中村明「日本の作家 名表現辞典」読了。
本書は、2014年に刊行された文体論の辞典である。
小沼丹15編、井伏鱒二12編、永井龍男8編、庄野潤三6編
文体論とは何か?
文学と言語学の架け橋とされるこの文体論は、文系の頭で心に描く文章の美を、理系の頭で表現の言語的な在り方として解き明かす学問だと言えないことはない。(略)だが、文体論は作家や作品の文章特性をあぶり出し、全体的な評価までは踏み込まない。名文例として切り取って示せる箇所を掲げ、それを名文たらしめている言語としての表現の働きを分析してその効果を味わう。本書の目的は、そういう名表現の鑑賞のなかで、ことばが文学となるふしぎな瞬間に立ち会うことにある。(中村明「日本の作家 名表現辞典」)
名表現で書かれた小説が、必ずしも素晴らしい小説になるとは限らない。
小説とは、文章以外の要素に左右される部分が大きいものだからだ。
一方で、良い小説の陰には、必ず名表現があると言っていい。
本書では98人の作家から全212編の文学作品を採りあげて、「文体論の実践例」を紹介している。
素晴らしい日本語表現の作品ばかりだから、この辞典をブックガイドとして活用することも可能だろう。
本書で紹介されている作家の中で、最も引用作品数の多いのは、小沼丹15編で、井伏鱒二12編、永井龍男8編、庄野潤三・夏目漱石・川端康成・内田百閒の6編と続く。
いわゆる文豪と呼ばれる作家ではなく、特別のストーリーを持たずに人生の瞬間をさりげなく描いた作家たちの作品が多いのは、どうやら著者の文学的な好みということらしい。
ちなみに、人気作家では、芥川龍之介3編、太宰治4編、三島由紀夫1編、村上春樹2編などで、大江健三郎や安部公房などの作品は入っていない。
日本語表現と小説の価値観とは、必ずしも一致しないということだろう。
現代的とは言えない福原麟太郎の作品が4編も入っているところにも、本書の真意が感じられるのではないだろうか(個人的に非常にうれしい)。
小沼丹と庄野潤三の文学を読み解く
注目すべきは、最多15編の作品が紹介されている小沼丹だろう。
師の井伏鱒二に比べて、決して多作とは言えなかった作家の、どのような部分が評価されているのだろうか。
例えば、名作として名高い随筆「汽船」についての考察は、次のようになっている。
そして、今では「僕の記憶の片隅に細ぼそと名残を留めているに過ぎない」と来る。読者がしんみりと沈みかけるところに、「生きているとしても、もともと婆さんに見えたからいまでもたいして変ってはいないだろう」というユーモラスな救いの一文が投げ込まれる。それによって作品にほんのり赤みがさし、ほのぼのとした雰囲気が流れる。(中村明「日本の作家 名表現辞典」)
文体論では、小説を一つ一つの文章に解体した上で、文章と文章とのつながりに価値を見出していく作業を行っている。
解体と再構築の作業の中で、「生きているとしても、もともと婆さんに見えたからいまでもたいして変ってはいないだろう」という一文の価値が証明されていくのだ。
小沼丹の盟友・庄野潤三では、代表的中篇「絵合せ」に対する考察がいい。
すべて日常の平易な生活語で書かれている。そんな中に、難しい感じで浮き彫りにされた単語、「炬燵」は庄野文学の大事にする季節感、もう一つの「皺」はこの場面の小主題で、ともに子供でも知っている日常語である。文字も単語も言いまわしも構文も、難解なものは何もない。もう少し神経質だった『静物』の頃に比べて表現も成熟し、自然にほほえまれるしなやかな文章になっている。(中村明「日本の作家 名表現辞典」)
僕が庄野文学の沼にハマった理由は、まさしく「すべて日常の平易な生活語で書かれている」ところにあったのではなかっただろうか。
小利口な文学表現を駆使する現代の作品に慣れた目に、庄野潤三の小説は、本当に革命的とさえ思われるくらいに平易で普通の文章で書かれていたのだ。
今も、僕はいろいろな作家の作品を読んで、少し疲れたかなと感じたときなど、庄野さんの小説を息抜きに読むことが多い。
「チルアウトの文学」があるとすれば、それは、庄野潤三の作品だろう。
書名:日本の作家 名表現辞典
著者:中村明
発行:2014/11/26
出版社:岩波書店