文学鑑賞

【徹底考察】サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』心の闇が深い若者たちの喪失感

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」心の闇が深い若者たちの喪失感を描いた都会派青春小説

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」読了。

本作「ナイン・ストーリーズ」は、1953年(昭和28年)に刊行されたサリンジャーの短編小説集である。

当時、サリンジャーは、29編の短編小説を発表していたが、その中からお気に入りの9編を選んで作品集とした。

『ナイン・ストーリーズ』は、サリンジャーにとって、最初で最後の短編小説集となった。

『ナイン・ストーリーズ』が刊行されたとき、サリンジャーは34歳だった。代表作『ライ麦畑でつかまえて』の刊行は1951年(昭和26年)。

『ナイン・ストーリーズ』の読み方

サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を読んで、「難しい」とか「意味不明」とか感じた人は、この短編小説集を、シンプルに考えるといいと思う。

例えば、僕は『ナイン・ストーリーズ』を次のように理解している。

それは、心の闇(喪失感)を抱えた若者たちが主人公の青春小説である、ということ。

「闇が深い人たちのための救済」ということが、この『ナイン・ストーリーズ』という短編小説集の、大きな特徴なのだ(極めて大雑把に言ってだけど)。

ここに収録されている9編の短編小説の主人公は、いずれも10代~20代の若者たちである。

そして、この若者たちは、いずれも行き場のない心の闇と大きな喪失感を抱え込んでいる。

彼らや彼女らは、ガラスのように壊れやすくて、繊細な心の持ち主であり、その心は痛々しいまでに傷つけられている。

小説のテーマは、彼らが、どのように生きていくか?ということにある。

『ナイン・ストーリーズ』は、細部の描写が非常に緻密で具体的だ。

ついつい細部に注目してしまう。

だけど、細部にとらわれすぎると、物語の全体像が見えにくくなり、小説そのものが「難しい」ように思えてしまう危険性がある。

だから、『ナイン・ストーリーズ』を理解するには、あえて、その骨格となるストーリーを把握することに集中した方がいい。

細部を考えるのは、その後でも遅くはないだろう(「バナナフィッシュとは何か?」「テディの結末の意味は?」など)。

『ナイン・ストーリーズ』を読むときは、細部を楽しみつつも、全体のストーリーをしっかりと意識した方がいい。

ヒント(=鍵)は巻頭に掲げられたエピグラフだ。

両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに? ──禅の公案──

これは「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」という禅の公案である。

両手の鳴らす音は知っているが、片手で鳴らす音は、どんな音か?

そんなの聴こえるわけがない。

しかし、聴こえないから、すなわち、音がない、ということでもない。

要は「理屈で考えるな」ということ、らしい。

あまり難しいことは考えずに、まずは感覚で、この短編小説集を味わってみてはいかがだろうか。

ちなみに、「隻手」(せきしゅ)とは片手のことで、「禅の公案」については、ひろさちや「公案解答集(ウルトラ禅問答)」に詳しい。

『ナイン・ストーリーズ』は、主にニューヨークが舞台となっている。

洗練された都会的な作品が多いことも、この短編小説集の大きな魅力と言えるだろう。

なお、『ナイン・ストーリーズ』の翻訳は、定番・野崎孝や新訳・村上春樹など数多いので、読み比べてみるのも楽しい。

バナナフィッシュにうってつけの日

『ナイン・ストーリーズ』収録作品中、最も古い作品であり、『ナイン・ストーリーズ』で最も有名な作品である。

と同時に、『ナイン・ストーリーズ』を難しいと感じてしまう最大の理由は、この作品が一番始めに配置されているからだろう。

「<シーモア・グラース>はなぜ自殺したのか?」という疑問を解明することは簡単ではない。

サリンジャー自身、その謎を解くために、この後の小説を書き続けたとさえ言われているのだから。

この作品は、ともすれば<バナナフィッシュ>に気を取られてしまうが、<バナナフィッシュ>は、さほど重要なキーワードではない(と考えておく)。

大切なことは、シーモアの持つ「喪失感」に寄り添うことができるかどうかだ。

シーモアが、戦争で精神に異常を来した若者であることは、文脈から容易に理解できる。

彼が、自分の異常を正式に理解したのは、幼い少女<シビル>が「バナナフィッシュを見つけた」と発言したときである。

浮袋がふたたび水平になると、シビルは濡れてぺったり目にかぶさった髪の毛を片手で払いのけ「いま一匹見えたわよ」と、言った。「見えたって、何が?」「バナナフィッシュ」(J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」野崎孝・訳)

