浜田省吾は俺たちの青春のサウンドトラック。
ピークは1986年(昭和61年)発売の『J.BOY』。
そして、アルバム『J.BOY』は、やっぱり当時のオリジナル音源で聴きたいよね。
浜田省吾を布教しまくった青春時代
あいみょんが「浜田省吾好き」っていうの聞いて唐突に思い出したんだけど、浜田省吾って俺たちの青春のサウンドトラックだったんだよなあー。
全然忘れてたよー。
どのくらい好きだったかっていうと、仲良くなった女の子みんなに、自分編集オリジナルの浜田省吾カセットテープあげるくらいには好きだった。
うぜー。
今だったら絶対ダメなやつじゃね?
引くわー。
当時の女の子たち、みんな優しかったんだなー。
だって、全然イヤな顔されなかったもの(たぶん)。
むしろ、「仲良しの女の子に浜省布教してる」って噂を聴いた女の子が、「私にも浜田省吾聴かせて」って言ってきたこともあったくらい。
まあ、今と違ってサブスクとかないから、音楽も貴重だったんだよね、あの頃は。
浜田省吾と俺たちの青春
我々世代の浜田省吾っていうと、小学生の時にカップヌードルの「風を感じて」で浜省と出会って、中学校の学校祭のバンドステージで「愛の世代の前に」やって、高校の学校祭のバンドステージで「MONEY」やってとかっていう感じ?
中高生男子がカバーするロックアーチストっていうと、とにかく浜田省吾だった(あと、ハウンド・ドッグ)。
そんな自分たちの浜省ピークは、1986年(昭和61年)の『J.BOY』。
当時は大学一年生だったけど、この年は本当に最高の浜省イヤーーだったな。
なにしろ、夏に「路地裏の少年」の12インチシングルが出て、秋に『J.BOY』が出てって、もう一年中浜省聴いてた感じだったからね。
部屋の中でもドライブ中でも、いつでも近くに浜田省吾。
浜田省吾は完全に俺たちの青春のサウンドトラックだったのだ、はっきり言って。
J.ROCKの名盤『J.BOY』の名曲
アルバム『J.BOY』は、オリジナル盤としては初めての2枚組アルバムで、とにかく名曲ぎっしりなんだけど、当時話題となったのは、2枚目のA面、いわゆるCサイドのラインナップ。
「19のままさ」「遠くへ – 1973年・春・20才」「路地裏の少年」の3曲は、昔作った曲をアルバムに収録したもので、青春の傷つきやすい感じがたっぷり。
今でも「19のままさ」とか聴くと胸がキュンとなる。
かと思うと、和製ブルース・スプリングスティーンらしい「八月の歌」とか「勝利への道」とかのタフなロックナンバーがあったり、フォークロックの名曲「AMERICA」があったりと、バラエティー豊か。
アルバムのタイトル曲「J.BOY」は、今でも浜省の代表曲となっている。
名曲「もうひとつ土曜日」は、シングルバージョンの方が好きだったけどね(あと、「BIG BOY BLUES」も)。
「Jなんとか」の始まり
「J-POP」とか、サッカーの「Jリーグ」とか、FMラジオの「J-WAVE」とかの「Jなんとか」って言い方、浜省的には自分がパイオニアだってことらしい。
確かに、1980年代後半以降、そんな言葉が流行したからね。
ただし、1979年(昭和54年)に発売された竹内まりやのアルバム『UNIVERSITY STREET』の中に「J-Boy」っていう隠れた名曲があることを忘れちゃいけない。
♪J-boy 踊りにも行かないで どうして過ごすつもり 一人のWeekend~、みたいなやつ。
作詞・作曲は、浜省とも仲の良かった杉真理。
まあ、爆発的にヒットして定着したのは、浜田省吾の『J.BOY』からだとは思うけどね。
ちなみに、専売公社が「JT」になったのは1985年(昭和60年)で、国鉄が「JR」になったのは1987年(昭和62年)。
つまり、昭和60年代っていうのが、そういう時代だったんだろうなあ。
浜田省吾の『J.BOY』はオリジナル盤で聴きたい
今はサブスクでも聴くことができる名盤『J.BOY』だけど、時々変なアレンジのやつが入ってたりする。
どうやら『J.BOY』30周年とかで発売された記念盤の音源らしいけど、リアルタイム派としては、『J.BOY』は当時の音源で聴きたい。
なにしろ、全曲歌詞カードなしで今でも歌えるくらいに、『J.BOY』が体の隅々まで染み付いているからね。
浜田省吾が、我々の青春を作ったんじゃないかと思われるくらいに。
好きだった女の子のこと、仲良しだった友だちのこと、喧嘩しながら付き合ってた仲間たちのこと──。
浜田省吾が、俺たちの青春のサウンドトラックだったんだ。
あいみょんから浜田省吾へとつながって、なんだか昔のことを、たくさん懐かしく思い出してしまった。
今年の夏は、久しぶりに浜田省吾の『J.BOY』を聴いてみようかな。
もちろん、あの頃のCD音源でね。