劇場の暗闇の中から「怖い」とつぶやく女の子の声が聞こえた。
うん、と僕は思った。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、確かに怖い映画だったからだ。
しかし、この映画の「怖さ」は、セイレーンの怖さだけにあるのではない。
本当の「怖さ」とは、我々が生きている、この世界にある。
【考察1】セイレーンは本当に「悪」なのか?
① ラッコ先生の討伐は本当に正しいのか?
劇中でハチワレが「ほんとに……正しいんだよね? 討伐するのが……」とつぶやく場面があった。
非力な島民を守るため、彼らは「強大な悪」としてのセイレーンと戦わなくてはならない。
自分たちの「討伐」を正当化できるほどの強固な理由を、彼らは持っていたのだろうか?
② 人魚を食べた犯人は誰か?
もともとは、偶発的な事故が原因だった。
釣りをしていた「ひとは」と「ふたば」のボートに、セイレーンの尻尾が衝突し、ふたばは瀕死の状態となってしまう(セイレーンは気づいていない)。
「フタバ」の命を救いたい「ヒトハ」は「永遠の命」を手に入れるため、人魚を殺し、その「煮付け」を「フタバ」に食べさせる。
セイレーンは人魚を殺した犯人を捜すために島民を襲い始め、平和だった島民の生活は、パニック状態になってしまう。
そのとき「正義の味方」として島にやってきたのが、ラッコ先生率いる「ちいかわ」の一隊だった。
③ ハチワレの言葉が意味していたもの
それは、些細な理由から始まった二国間の紛争に、第三国たる強国が介入する構図に似ている。
セイレーンにはセイレーン側の主張があり、島民には島民側の主張がある。
おいしいご馳走と高額報酬に惹かれて紛争に参加した「ちいかわ軍」に、本来、正当な理由はなかった。
「ほんとに……正しいんだよね? 討伐するのが……」(『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』)
ハチワレの言葉が、彼らの置かれた微妙な立場を象徴している。
そして、世界中で発生している紛争の多くは、そんな戸惑いの中で続けられているのかもしれない。
【考察2】映画の「最後の場面」を読み解く
① セイレーンとの戦いは終わりだったのか?
セイレーンとの戦いに勝った「ちいかわ軍」は、島民たちの宴会に招かれ、島二郎と一緒に楽しい酒を飲む。
そのとき、ラッコ先生が意味深な言葉をつぶやいた。
「本当に…これでおわりだろうか…」(『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』)
もちろん、彼らの戦いは終わりではなかった。
②「ヒトハ」と「フタバ」のその後
セイレーンは殺された人魚を敵を討たなければならないし、「ヒトハ」と「フタバ」はセイレーンによる追跡から逃げなければならない。
映画のエンドロールが終わったところで、「ヒトハ」と「フタバ」は新しい島に到着し、新しい生活を始める。
やがて、セイレーンが訪れるまで、彼らの平和な暮らしは一瞬しかないものだとしても。
③ 本当に悪いのは誰か?
人魚を殺した罪は償われなくてはならない。
そもそもの原罪は、人魚を食べて「永遠のいのち」を手に入れようとしたヒトハの欲望だった。
ヒトハの提案によって、彼らは「人魚釣り」に出かけ、セイレーンとの衝突事故に巻きこまれてしまう。
人魚を食べて「永遠のいのち」を手に入れようとさえ考えなければ、彼らは今も穏やかに暮らすことができていたはずだ。
そこに、人間の悲しさがある。
④「過ち」を償いながら生きていくということ
我々「人間」は、いつでも過ちを犯してしまう存在だ。
そして、我々は自分たちの「過ち」を償いながら生きていかなければならない。
本作『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』に描かれているのは、そんな人間たちの「罪と罰」である。
劇場で聴いた少女の言葉の奥にあるもの、それは、我々人間が生きているかぎり抱き続けなければならない「罪と罰への怖さ」だった。
まとめ│「ちいかわ」が語らなかったもの
本作『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は「怖い映画」である。
それは、我々人間が生きていることの怖さでもあった。
おそらく、主人公の「ちいかわ」は、その「怖さ」に気づいていたかもしれない。
その「怖さ」の正体は、曖昧な理由の中でも戦わなければならないという、彼らの存在意義だった。
(2026/08/03 05:58:45時点 楽天市場調べ-詳細)
***
文学ブログ『時空標本』では、小説のほか、映画や漫画の考察にも取り組んでいます。
詳細は、総合案内所「文学ブログ『時空標本』総合案内(インデックス)」からご確認ください。