シビルが、存在するはずのない「バナナフィッシュ」を見つけたと言ったとき、シーモアは、そこに自分自身の異常を認めた。

前段で、シビルは「もっと鏡見て(シーモア・グラース)」と繰り返しているが、まさに、シビルは、シーモアにとっての鏡だったのだ。

純真無垢のはずの少女が、シーモアの異常を映し出したとき、ひび割れたシーモアの心は砕け散るしかなかったのかもしれない。

コネティカットのひょこひょこおじさん

この作品も、タイトルに引っ張られてしまいがちだが、「ひょこひょこおじさん」は決して重要なキーワードではない。

この小説で孤独を抱えているのは、もちろん、夫や娘と一緒に暮らす<エロイーズ>だ。

なぜ、独身女性の<メアリ・ジェーン>ではなく、家族ある人妻のエロイーズが孤独でなければいけないのか。

エロイーズの闇は、彼女が人妻であり、母親であるが故に描かれるものである。

愛した男を戦争で亡くし、それほど愛していない男と結婚したエロイーズは、妄想彼氏と一緒に暮らす幼い娘<ラモーナ>に、自分の孤独を発見する。

ラモーナの孤独は、エロイーナ自身の孤独でもあった。

ただ、大人のエロイーナは、幼いラモーナのように、自分の孤独をうまく表現することができなかっただけなのだ。

「かわいそうなひょこひょこおじさん」何度も何度も繰り返して彼女はそう言った。それからようやく、眼鏡をもとのテーブルの上に戻した、レンズを下にして。(J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」野崎孝・訳)

「かわいそうなひょこひょこおじさん」は、もちろん、エロイーナ自身のことである。

彼女が人妻であり、母親であるだけに、彼女の孤独の闇は、一層に深いものとして描かれている。

対エスキモー戦争の前夜

「対エスキモー戦争の前夜」の主人公は、<セリーナ・グラフ>ではない。

彼女の兄<フランクリン>こそが、闇を抱えた若者であり、この小説の主人公でもある。

「うちの姉、どんな顔してるか言ってごらんなさいよ」ジニーは繰り返してそう言った。「自分で思ってるのの半分も美人だったら、まあ運がいいほうだな」と、セリーナの兄は言った。(J.D.サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」野崎孝・訳)

一見主人公とも思われる<ジニー・マノックス>が物語の語り手に過ぎないことは、すぐに理解できるだろう。

著者は、初対面のジニーとの会話を通して、フランクリンの持つ喪失感を浮き彫りにさせている。

何より重要なことは、「対エスキモー戦争の前夜」という作品タイトルである。

フランクリンが何気なく語った「エスキモーとの戦争」という言葉に、彼の闇が見える(それは、つまりアメリカ社会への不信感だ)。

そして、彼の心を救済したのも、15歳の女子高生ジニーだった(だから、彼女の精神的な成長も、テーマの一つと言える)。

笑い男

短編小説「笑い男」には、二つのストーリーがある。

コマンチ団の団長である<ジョン・ゲザツキー>が、絶世の美女<メアリ・ハドソン>に失恋してしまうという物語がひとつ。

もうひとつは、その団長が子どもたちに話して聞かせる<笑い男>の物語だ。

団長の語る<笑い男>は、もちろん団長自身でもある。

「あたしにかまわないで」と、彼女は言った。「お願いだから、ほっといてちょうだい」私はまじまじと彼女を見つめたが、それからその場を離れてウォリアーズのベンチに向った。(J.D.サリンジャー「笑い男」野崎孝・訳)

劇中劇として描かれている「笑い男」の物語は、団長自身の姿(自我)が投影されたものとして読むことが自然だろう。

恋人に裏切られた団長と、宿敵に裏切られた笑い男の悲しみ。

悲惨な結末を語らざるを得なかった団長の姿を目の当たりにして、少年たちは大人の孤独を知ることになる。

笑い男の悲惨な最期に、団長の絶望感を感じないではいられない。

小舟のほとりで

社会からの疎外感を抱えて生きるニューファミリーの姿が、静かに描かれている。

主人公は、もちろん、25歳の母親<ブーブー・タンネンバウム>だが、彼女は、息子<ライオネル>との会話を通じて、タンネンバウム一家の孤独を浮かび上がらせている。

「残念だわ」しまいに彼女はそう言った。「きみの舟に乗りたくてたまんないんだけどなあ。きみがいないと淋しいんだもの。会いたくてたまんないの。一日じゅうおうちの中で一人ぽっちだったのよ、話相手もなくて」(J.D.サリンジャー「小舟のほとりで」野崎孝・訳)

この作品は、他の作品に比べるとストレートな感じが強い(分かりやすい)。

嫌な女中たちが主人一家の陰口(ユダヤに対する人種差別)を叩いているが、それは、社会の闇をあぶり出すものでもあった。

エズミに捧ぐ─愛と汚辱のうちに

個人的には、『ナイン・ストーリーズ』の中で、一番好きかもしれない。

主人公の青年は、戦争のPTSD(トラウマ)に苦しんでいる。

あるとき、彼は、戦場へ赴く前に一度出会っただけの、13歳ぐらいの少女<エズミ>から届いた手紙を発見する。

それは、何度も転送されて、ようやく彼の元へと届けられたものらしい。

エズミは、彼の無事を祈っており、手紙には、彼女の父親の形見である腕時計が同封されていた。

ガラスの壊れた腕時計を見ながら、主人公は、PTSDの苦しみから解き放たれたように、心地良い眠気を覚える。

エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機──あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。(J.D.サリンジャー「エズミに捧ぐ」野崎孝・訳)

