文学鑑賞

サリンジャー「シーモア ─序章─」自殺したシーモアの思い出とバディの作家的苦悩

サリンジャー「シーモア ─序章─」あらすじ・感想・考察・解説

サリンジャー「シーモア ─序章─」読了。

本作「シーモア ─序章─」は、1959年(昭和34年)6月『ザ・ニューヨーカー』に発表された中篇小説である。

この年、サリンジャーは40歳だった。

作品集としては、1963年(昭和38年)1月にリトル・ブラウン社から刊行された『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』に収録されている。

日本では、1970年(昭和45年)4月、井上謙治の翻訳によって、河出書房新社から刊行された。

シーモアの思い出とバディの作家的苦悩

本作「シーモア ─序章─」は、グラス家の次男<バディ>が、11年前に30歳で自殺した兄<シーモア>のことを、ひたすらに回想する物語である。

シーモアの自殺のことは、短篇小説「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』収録)に書かれているとおりだが、グラス家にとって、シーモアがいかに重要な存在であったかということが、この物語では、バディの語り口によって粘り強く紹介されている。

同時に、この作品は、作家として苦悩するバディの姿を描いた物語でもある。

シーモアの思い出について語りながら、その作家的苦悩を剝き出しにするバディの姿は痛々しいほどだ。

本作の構成が、バディの作家的苦悩から始まり、シーモアについての長い回想を挟んで、バディの作家的苦悩で終わることを考えると、本作の主人公は、意外とシーモアではなく、物語を綴っているバディ自身なのかもしれない。

わたしにはわかっている──いつもというわけにはいかないがわかっている──あの恐るべき三百七番教室に行くこと以上に重要なことは、何もないのだということを。あの教室にいる娘たちは、あの恐るべきミス・ゼイベルも含めて、みんなブーブーやフラニーと同じように、わたしの妹なのである。(サリンジャー「シーモア ─序章─」井上謙治・訳)

物語の最後の場面で、バディは「あの教室にいる娘たちは、あの恐るべきミス・ゼイベルも含めて、みんなブーブーやフラニーと同じように、わたしの妹なのである」との結論に至る。

それは、『フラニーとゾーイー』の終わりに、ゾーイーの言う「太っちょのオバサマ」によって救われることになるフラニーの姿に似ているような気もする。

きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)

バディもまた、シーモアの回想をひたすらに綴ることで、自分自身を救出しようとしていたのかもしれない。

もしかすると、シーモアの記憶を述懐することは、バディにとって、祈ること(念仏を唱えること)と同じような意味を持っていたのだろうか。

解き明かされるグラス・サーガ

本作『シーモア ─序章─』では、シーモアとグラス家に関する非常に多くのエピソードで構成されている。

情報量は膨大で、小説としての構造を分析することも難解なくらいに話が入り乱れている。

しかし、どのエピソードも、シーモアやグラス家を語る上で欠かすことのできないものであり、どれだけ話が錯綜しても、決して飽きるということがない。

いろいろな逸話が組み込まれている中、とりわけ印象的なのは、夕闇の中でビー玉遊びをしている8歳のバディに、10歳のシーモアがアドバイスを与えるシーンである。

「そうむきにならないで狙ってごらんよ」と彼はそこにまだ立ったまま言った。「ねらって相手のビー玉に当てたって、それは単なる運だよ」(サリンジャー「シーモア ─序章─」井上謙治・訳)

シーモアは、日本の弓道の達人が、無心に的を打ち抜く悟りを、10歳にして本能的に理解していたのだ。

早熟なシーモアの様子は、短編小説「テディ」(『ナイン・ストーリーズ』収録)においても再現されている。

数年前、わたしは大西洋航路の船に乗っている「天才的」少年について、異常に心につきまとう、忘れがたい、不愉快な議論をまきおこした、完全な失敗作である短編小説を発表したが、その中にこの少年の目について詳しい描写があった。(サリンジャー「シーモア ─序章─」井上謙治・訳)

本作『シーモア ─序章─』では、「テディ」の作者がバディであることが明かされ、異常な天才少年テディのモデルが、シーモアであったことにも言及されている。

ちなみに、本作『シーモア』では、「バナナフィッシュにうってつけの日」や「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」も、バディの作品であったことが明示されている。

もちろん、バディのモデルは著者(サリンジャー)自身であり、シーモアは完全に空想の産物にすぎない登場人物なのだが、『シーモア』を読んでいると、バディ・グラスやシーモア・グラスが本当に実在したかのような錯覚に陥ってしまう。

だから、僕は、この作品(『シーモア』)を小説としてではなく、むしろエッセイとして楽しく読んだ。

実在の作家バディが、かつて実在していた兄シーモアについて書いた回想のエッセイとして。

小説的に理解しようとさえしなければ、脈絡のない構成も、展開のないストーリーも、気に障ることはない。

物語が終わってしまったときには、「もっと読みたかった」という気持ちになって、再び最初のページから読み始めたくらいである。

グラス・サーガを理解するためには、必ず読まなければならない名作と思う。

作品名:シーモア ─序章─
著者:J.D.サリンジャー
訳者:井上謙治
書名:大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-
発行:1970/04/15
出版社:河出書房新社

 

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。