピアニスト(村尾陸男)。

シリーズは、2010年(平成22年)の『ジャズ詩大全(20)』まで続いた。

別巻である『ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編』が最初に刊行されたのは、1991年(平成3年)12月である。

序文を阿川泰子が寄せている。

去年の末ですが、初めてクリスマス・ソングだけを集めて私はアルバムをつくったんです。たいていの歌手がクリスマス・アルバムをつくっているもんですから、私もそういうアルバムを出してみたいなあとは思っていたんです。(阿川泰子『ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編』序文)

阿川泰子のクリスマス・アルバム『カム・イン・クリスマス』は、1990年(平成2年)に発売されている(当時の阿川泰子は、 古舘伊知郎と共演のトーク番組『オシャレ30・30』で、非常に人気があった)。

『ジャズ詩大全』最初の「クリスマス編」は、しかし、充分なものではなかった。

前回クリスマス編は準備不足もあって曲数が少なく、一部の読者から不満の声も聴かれました。それで今回は曲数を倍以上の50曲に増やし、頁数も通常の巻より百頁ほど増え、このジャズ詩大全シリーズの中でも最もぶ厚い重い巻となりました。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

クリスマス・ソング50曲ということは、有名どころのもの(スタンダード)は、ほぼすべて網羅されているということになる。

例えば、世界中で最も有名なクリスマス曲「White Christmas」は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)のヒット曲だった。

作詞作曲はアーヴィング・バーリン、歌手はビング・クロスビー。

「ホワイト・クリスマス」は、太平洋戦線の兵士たちに故郷を彷彿させる歌として好まれ、年末のヒットチャート・トップを12週連続で占領した。

ちょうど戦争がヨーロッパだけなく、アジア、太平洋にまで拡大して、何百万というアメリカ人が海外や戦地でクリスマスを過ごすことになった、アメリカの歴史でも初めての事態、時期だったことが、この曲の上昇に拍車をかけた。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

ビング・クロスビーがフランスへ慰問に行ったとき、一人の軍曹が「『White Christmas』を歌う予定ですか?」と尋ねた。

「ああ、そのつもりだよ」とクロスビーが答えたところ、軍曹は「そう、それなら僕は出て行くよ」と言う。

「僕は仮設厨房の裏で聴くことにするよ。だって兵隊たちに軍曹が泣くのを見せるわけにはいかないからね」(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

多くの兵隊たちが、故郷を思って泣いた。

僕はホワイト・クリスマスを夢に見ている
以前よくみんなで楽しんだようなクリスマスをね

(ビング・クロスビー「ホワイト・クリスマス」村尾陸男・訳)

多くの歌手が、この曲をカバーしているが、ビング・クロスビー盤は1942年(昭和17年)から1962年(昭和37年)まで、20年間続けて(年末になると)チャート入りした。

特に、1942年(昭和17年)、1944年(昭和19年)、1946年(昭和21年)、1947年(昭和22年)には、チャート1位を獲得している。

エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」に抜かれるまで、ビング・クロスビー盤「ホワイト・クリスマス」は、世界中で最も売れたシングル・レコードだった。

「ホワイト・クリスマス」を超えてカバーされた曲に「ザ・クリスマス・ソング」がある。

「The Christmas Song」は、1946年(昭和21年)に発売された、ナット・キング・コールのヒット曲だった。

作詞はロバート・ウェルズで、作曲はメル・トーメ。

ロバート・ウェルズが、「ザ・クリスマス・ソング」の歌詞を書いたとき、季節は真夏だった。

「いや、まったくひどい暑さだね」と彼は言う。「だから、頭を冷やすような何かを書こうと思ってね。でも考えつくのはクリスマスと寒い天気だけさ」(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

完成された曲を聴いたナット・キング・コールは、すぐにこの曲に夢中になってしまったという。

レコーディングするまでに、それから丸一年もかかってしまったが。

さあ、もうサンタはこっちへ向かっている
橇におもちゃやたくさんの品物を山積みにして

そしてどのお母さんの子供もトナカイが本当に
空を飛べるかどうか今夜こそ見てやろうと思っているさ

(ナット・キング・コール「ザ・クリスマス・ソング」村尾陸男・訳)

1946年(昭和21年)に発売されたナット・キング・コールの最初のプレスには、歌詞の中で文法上の間違いがあった(単複同型の「reindeer」を「reinderrs」と歌った)。

次のレコーディングで誤りは修正されたため、最初のプレスはコレクターズ・アイテムとなっている。

クリスマス・ソングの歌詞の世界

「Blue Christmas」は、エルヴィス・プレスリーの曲として知られている。

しかし、最初に発表したのは、1949年(昭和24年)のアーネスト・タブだった。

「ホンキートンク・スタイル」を作った男として知られるタブの「ブルー・クリスマス」は、カントリー・チャートでトップを獲得するほか、ポップ・チャートでも上位にランク・インしている。

プレスリーが最初にこの曲を歌ったのは、1957年(昭和32年)のアルバム『Elvis’ Christmas Album』だった。

しかし、’57年は、プレスリーの質的にも量的にも最大のヒットと言える「Heartbreak Hotel」とか「Jailhouse Rock」とほぼ同時期で、有名にしたと言ってもプレスリーのヒットの中では小さい方かもしれない。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

1957年(昭和32年)に発売された『Elvis’ Christmas Album』は、放送禁止措置を取った教会圏もあるほど、賛否の論争が激しかった。

その後、1964年(昭和39年)に、今度はシングル・レコードとして発売された。

きみがいなければ僕には悲しいクリスマスさ
きみのことを想いつめて僕はとてもつらいよ

きみは雪がいっぱいの白いクリスマスでお楽しみさ
でも僕ときたら暗く悲しいブルーのクリスマスにどっぷりさ!