「バナナフィッシュにうってつけの日」で拳銃自殺したシーモアと異なり、主人公は、壊れた腕時計に復活への希望を感じている。

どのような汚辱も、純粋な愛によって救われる可能性があるのだ。

愛らしき口もと目は緑

主人公<アーサー>は、妻<ジョーニー>の帰りを待っている。

今夜も、ジョーニーは、どこかの男と浮気をしているのではないだろうか。

信頼できる友人<リー>に電話をかけて、自分の苦しみを打ち明けると、リーは「安心して眠れ」と慰めてくれる。

しかし、アーサーの妻ジョーニーは、今、リーのベッドの中だった。

「あの人なんと言ってた?」すかさず女が尋ねた。男は灰皿から自分の煙草を取った──というより、吸殻や吸いさしがいっぱい溜った中から選り出したのである。男は一口吸ってから「一杯やりにこっちへ来たいとさ」(J.D.サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」野崎孝・訳)

電話を切った直後、再び、アーサーからの電話が鳴り、アーサーは「たった今、ジョーニーが帰ってきた」と告げる。

嫁が、他の男に寝取られていることを、アーサーは否定したかったのだろうか。

あるいは、アーサーは錯乱状態にあったのかもしれない。

不安と嫉妬が、彼を深い闇の中へと誘い続けていた。

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

若き日のピカソは、貧困に苦しむ人々を青い絵の具で描いた。

俗にいう「青の時代」である。

主人公の<ド・ドーミエ=スミス>(偽名)は、経歴を偽って、美術通信講座の教師の仕事に就くが、そこで彼が見たものは、ストラップレスの水着の写真を同封してきた23歳の主婦の描いた作品や、教会の牧師によってレイプされようとしている巨乳の若い女性を描いた、56歳の男性の作品など、いかにも低俗な作品ばかりだった。

私の生涯で最も幸福だった日は、もうずいぶんの昔、私が十七歳のときでした。そのとき、私は母と待ち合せの昼食を共にしに行くところでした。母はその日長い病気の後の初めての外出だったのです。(J.D.サリンジャー「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」野崎孝・訳)

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」は、『ナイン・ストーリーズ』の中で、ここまで続いてきた一連の作品と趣きを異にする作品だ。

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」で主人公は、イノセントな修道女<シスター・アーマ>からの激しい拒絶を受けた後で、天の啓示を得る。

テディ

『ナイン・ストーリーズ』の最後に収録されている「テディ」は、この短編小説集の中で、とりわけ異質の作品である。

だから、この作品は、<テディ>ではなく、<ニコルソン>という青年の視点から読んだ方が分かりやすいかもしれない。

船旅の船上で、ニコルソンはテディという少年と出会う。

テディは、輪廻転生を知る神秘的な少年だった。

ニコルソンは、テディと自分たちとの感覚の違いに戸惑う。

「しかし彼らはぼくやブーパーを──ブーパーってのは妹だけど──そんなふうには愛してくれないんだな。つまり、あるがままのぼくたちを愛することはできないらしいんだ。ぼくたちをちょっとばかし変えないことには愛せないらしい。彼らはぼくたちを愛すると同時にぼくたちを愛する理由を愛してるんだ」(J.D.サリンジャー「テディ」野崎孝・訳)

要約すると、頭のイカれた少年が、ニコルソン(つまり世の中の)の既成概念をぶち壊すという物語である。

この作品で、ニコルソンは闇を抱えた若者としては描かれていないから、闇を抱えているのは、彼が生きる社会全般ということになる。

テディは、闇を抱えた社会そのものを否定してみせるのである。

この作品は、『ナイン・ストーリーズ』が刊行される、わずか2か月前に発表された小説である。

『ナイン・ストーリーズ』の大きなテーマである「隻手音声」を、最も具現化している作品と言えるだろう。

まとめ

結論を言えば、『ナイン・ストーリーズ』は非常に素晴らしい短編小説集である。

ただし、「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」と「テディ」の2作品が異質であることには留意しなくてはならない。

『ナイン・ストーリーズ』は、作品の発表順に収録されているので、終わりの2篇は、作家サリンジャーの変化と読み取ることもできる。

最初の「バナナフィッシュにうってつけの日」が1948年(昭和23年)で、最後の「テディ」が1953年(昭和28年)、単行本『ナイン・ストーリーズ』の刊行も1953年(昭和28年)。

戦勝国アメリカにおいても、戦争のトラウマを抱えて多くの若者たちが苦しんでいた。

孤独な闇を抱えた若者たちにとって、『ナイン・ストーリーズ』に収録された作品は、救いのような小説だったのではないだろうか。

あと、ちなみにだけど、『ナイン・ストーリーズ』は深読みするのが楽しい小説でもある。

どうせ正解はないので、好きなように解釈して読んでみるも楽しいと思う。

書名:ナイン・ストーリーズ
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。