ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー―生涯91年の真実」読了。
本書は、サリンジャーの死後に刊行された、作家初の本格的評伝である。
原題は『J.D.Salinger:A Life Raised High』。
2012年度ヒューマニティーズ・ブック賞受賞。
ダニー・ストロング監督、ニコラス・ホルト主演の映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』(2017)は本書が原作。映画もおすすめ。
サリンジャー文学の教科書ガイド
本書『サリンジャー―生涯91年の真実』は、伝記として興味深いものであるだけでなく、読み物として非常におもしろい作品である。
著者のケネス・スラウェンスキーは、在野のサリンジャー研究者で、率直に言って、かなり熱心な「サリンジャー・マニア」らしい。
伝記作家ではない本気のマニアが本気で書いている評伝だから、おもしろくないはずがない。
相当に分厚い本だけど、あっという間に読み切ってしまった。
本書最大の特徴は、作家の経歴を辿りつつ、サリンジャー作品の詳細な読解を試みているところにある。
サリンジャー文学には、自伝的作品が少なくないと言われているが、著者は、サリンジャーの単行本のみならず、単行本未収録の初期短編や未発表作品まで網羅的に紹介しながら、作品と作者の人生と関わりを丁寧に読み解いている。
例えば、「第二次大戦後が生んだ最高傑作のひとつ」と評される名作短編「エズメに──愛と汚れをこめて」では、サリンジャーの戦争体験が如実に反映されている。
作者がもっと深く自分自身を見せているのは、物語の時期設定、出来事、舞台設定などではなく、登場人物の情緒的、精神的な姿勢を、自分自身と個人的に結びつけているところなのだ。他人への同情心を失わないでいたい、と言ったエズメのティールームでの言葉は、サリンジャー自身の言葉の再現だった。1944年の春、デヴォンでDデー侵攻を待っていたとき、彼はまわりの人たちに冷たくしないで同情的になろうという、まったく同じ決意を表明していた(※ソースはサリンジャからウィット・バーネットへの書簡)。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー―生涯91年の真実」田中啓史・訳)
サリンジャー文学を、まともに理解しようと思ったら、作家の経験を知ることが必須になる。
その意味で、本書は、サリンジャー文学を愛する人たちにとって、素晴らしい教科書ガイドになってくれるのではないだろうか。
文学を読み解くヒントは評伝の中にある
本書は、サリンジャーの死後に刊行されているので、晩年のサリンジャーに関する記述も充実している。
例えば、イアン・ハミルトンが『サリンジャーをつかまえて』を出版しようとしたときの法廷闘争。
裁判は最高裁に持ち込まれたが却下され、サリンジャー有利の判決が決定した。こんにちまで、『サリンジャー対ランダムハウス社裁判』は合衆国の著作権法の基本とみなされ、全国の法学生に必須の学習対象となっている。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー―生涯91年の真実」田中啓史・訳)
もっとも、社会的注目を集めたこの裁判は、結果的に高い宣伝効果をもたらすこととなり、『サリンジャーをつかまえて』の売り上げは何倍にも伸びたらしい(そりゃそうだ)。
ジョアンナ・ラコフが『サリンジャーと過ごした日々』(マーガレット・クアリー主演で『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』として映画化された)に書いた、「ハプワース」出版騒動のエピソードもおもしろい。
1996年、30年の沈黙のあとで、サリンジャーが「ハプワース16、1924」をハードカバーで出版するという驚くべき決断をしたというニュースが、文学界に波紋を広げた。この中編小説の権利をあたえるに際して、彼は大手の出版社を無視し、オーキシズ出版というヴァージニア州アレクサンドリアにある無名の出版社を選んだ。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー―生涯91年の真実」田中啓史・訳)
「ハプワース」出版を巡るオーキシズ出版とサリンジャーとのトラブルについては、『サリンジャーと過ごした日々』の方がずっと詳細で生々しい。
ただ、サリンジャーの生涯に渡るエピソードを網羅しているという点で、『サリンジャー―生涯91年の真実』が素晴らしい評伝であることに変わりはないだろう。
サリンジャー作品を読むときは、常に手元に置いておきたい。
そのとき、サリンジャーはどのような状況の中で、どんなことを考えながら小説を執筆していたのか。
文学を読み解くヒントが、この評伝の中にある。
書名:サリンジャー―生涯91年の真実
著者:ケネス・スラウェンスキー
訳者:田中啓史
発行:2013/08/10
出版社:晶文社