(エルヴィス・プレスリー「ブルー・クリスマス」村尾陸男・訳)

クリスマスが「白い」ものであるという「ホワイト・クリスマス」のイメージを定着させたのは、1942年(昭和17年)に発売されたビング・クロスビーの「White Christmas」だった。

とにかくこれは楽しく明るい唄が常識だったクリスマス曲の世界に初めて悲しいブルーな雰囲気をもたらしたことと、緑と赤、それに「White Christmas」の白が支配的な空間に新たにBlueの青を追加したことで、なにか独特で新奇な曲と言える唄である。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

1950年代のクリスマス・ナンバーと言えば、「ママがサンタにキッスした」も有名。

これはトミー・コナーの作品で、1952年のヒット・クリスマスである。イギリスではビヴァリー・スィスターズが歌い、アメリカではジミー・ボイドの歌が素朴な味を出してたいへん有名になった。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

近年は、ジャクソン5の曲として定着した感がある。

きのう僕はお母さんが宿り木の下で
サンタクロースにキスするのを見ちゃった

ああ、もし父さんがここにいてちらっとでも
母さんがサンタクロースにキスするのを見たら
ずいぶんと笑いこけたことだろうね

(ジミー・ボイド「ママがサンタにキスをした」村尾陸男・訳)

1963年(昭和38年)に発売された『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター』 には、ザ・ロネッツの録音が収録されている。

トラディショナルな雰囲気で知られる「The Little Drummer Boy」も、1958年(昭和33年)にシングルとして発表された、新しいクリスマス・ヒットソングだった。

ビング・クロズビィが「White・Christmas」などクリスマス曲を歌うTV番組は、1950、’60、’70年代にはクリスマスには欠かせない定番になっていたが、その彼の最後の出演となった1977年の番組で、彼とデイヴィド・ボゥイがこの曲を歌ったのが一つの記念碑となっている。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

チェコかスペインの(あるいはフランスの)メロディを引用しているらしいが、詳しい出自は分かっていない。

マリアさまはうなずいた、パ・ラパパンパン
牛も子羊もリズムをとった、パ・ラパパンパン

僕は彼のためにドラムをたたいた、パ・ラパパンパン
僕は最善をつくしてドラムをたたいた、パ・ラパパンパン

(ハリー・シメオン・コーラル「リトル・ドラマー・ボーイ」村尾陸男・訳)

歌詞の内容は、幼いイエスが誕生したとき、贈り物を用意することのできない貧しい少年が、聖母マリアの許しを得て、新生児(キリスト)のためにドラムを叩くという、敬虔なものだった。

日本では子どもたちのための童謡として有名な「Rudolph the Red-Nosed Reindeer」は、1949年(昭和24年)に発表された、戦後のクリスマス・ソングである。

邦名「赤鼻のトナカイ」で日本でもよく知られているこの曲は、最初はカントリー・ウエスタン歌手ジーン・オートリイが1949年に歌ってヒットした。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」

歌詞のヒントになっているのは、1939年(昭和14年)に配付されたモントゴメリー・ウォード社の子ども向け物語である(デパート社員ロバート・L・メイが書いた)。

この物語はたいへんな好評を博し、モントゴメリー・ウォード社は’39年にこれを240万部刷り、戦時の紙不足で以後増刷ができなかったが、戦後の’46年にまた刷ると今度は350万部以上もさばけた。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

著作権を獲得したメイは、ジョニー・マークスと歌を作るが、多くの歌手が、この曲を敬遠したと言う。

それには、サンタクロースはまだヨーロッパの一地域の(そしてまたキリスト教の一派の習俗と言うべき)話で、アメリカの多くの大衆には関係のないことだからという理由が働いていて、みなサンタクロースを敬遠したようだ。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

クリスマスにサンタクロースが定着するのは、1950年代に入ってからのことだった。

すると霧の濃いクリスマス・イヴの日だった
サンタがやってきて言ったのさ

ルドルフ、きみの明るい鼻で照らして
今夜は僕の橇を導いてくれないかい?

(ジーン・オートリイ「赤鼻のトナカイ」村尾陸男・訳)

ジーン・オートリイのレコードは、1949年(昭和24年)にチャート・トップを獲得、1953年(昭和28年)まで年末にチャート入りした。

「赤鼻のトナカイ」は「ホワイト・クリスマス」に次ぐ大きなクリスマス・ヒットとなり、500人以上のミュージシャンによってレコーディングされている。

戦前のサンタクロースの曲と言えば「Santa Claus Is Coming to Town」が有名だ。

’34年9月下旬の雨の日にヘイヴン・ギレスピはニューヨークの Leo Feist 楽譜出版社のエドガー・ビトナーに呼び出されて、子供向けのクリスマス曲の依頼を受けた。もう時間がなく遅いと彼は文句を言ったが、きみは子供向けの歌詞を書くのがとくにうまいからとおだてられて、結局押しきられてしまった。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

「ホワイト・クリスマス」も「ザ・クリスマス・ソング」も、定番のクリスマス曲は(多くの場合)真夏に作られている(時期的に遅いとクリスマスに間に合わない)。

歌詞の内容は、ヘイヴン・ギレスピの子ども時代の思い出に由来している。

「ヘイヴン、いつもいい子にしてないと、サンタはあなたのところに来てくれないのよ。いい子にしてなさい!」彼の頭の中でパーッと火花が飛んだ。あわててポケットから封筒を取り出して、彼はそれに殴り書きした。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

最初にレコーディングしたのは、1934年(昭和5年)のエディ・キャンターである。

さあ、気をつけるんだ、泣いちゃだめ、膨れっ面もだめ
なぜかって、サンタクロースが街にやってくるからさ

(エディ・キャンター「サンタクロースがやってくる」村尾陸男・訳)

ジャズ・ミュージシャンによる演奏としては、ビル・エヴァンスのアルバム『Trio 64』(1964)に収録されたものが有名(いわゆる「クリスマス・アルバム」ではない)。

ガイ・ロンバード楽団の「Winter Wonderland」も、1934年(昭和5年)に録音された作品である。

それは’34年末からチャートに入って、’35年1月に4位まで昇っている。そして、’46年に同じロンバード楽団でペリー・コモ、アンドルーズ・スィスターズ歌の盤が出て大きくヒットし、’49年にコモ盤が、’50年にアンドルーズ・スィスターズ盤がそれぞれ出てさらに大きなヒットとなり、クリスマスになると必ず聴かれるスタンダードとなった。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

もっとも、歌詞の中にクリスマスは登場しない。

橇の鈴が鳴っているね、聞こえるかい?
道には雪が輝いている

僕らは今夜とても幸せだ
悲しい鳥は行ってしまった
ここにとどまってくれるのは新しい鳥だよ

(ペリー・コモ「ウィンター・ワンダーランド」村尾陸男・訳)

作詞はリチャード・B・スミス、作曲はフェリックス・バーナード。

彼らは、この曲の本当のヒットを知ることなく、死んでしまった。

クリスマスの定番曲「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!」にも、クリスマスは登場しない。

これはサミー・カーンとジュール・スタインが1945年に書いた曲で、大きなヒットとなり、ヴォーン・モンロウの歌と彼の楽団のレコードが翌年チャートのトップを飾った。だが、歌詞にはクリスマスへの言及がなく、ただ漠然と冬を表現しているにすぎず、厳密にはクリスマス曲として意図されたものではなかった。(村尾陸男「ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)」)

作詞のサミー・カーン、作曲のジュール・スタインともにユダヤ系で、キリスト教徒のイベントであるクリスマスには、複雑な思いがあったらしい(「ホワイト・クリスマス」のアーヴィング・バーリンもユダヤ系だった)。

暖炉の火が少しずつ消えかかっているのに
僕らは、ああ、まだ別れを惜しんでいる始末だ

でも君が僕をしっかりと愛してくれるなら
雪が降ってもいいさ、雪よ降れ降れだ

(ヴォーン・モンロウ「レット・イット・スノー」村尾陸男・訳)

映画『ダイ・ハード』(1988)でも、ヴォーン・モンロー盤「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!」が、テーマ曲として使われている。

現在、スタンダードとして知られているクリスマス・ソングには、1940年代から1950年代の、第二次世界大戦前後に作られたものが多い(日本で言うと昭和前期)。

もちろん、「O Holy Night」(1855)や「Silent Night」(1818)など、19世紀のクラシカルな定番曲もある。

しかし、クリスマス・ソングが宗教的な意味から離れて、ポップ・カルチャーの世界で受容されるようになるのは、やはり、大戦前後のことだったと考えていいだろう。

クリスマスのスタンダード・ナンバーは、多くのミュージシャンにカバーされているので、一つの曲を聴き比べてみるという楽しみがある。

戦後には、多くのミュージシャンが「クリスマス・アルバム」を発売した。

フランク・シナトラの『A Jolly Christmas from Frank Sinatra』(1957)など、定番のアルバム1枚があるだけで、豊かなホリデー・シーズンを楽しむことができる。

本書は、楽しいクリスマス・ソングの世界を導いてくれる、クリスマス・ソングの教科書である。

書名:ジャズ詩大全(別巻)クリスマス編(増補改訂版)
著者:村尾陸男
発行:2006/11/20
出版社:中央アート出版社

ABOUT ME
懐新堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。